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僕のafter.311 《9》船や車がゴロゴロ転がっている風景

南相馬の実家は思ったよりも無事だった。築40年になろうかという物件は柱も多く、倒壊せずに住んだらしい。それでも、二階の窓が歪んで開け閉めができなくなってしまったり、トイレの水道管が壊れてしまい、修理が必要だったと母は言っていた。
ガイガーカウンターはまだ一般には普及しておらず、そもそもどれだけの放射線量が舞っているのかわからなかったことに加え、その数値を言われても僕も家族もちんぷんかんぷん。ベクレル?シーベルト?1ミリって高いの?そんなことより、目に見える津波被害の方が深刻に思えた。

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早速、母の車で国道沿いを相馬に向かって走った。国道6号線は海からは大体2〜3キロメートルは離れている。その道路沿いに船がゴロゴロ転がっている不思議な光景。そして道路を挟んで海側は見事に何もない。ところどころ、家の残骸や埋まった車などいわゆるガレキが固まっているだけ。


「うそだろ」

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見たことも、想像したことすらもない景色だった。まだ国道より海側へは車で行くことは難しいところが多かった。僕が通っていた原町第二中学校は僕の住む原町駅近くから、海までの広い学区だった。
中学時代、自転車に乗って海まで友達と遊びに行った。
家が海の目の前にあるなんて羨ましいと友人に言った。
大きな滑り台のある公園で遊んだ。
車を手に入れた免許取立ての先輩に乗せられて浜街道をドライブした。
高校の同級生で集まって夏の海で花火をした。
そんな景色が全てなくなってしまった。
あの景色は思い出の中でしかもう見ることができない。

3号機が爆発した3月14日、僕は「故郷がなくなる」と危機感を抱いたが、実際にすでに故郷はなくなっていたんだと実感させられた。故郷の思い出の一部が欠けてしまった。無性に悲しくて悲しくて、ただ風に当たりたい気分になったが、

「放射能があるから窓開けるのはだめよ」


と母に制止された。
車のガラス越しに見るガレキガレキで変わり映えのない景色。ただ、空だけは気持ちいいくらいに晴れている。津波がなければ、放射能がなければ、地震がなければ、きっと素敵な休日になったはずだ。

海沿いに住んでいた中学の同級生たちはどうなっただろう。家は間違いなく流されているはずだ。母に知っている人の話を聞いてみると、渋佐地区に住んでいた友人の祖父は一度避難したものの、「忘れ物を取ってくる」と家に戻り、津波に流されてしまったと言った。よく知っている人だけに、切ない気持ちになった。他にも知っている人が何人もこうなっている可能性はある。ただ、そのことを知らないだけだ。

他の場所はどうなったのか、市内をグルグルと回っているだけで僕の2泊3日のゴールデンウィークは終わりを告げた。南相馬から羽田へ直行し、また怒涛の中国へと戻らなければならない。新幹線と飛行機の中で、もはや僕の知っている景色じゃなくなってしまった故郷のために何かできることがあるんじゃないのか、もう一度考えてみた。

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