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現代の仕事論~自分らしく生きるための仕事の選び方と働き方~

プロローグ 仕事を愛するには

私たちは人生の多くの時間を仕事に費やしている。

睡眠時間を除けば、おそらくほとんどの人は1日の中で仕事をしている時間が一番長いだろう。多くの企業の雇用形態では、8時間労働+1時間の休憩が一般的であり、残業を除けば毎日9時間は仕事という営みに時間を拘束されていることになる。

私たちは小中高と学校を卒業し、就職活動をしたのちに「会社」と呼ばれる場所へ毎日通勤することになり、そこで上司から与えられた仕事を毎日淡々とこなしてお給料を貰っている。

学校を卒業し、大人になったら仕事をしなければならない。社会人である以上、会社で働き、自立した生活を送るためにも仕事をして生活費を稼がなければならない。これが世間一般的な認識である。

多くの人たちは生活費を稼ぐために働き、年齢的に大人だからという理由で仕事をしている。中には無職でニートと呼ばれる人もいるだろうが、ニートという言葉自体、「大人になったら働かなければならない」という一般的な認識から生まれた言葉である。「大人=働くもの」という認識がなければ、働いていない状態を揶揄するニートという言葉は生まれないのだ。

さて、ここでひとつ残念なお知らせがある。日本人は世界的に見ても、仕事に対する満足度が低い国であり、多くの人たちが仕事に対して嫌悪感を抱いている。ギャラップという米国の調査企業によると、世界145か国を対象に仕事の満足度を調査したところ、日本はわずか5%という世界でも最低の結果となっている。

こうしたデータは調査対象となる人の年齢や職種、その他さまざまな要因によって偏りが出るため正確だとは言えないが、それでも感覚的に日本人の多くが自分の仕事に対してあまり満足していないのはわかるだろう。

SNSでは「仕事行きたくない」「やめたい」といった発言が毎日のように投稿され、日曜の夜に「明日の仕事が楽しみ!」「早く仕事行きたい!」といったツイートはほとんど見られない。

ではなぜ日本人は、こんなにも仕事に対して嫌悪感を抱いているのだろうか。なぜ働くことがそんなにもつらく苦しいものになっているのだろうか。なぜ毎日嫌々ながらも電車に揺られ、会社に向かっているのだろうか。


仕事は人生のスパイス

はじめにも言ったように、私たちは1日のほとんどの時間を仕事に費やしている。そして、そのほとんどが「生活費を稼ぐため」という理由からである。

仕事をしてお金を稼がないと生活することができない。だから仕事が嫌でも辞めるわけにはいかず、頑張って働くしかない。そうした気持ちで毎日仕事をしている人がほとんどである。

だが、前提として頭に入れておきたいのが、仕事は人生のスパイスであって人生そのものではない。人生をより楽しいものにするために仕事があるのであって、仕事をするために人生があるわけではない。

「人生を楽しいものにするためにはお金が必要だ。そのお金を稼ぐために仕事をしているんだ」と思う人もいるかもしれない。でも現実を見てみよう。今のあなたは「人生を楽しいものにするためにはお金が必要だ。そのお金を稼ぐために仕事をしているんだ」と思いながら働いているが、人生が楽しいものになっているだろうか。

もしなっているのなら、ここで読むのをやめてもらっていい。きっと最後まで読んでも得るものはあまりないだろう。でも、「人生を楽しいものにするためにはお金が必要だ。そのお金を稼ぐために仕事をしているんだ」と思いながらも、毎日仕事に嫌気が差して休日も寝て終わるだけで充実していない。ストレスと引き換えにして稼ぐお金も大して多くはないし、こんなんじゃ人生が楽しくなるわけないと思っているのなら、最後まで読むことで何かしら得られるものがあるだろう。

仕事は人生を楽しくするスパイスであり、あなたの人生を蝕む毒ではない。後で説明するように、仕事はアイデンティティにもなるもので、自分はどういう人間なのかを示す肩書きでもある。仕事を嫌悪している人は、自分の人生を嫌悪していると言っても過言ではない。

古代ギリシャの歴史家であり詩人でもあるヘロドトスは、仕事をすることは恥ではなく、怠惰こそ恥だと述べている。ヘロドトスの時代では仕事をすることは神から祝福を受ける行為であり、仕事はつらいものであるのは事実だが、前向きに仕事に取り組むことでよい人生を生きられると信じられていたのだ。


仕事を制するものが人生を制する

もし、「毎日仕事をするのが楽しい」と思えるようになったとしたら、自分の人生がどれほど生きやすくなるか考えてみてほしい。人生の嫌なことの多くは仕事由来のものが多いはずだ。

アラームで毎日同じ時間に起こされる、満員電車での通勤、仕事をしない同僚、言うことを聞かない後輩、毎日言うことが変わる上司、人手不足で休めない職場、仕事量と給料が合っていない、有給休暇を気軽に申請できない、疲労で家に帰ってからも何もする気が起きない、働く時間が長すぎて自分の時間がない、些細なことへのストレス、とにかくストレス、またまたストレスなど。

家族との仲が悪い、恋人と喧嘩した、飼っていたペットが死んだといったプライベートでの嫌な出来事もあるかもしれないが、1日の中で嫌な気持ちになる瞬間の多くは仕事に関連していることが多い。休みの日がどれだけ精神的にラクかを考えてみれば、普段どれだけ仕事によって精神的なダメージを受けているかがわかるだろう。

つまり良くも悪くも、私たちの人生は仕事によって支配されているのだ。仕事から得られるものがお金以上のものであれば、仕事は人生の満足度を高めてくれる。逆に仕事から得られるものがお金だけであれば、仕事は人生の満足を下げるもの、ストレスの要因、苦痛の温床となってしまう。

仕事をうまく手懐け、お金以外にも仕事から得られるものが多い状態になれば、仕事を愛することができるだろう。仕事を制するものが人生を制するのだ。だが、そのためには人生における仕事の意義を考え、自分に合った仕事を選び、最適な働き方といった部分を考えなければならない。本書はその3つについて深く考察したものであり、仕事における悩みを解決するきっかけを与えることを目指したものである。


本書

人生の営みのひとつである「仕事」について本を書こうと思ったのは、個人的な思考の整理でもある。私はこれまでアルバイト、会社員、業務委託フリーランス、自営業とそれぞれの働き方を一通り経験してきた。現在は業務委託のライターと自分で事業をいくつかやっているが、ここ数年は仕事に対する考え方や姿勢が大きく変わってきたのを実感している。

昔は深く考えることもなく仕事を選び、高い給料に引かれてやりたくない仕事をやっていたりもしたけれど、その時期は仕事に対する嫌悪感がすごく、毎日ストレス貯金しながらただ休みの日を目指して働いていた。

しかし、今は誰に言われることもなく、アラームをセットしていなくても毎日同じ時間に目を覚まし、仕事に前向きに取り組んで働いている。ストレスからも解放され、めんどうな人間関係もなく、好きな時間働き、好きなときに休憩して気分転換をする。詳しくは第3部の働き方の部分でも取り上げるが、私にとってはこうした働き方が一番性に合っていて、誰に指図されるわけでもなく自分の意思で仕事をしているとき、自分のアイデンティティと仕事が一体化しているという実感を得ている。

本書は私の個人的なエッセイであり、考え方や価値観は私独自のものである。誰かに媚びを売って書いたりはしていないし、誰かに気を遣うこともなく自由に考えを巡らせて書いている。とはいえ、自己満足に偏りすぎず、誰でも気軽に読めるように難しい言葉も使っていない。書いていてつまらない文章は読んでいてもつまらないからである。あくまで個人的なエッセイとしての形を保ちながら書いているため、それがよりリアルな読みごたえになっているだろう。

この本が目指すところは、仕事について悩んでいる読者の仕事に対する考え方を刷新し、人生における仕事の意義を見つけ、本当に自分に合った仕事を選び、最適な働き方を通して仕事を人生のスパイスにすることだ。そのための根底となる考え方や向き合い方を提示したいと思う。

対象となる読者は10代~20代のアルバイトやフリーター、就職活動に悩む大学生や仕事がつらい社会人、転職を考えている人やこのままでいいのかと漠然とした不安を抱えている人とさまざまだ。どんな境遇にある人でも何かしらの学びが得られる、そんな本を目指して書いた。


構成

本書は3つの大きなテーマを軸に、仕事を多角的な観点から考えていく。

第1部では、私たち人間にとって仕事とはどういうものなのか、なぜ私たちは働いているのかといった仕事の意義について見ていく。現代では仕事と労働は同じものとして扱われているが、厳密にはまったく別物であることも説明する。はじめにも言ったように、仕事はアイデンティティにもなるもので、仕事のない人生がいかに悲惨なものになるかについても語っていく。

第2部では、多くの人が悩む仕事の選び方について考えていく。お金だけで仕事を選ぶのは間違いなのか、好きなことを仕事にするべきなのか、仕事にやりがいを感じるにはどうすればいいのか、仕事の選択について悩むべき部分は多いだろう。

日本人の仕事の満足度が低いのは、やりたい仕事をやっていないからと言うのは簡単ではあるものの、そもそもやりたい仕事がないと思っている人も多いはずだ。だから多くの人は一番わかりやすい「お給料」という指標で仕事を選んでしまう。だが、実はそれが仕事の満足度を低くしている原因であったりもするのだ。

第3部では、働き方について考えていく。ここでは私の実体験を踏まえた上で、会社員とフリーランスのどちらがいいのか、フリーランスは本当に自由なのか、さらに会社員のメリットや独立するために必要なスキル、ワークライフバランスなどについて簡潔に語っていく。

現代では会社に雇わられて働く以外にも選択肢が色々とある。クラウドサービスが充実することでフリーで仕事を探すのは簡単になり、スキルさえあれば独立して働くことは誰にでもできる。ほかにも、Uberの配達員のようなギグワーカーも増えていて、働き方の選択肢はかつてないほど多様化している時代である。私は誰しも自分に合った働き方をすれば、仕事に対する満足度を上げ、仕事に対する嫌悪感を払拭できると思っている。そして、第4部の結論はとても短い。

ではまずは、人間にとって仕事とはどういうものなのかについて見ていこう。


第1部 人間にとっての「仕事」とはなにか

「仕事」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは「お金のために仕方なくしていること」「つらくて苦しいもの」「めんどうくさいもの」といったことだろう。ほかにも、人によっては単なる暇つぶしとして仕事をしている人もいるかもしれない。

「本当は仕事なんてしたくないけれど、仕事をしないとお金がなくなって生活できなくなってしまうので仕方なく働いている」これが多くの人の仕事観である。

だが、仕事が生活費を稼ぐためのものになったのは一体いつからなのだろうか。昔の人たちも仕事に対して嫌悪感を抱いており、働くことに嫌気を差しながらも、生活やお金のために仕方なく働いていたのだろうか。

私たちは物心がついたときから、大人になったら何かしらの仕事をし、お金を稼がなければならないという先入観を植えつけられている。気づかないうちに「仕事」という言葉を覚え、仕事をするのが当たり前で、仕事をしなければお金をもらえず、生活することができないと誰もが信じている。

こうした先入観は仕事に対する嫌悪感を生み出す要因である。人は自発的に行動を起こす場合は何とも思わないが、「~しなければならない」と外部から圧力が加わるとつい反発したくなる生き物だ。誰かに指図されて働けと言われているわけではなくても、「大人になったら仕事をしてお金を稼がなければならない」という先入観が自分を苦しめてしまう。

そこでまず考えたいのが、仕事と労働の違いについてである。現代ではこの2つは同じ意味で使われることが多いが、実際には言葉以上の違いが両者にはある。英語でも仕事は「work」なのに対して、労働は「labor」となっている。ちなみに、laborというのはラテン語の「laboro」に由来し、これは骨を折る作業、苦労することといった意味の言葉である。

現代では仕事と労働が一緒くたにされていて、仕事が労働の意味にすり替えられている。だからこそ、現代では仕事がつらく苦しいものだというイメージが大人たちに行き渡っているのだ。


仕事と労働の違い

ドイツの哲学者であるハンナ・アーレントは「人間の条件」という本の中で、仕事と労働を明確に区別している。

アーレントの定義では、仕事とは「人間の個々の生命とは別個に、世界に存在し続けていくモノの創造に関わる営み」であり、労働とは「人間の肉体によって消費される、必要物の生産に関わる営み」のことを言う。

哲学者にありがちなとてもわかりづらい定義だが、簡単に言うと、仕事とは「消費以外の価値を生み出すものをつくる活動」のことであり、労働とは「生活や消費のために仕方なくおこなわれる生産活動」ということである。

現代からさかのぼることはるか昔の時代、プラトンやアリストテレスたち古代ギリシャでは労働は奴隷たちがするもので、貴族のような地位の高い人たちからは敬遠されていた。奴隷を雇うお金を持っていた人たちは、生活に必要な労働を奴隷に任せ、自分たちは芸術的作品を作ったり、哲学に勤しんだり、創造的な活動である仕事にもっぱら精を出していた。昔の時代では、労働は忌避するべきものとして扱われていたが、仕事は高貴な活動だと考えられていたのだ。

それから中世になると、ドイツの神学者であるマルティン・ルターによって労働が賛美されるものになった。ルターは宗教改革をおこない、労働が神への奉仕の行為であり、自分の職業に献身することが神に仕える最高の方法だと述べたのだ。ここからプロテスタントの思想が生まれることになった。

フランスの神学者であるジャン・カルヴァンはルターの労働の考えをさらに進め、どんな地位にある人でも労働をすべきだと述べた。労働によって金銭を手に入れること、それが神への信仰の証だと。現代では神への信仰として労働をしたりお金を稼いだりはしていないが、「働かざる者、食うべからず」という言葉がよく使われているように、労働は生きるためにしなければならないものと思われている。

さて、アーレントの定義で考える労働の代表的なものといえば、食料品や衣服の生産などである。それらは人間が消費するために必要であり、人間の生活には欠かせない必需品だ。さきほど述べたとおり、「生活のために仕方なくおこなわれる活動」、それがアーレントの言う労働である。

それに対して仕事とは、音楽や絵、詩や工芸品といった、必ずしも生きるために必要ではないものをつくる営みのことを指す。仕事には芸術的活動の全般が当てはまるといっても間違いではない。生きるための消費ではなく、純粋な創造と楽しみによる行為。それがアーレントの言う仕事である。

アーレントは仕事と労働を明確に区別したが、アーレントの定義をそのまま現代社会に適用することは難しい。なぜなら、アーレントの仕事と労働の区別は一昔前のフォーディズム的生産体制のときには有用だったかもしれないが、現代は生活のための労働から解放されつつあるからだ。

フォーディズム的生産体制とは、フレデリック・テイラーの「科学的管理法」を元にし、1910年にヘンリー・フォードが自動車の大量生産のために導入した作業方式のことである。簡単に言うと8時間労働と誰でもできる単純な繰り返し作業のことを指す。

産業革命後の世界では、とにかく生きるためには働かなくてはならなかった。フォーディズム時代において、アーレントの言う仕事ができる人はほんの一握りの上流階級の人たちのみであり、ほとんどの一般市民は労働に精を出してお金を稼いでいた。

そうした時代背景の中では、仕事と労働を区別し「人間らしく生きるためには労働ではなく仕事をするべきだ」という主張が深い意味を持った。しかしさきほど言ったように、現代ではすでにアーレントが言う「労働」は消えつつある。

もちろん、世界的に見ればまだまだモノが足りない国はあり、日本でも生活のための生産活動がすべてなくなったわけではない。だが、現代は昔とは比べ物にならないほど生産技術が進歩しており、生きるための生産活動に費やす時間と労働力は格段に少なくなった。

アーレントが述べた労働の定義は、一昔前のものだと言わざるを得ない。現代に生きる私たちは、一人ひとりに「労働」ではなく「仕事」をする選択肢が与えられている。そこで次に考えなくてはならないのは、私たちが仕事をする意味。つまり、「なぜ働くのか?」という問いである。


私たちはなぜ働くのか

人は生きてく中で、「人生とは?」「生きる意味とは?」「働く意味とは?」といったさまざまな事柄について悩む。

その中でも、おそらく誰もが一度は悩んだことがあるのが「働く意味」についてだろう。精神的に疲れたとき、心に余裕がないときは「自分は何のために働いているのか?」と考えてしまうことがある。

しかし、多くの人は「自分はなぜこんなにも頑張って働いているのか?」「なぜこんなに我慢してまで働かなくてはならないのか?」と思ったとしても、疑問を抱くだけで答えを見つけようとはしない。

あるいは、答えを探そうとしたがめんどくさくなり、考えるのをやめたことを「答えが見つからない」と言い訳に使っていたりする。そしていつもの日常へと戻っていくのだ。だが、人生を少しでも有意義なものにしたいと思っているのであれば、働く意味についてじっくり考えるのはとても大切なことである。

まず結論から述べると、「働く意味」について何年も悩んだ私がたどり着いた答えは、人が働くのは「お金のためであり、生きるためであり、食べるため」という根も葉もない答えだ。

人間が働くのはお金を稼ぐためであり、生きるためであり、食べるため。これが仕事の真理であり、人生の道理である。

働く意味について悩む人の多くは、何かしらの高尚な意味を求めがちだが、現実にそんなものは存在しない。あるのは「お金のために働く」「生きるために働く」「食べるために働く」という、厳然たる事実なのだ。でもそれは、「仕事はお金を稼ぐためだけのもの」という意味ではない。お金を稼ぐために働いているとしても、仕事をするのはお金のためだけではないのだ。これについては後で詳しく説明する。

現代では、「お金のためではなく、やりたいことをやっているだけです」とドヤ顔で述べるインフルエンサーやビジネスマンをSNS上で多く見かける。

しかし何をやるにしても、やりたいことをやるには必ず「お金」が必要になってくる。そして、やりたいことをやるには、まずは生きていなければならず、生きるためには食べなくてはならない。

つまりやりたいことが何なのかはともかく、やりたいことをやるには「生きるため」「食べるため」にお金が必要になり、そして、お金を稼ぐためには働かなくてはならないのが現代社会である。

そのことを前提にして考えると、「働く意味=お金のため」という構図は納得できるだろう。映画にもなった「闇金ウシジマくん」というマンガの中には、主人公のウシジマが「金が全てじゃねぇが、全てに金が必要だ」と言っているシーンがある。これはまさに働く意味の真理を捉えている言葉だといえるだろう。


仕事は生きる意味そのもの

近年、ビットコインなどの暗号通貨(仮想通貨)の需要が世界中で高まっているものの、日本では現在「円」以上に価値のあるものは存在しない(普及率と信用性の面では「円」以上に価値のあるものはないという意味)。

日本で何かモノを買ったり、住宅に住んだり、税金を払ったりするためには「円」という貨幣が必要になり、これは日本国に住んでいる限りは誰もが従わなければならないルールである。

近所の川で拾った石をどれだけあなたが熱心にその価値を伝え、石で食べ物を買おうとしても、国家が「価値のあるもの」と定めていない以上、その石に骨董的な価値があったとしてもそれと引き換えにモノを買うことはできない。何かをするためには必ずお金が必要であり、人は「全てに必要なお金を稼ぐために人は働いている」のである。

しかし、だからといってお金を稼ぐために何もかもを犠牲にしようというわけではない。お金を稼ぐことは大切なのは事実でも、お金に捉われてしまうのはよくない。「お金こそがすべて」「お金さえあれば何でもできる」という思考回路になってしまうと、「お金がなければ何もできない」「お金がないと幸せになれない」という間違った結論へとたどり着いてしまう。

働く意味と仕事の意味は同じではない。働く意味はお金のためだとしても、人間にとっての仕事はお金以上の意味があるものなのだ。仕事と働く意味を一緒くたにしてしまうのは、仕事の意味について深く考えずに「働いているから仕事している」「お金をもらってるから仕事している」「会社に出勤しているから仕事している」と解釈しているからである。

仕事が人生の中で大きな割合を占めているのであれば、自分にとって仕事とはどういうものなのかを考えることは、自分の人生をデザインするということでもある。子どもの頃に持った「仕事=働いてお金をもらうこと」という先入観をずっと握りしめながら、「働きたくない」と嘆きながら毛穴からストレスホルモンを垂れ流して働き続けるのは拷問ともいえる。

私は仕事の本質はお金ではないと思っている。人間にとって仕事とは、生きる意味そのものなのだ。職業的な仕事はもちろんのこと、好きな仕事、やりたい仕事、趣味としての仕事、それらすべて「仕事」という広い枠組みの中にある。決して「労働」というお金を得るためだけの小さな枠組みの中での話ではない。だからこそ、仕事という言葉を労働という意味の中に閉じ込めてはいけない。アーレントが言うように、仕事と労働は似て非なるものなのだ。

現代では自分の仕事に対して誇りを持っていない人は多い。くだらない仕事、なくても誰も困らない仕事、やる意味がないような仕事を生活のためにやっている人もいる。人類学者であるデヴィット・グレーバーは、そのような仕事を「ブルシット・ジョブ」と名付けた。「クソどうでもいい仕事」という意味だ。

しかしどんな仕事であっても、その仕事に意味を見出すのは自分自身である。それぞれの仕事に固有の意味があるわけではない。意味は常に自分で見つけていくものである。「仕事は大変なもの」という一般的な価値観を押しつけられて育った大人たちは、仕事を労働にすり替えながら毎日働いている。それでは仕事に捧げている時間がもったいない。人生は有限で、たった一度きりなのだ。


仕事に意味づけをする

かの有名な経済学者であるカール・マルクスは、「労働とは楽しいものである」と述べた。労働には自己実現の喜び、他人の欲求を満足させることの喜び、自分の労働で他人が自己実現できる喜び、労働を通じて人間の本質を発見できる喜びがあると言い、アダム・スミスとは違って労働に対して肯定的な態度を示している。

だが、マルクスの「労働は楽しいもの」という労働観は、資本主義とは対立したものだった。資本主義では人間の労働力も商品化されてしまい、人間があたかも生産活動を担う機械の一部であると考えられてしまう。ライン作業などで1日8時間同じ作業を繰り返すだけの労働では、さきほど述べた労働の喜びが失われ、人は自分が何のために働いているのかわからなくなってしまう。マルクスはこうした状態を「疎外」と呼んだ。

アルベール・カミュの「シーシュポスの神話」という物語にも同じような話が描かれている。シーシュポスは神を欺いた罪で、大岩を下から山頂まで運び上げるという罪を与えられた。シーシュポスは賢明に岩を山頂まで運ぶのだが、山頂に着いた途端に大岩は下まで転げ落ちてしまう。そして彼は再び大岩を下から山頂まで運ぶ。だが、何度やっても大岩は下まで転げ落ちてしまい、結果は何も変わらなかった。

シーシュポスが与えられた罰は、まるで資本主義の労働者が毎日していることと同じである。毎日代り映えのない単純作業をただひたすらおこなう。ドストエフスキーの「死の家の記録」の中にも同じような話が出てくる。半日かけて穴を掘り、半日かけてその穴を埋めるといったまったく何の意味もない労働作業をやらされていると、人は精神がおかしくなって発狂するか自殺してしまうという。これは実際にドストエフスキーがシベリアの収容所で体験したことだったようだ。まったくの無意味でまったくの無益な作業を永遠に繰り返せるほど、人間の精神は強くないのだ。

だとすると、やはり大事なのは仕事に対してどのような意味づけをおこなうかである。現代社会の中では、生きていくためには仕事をしてお金を稼がなければならない、とはいっても、シーシュポスが与えられた罰のような仕事や、ドストエフスキーが体験したような無意味で無益な仕事をしていれば、働くことに嫌気が差したり、鬱になったりするのは想像に難くない。実際、日本では仕事が原因で自殺したというニュースも少なくない。

心理学者であるアルフレッド・アドラーは、「人間は誰もが自分が意味づけをした世界の中で生きている」と述べている。これは、一人ひとり物事に対してどのような感情を抱き、どのような意味を感じ、どのような価値を与えているのかが異なるということである。仕事に対して自分にとって最適な意味づけをすることができれば、はたから見れば無意味に見えるような仕事でも、意味のある仕事に変えられるのだ。


アイデンティティとしての仕事

何度も言うが、仕事とは決してお金を稼ぐためだけの活動ではない。お金があろうがなかろうが、元々人間は仕事をする生き物である。なぜなら、仕事が人生を豊かにしてくれるからだ。これは私たち先祖の行動を見ればすぐにわかる。

私たちの祖先は生きるために仲間で狩りをし、たくさん獲物が取れたときは焚火を囲いながら仲間でワイワイ騒いでいた。その楽しみのときに音楽が生まれ、現代ではアーティストといった仕事に発展していった。どんな仕事も、はじめはただ楽しみのための活動だったのだ。それが時代の変化と文化の発展に伴い、単純作業の労働になったり、音楽や作家、画家や職人といった仕事に分化していったと考えられる。

仕事に嫌悪感を抱く人が多い中で、私たちが考えるべきは「自分にとっての仕事とは何か?」である。時間によって管理される単純作業としての「労働」ではなく、楽しみのためや他人のため、芸術的な営みのための活動である「仕事」をする。その中にはきっと自分にしかできないことがあるだろう。

人生の時間のほとんどは仕事に捧げられている。だからこそ、お金や生活のための「労働」ではなく、自分にとって楽しい営みである「仕事」についてもっと真剣に考えなければならない。はじめて会った人との会話では、「何のお仕事をしているんですか?」と聞くことが多いように、仕事はその人がどういう人なのかを表すアイデンティティとなるものである。

私にとって、仕事のない人生はソースのないパスタのようなものだ。食べられる(生きられる)けれど、どこか味気ない。FIREや早期退職といったものにはまったく興味がなく、長く働き続けるために身体機能の低下と好奇心の減退と心の腐敗を止めるべく毎日活動している。

仕事や価値観、アイデンティティについて考えるのは、人生というゴールのないマラソンを走り続けるためにも必要なことである。私の場合、仮にライターとしての仕事がなくなったとしてもこうして文章を書くのは、私にとっては楽しい営みであり仕事である。たとえお金が発生していなくても、「文章を書く」という行為そのものが自分の人生の目的にもなっている。これがアイデンティティというものである。

きっと似たような感覚を持っている人は多いと思う。仕事という文脈の中でお金を切り離して考えると、自分のアイデンティティが見えてくることがある。ある人は曲をつくることが人生の目的になっているかもしれないし、写真を撮ることが自分の使命だと思っている人もいる。その目的や使命という文脈の中にマネタイズはなく、あるのは自分の人生の価値観である。お金は結果としてついてくるものなのだ。

不思議と自分の価値観に沿った生き方をしていると、お金のことは考えなくなる。これはお金のことを考えるのは汚いという意味ではなく、その行為の価値をお金以外の側面で感じているということである。仕事がアイデンティティになると、労働から自由になれるのだ。


人生に仕事は不可欠

私は人生に仕事は不可欠だと思っている。現代は労働を仕事に変換しやすい社会ではあるものの、現実にはまだまだ労働をしている人がたくさんいる。朝起きて通勤することに苦痛を感じたり、同じ作業を一日中やらされたり、ただ生活のためにお金を稼いでいる人は「労働者」である。

もちろんそれが悪いと言っているわけではない。自分が納得して働いているのであればそれでいい。しかし、この本を読んでいるということは、仕事に対して何かしらの不満や悩みを抱えているはずである。それなら労働ではなく「仕事」をしなければならない。

仕事か労働かという問題を単に心意気の問題として片付けるのは簡単だが、それでは問題の本質はいつまで経っても解決しない。仕事への嫌悪感をなくし、仕事を楽しいものにするためには、労働を仕事にし、仕事のあり方について真剣に考えなければならない。

さきほど登場してもらったカール・マルクスは、「労働時間の短縮」が人間の自由に必要だと述べた。マルクスの時代では、将来的に人間は週15時間程度しか働かなくなるだろうと思われていたが、2023年の現代を生きる私たちは未だに1日8時間、週40時間労働をしている。

サービス残業や休日出勤といった問題も絶えず、ワークライフバランスとはほど遠い生活をしている人や、ワーカーホリックになっている人も多い。アーレントが述べているように、仕事と労働を区別して考えることも大切だが、もっと大切なのは自分に合った仕事を選ぶことと、自分に最適な働き方を選択することである。

現代では「好きを仕事に」というフレーズをよく聞くが、自分の好きなことをしてお金を稼いでいる人は、自分の仕事を労働だと思ったりはしない。周りからワーカーホリックに見えるように働いていたとしても、ストレスが精神的な閾値を超えることもない。好きを仕事にするのがいいかどうかは第2部で取り上げていくが、仕事か労働かという観点から考えると、好きな仕事は決して労働にはならないのだ。

現代は昔よりも自分の仕事に対して意義を感じられる時代になっている。仕事は社会との接続性や人とのつながりを得る上でも、人間にとって大切な営みである。しかし、そう思えるためには労働を仕事に変えなければならない。そして、労働を仕事に変えるためには自分に合った仕事をするのが一番手っ取り早い。次はそのことについて見ていこう。


第2部 仕事の選び方について

「どんな仕事をするのか」という仕事選びは人生においてとても大切である。仕事が自分にとって苦痛なものであれば、人生の多くの時間が不幸になってしまう。自分の周りの人たちでも、仕事が嫌で働きたくないと言っている人で毎日幸せそうに生きている人はあまり多くはいないだろう。

第1部でも言ったように、仕事と人生は決して切り離せないものであり、コインの表と裏のような関係だ。仕事が人生のすべてとは言わないが、仕事をしていない人は熱中できる仕事をしている人よりもバイタリティに欠け、情熱や好奇心も失っていることが多い。もちろん、仕事をしていても無気力でバイタリティがない人がいるのも否定しない。

人生においても充実した生活においても、仕事が大きな鍵を握っているのは間違いではない。詰まるところ、それなりに楽しく充実した人生を生きたいと思うのであれば、仕事を自分の味方にするのが手っ取り早い方法である。

現代では仕事で不幸になっている人が多い。働くことが嫌で、毎日毎日嫌で仕方なく、時には電車に飛び込みたくなっている人もいる(実際に飛び込む人もいる)。仕事に嫌気が差せば差すほど、仕事以外の時間と生活もどんどん無気力になって堕落していき、内面からも輝きが失われていく。気づけば世間から「いい歳」と呼ばれる年齢になり、新しいことをする勇気も行動力もなくなり、「このままでいいのか」といった漠然とした不安を抱えながら歳をとっていくだけになる。

仕事選びを間違えるだけで、あなたの人生は幸にも不幸にもなるのだ。しかし、多くの人はそこまで仕事に対して真剣に向き合ってはいない。なんとなく自分に向いていそうな仕事を選んだり、給料がいい仕事を選んだり、将来的に安定していそうな仕事を選んだりしている。

自分に合った仕事を選ぶためには、何かひとつの基準だけで選ぶのではなく、さまざまな視点から仕事を考えなければならない。私も過去に給料に惹かれて仕事を選んだり、なんとなく自分にできる仕事を選んで働いてきた。しかし、そうした基準で選んだ仕事はつまらなく、毎日時計ばかり見ながら働き、ただ休日を目指して惰性で仕事をする毎日だった。

「自分を雇ってくれる会社があるだけいい」と思っている人もいるかもしれないが、人間はないものねだりな生き物である。「仕事があるだけマシ」という考えは、いつしか「もっとやりがいのある仕事がしたい」「もっと楽しい仕事がしたい」と思うようになっていくものだ。20世紀最大の心理学者であり精神科医でもあるジークムント・フロイトはこう言っている。

「ひとたび衣食が足り、雨露をしのげ、健康に過ごし、といった最低限の暮らしが手に入ると、私たちは力や名誉、愛を求めるようになる」

これは仕事に関しても言えることである。すなわち、「ひとたび仕事を獲得し、安定した給料を受け取り、自分の仕事に慣れてくると、私たちはやりがいや仕事の意味、楽しさを求めるようになる」のだ。そのため、最初から自分に合った仕事を選ぶのが賢明だと言えるだろう。


自分に合った仕事とはどんな仕事か

では、自分に合った仕事というのはどういったものなのだろうか。簡単に言えば、それは「働いていて苦とは感じない仕事」であり、「やらされ仕事ではなく自発的にやりたいと思いような仕事」である。

どんな仕事でもある程度の疲労や精神的なストレスがあるのは言うまでもない。しかし、朝起きて心底仕事に行きたくないと思うような、苦痛を感じる仕事をしているのであれば、その仕事は自分に合っていないと考えて間違いないだろう。

さらに、ただ上司から「これをやれ」と指図され、めんどうくさくてやりたくないけど生活のために仕方なくやっている仕事も、自分に合っている仕事とは言い難い。つまり、アーレント風に言うと「労働」をしている状態は自分に合った仕事をしていない状態となる。

「働いていて苦とは感じない仕事」「やらされ仕事ではなく自発的にやりたいと思えるような仕事」という2つの条件を満たすには、「好き」か「得意」のどちらかの感情が伴う仕事をしなければならない。もしどちらの感情もないというのであれば、仕事ではなく労働している可能性が高い。そして残念なことに、多くの人が仕事ではなく労働をしている自分に気づいてさえいないのだ。


仕事を選ぶ動機を考える

私は美容師になる人は、髪を切ったり、おしゃれにしたり、お客さんに喜んでもらうことが好きなのだと思っていた。しかし、知り合いの美容師に「どうして美容師になったの?」と聞くと、「なんとなく」だとか「楽しそうだから」だとか「モテるから」だとか何ともぼんやりした答えが返ってきた。

料理人になった人も「料理を作るのが好き」なのではなく、「給料が良さそうだから」という答えが返ってきた。もちろん、すべての美容師と料理人がこういう人だと言っているわけではないが、少なくともそうした考えで仕事を選択している人がいるのも事実である。

医者になった人が、必ずしも他人の病気を治したいと思っているわけではない。「医者」というネームバリューに惹かれて医者になった人もいるだろう。女性が結婚相手に医者を選ぶのも、「他人のために頑張るあなた」が好きなのではなく、「高収入で安定しているあなた」が好きなのかもしれない。

CAになる女性も、CAという仕事に惹かれたわけではなく、年収やキラキラしているからという理由で惹かれたかもしれない。「他人にハッピーなフライトを体験してもらいたくてCAになりました」という人は一体どれだけいるだろうか。プログラマーやエンジニアといった仕事も、コードを書いたり新しいものをつくるのが好きなのではなく、ただ将来的に需要がありそうだから、という理由でプログラマーを目指す人も最近は多い。

仕事を選ぶ動機は人それぞれ異なっている。ある職業に対して一般的に抱かれている「その職業を選んだ動機」と、実際にその仕事を選んだ人たちの動機が異なっていたとしても、その仕事をする本人が楽しく働けているのであれば何の問題もない。しかし現実では、そうした理由で仕事を選択し、後悔している人も多いのである。

毎日たくさん練習して美容師になったにも関わらず、いざ美容師として仕事をすれば、客が来る度に「めんどくせー」と吐き散らす知り合いもいる。特に閉店30分前に予約が入ったときの彼のイライラ具合は見て「なんで美容師になったんだろう?」とびっくりしたのを今でも覚えている。

個人的な経験から言わせてもらうと、年収や安定といった観点で仕事を選ぶと必ず痛い目に見る。「これが好き」という自分の中の素直な気持ちを、生活のために脇に追いやって信念を曲げた状態で仕事を選んでも決して幸せにはなれない。たとえ給料がどれだけ良くても、だ。

仕事は自分がもっとも没頭できるものを選ぶのがいい。時間も忘れて没頭できること。そのためには「好き」か「得意」のどちらかの感情が絡んでいなければならない。人は自分が好きでも得意でもないことには没頭できない。恋人に依存してしまう人は、「好き」が暴走して恋人に「没頭」している状態なのだ。恋愛では致命的になる感情は、仕事においてはプラスに働くのである。

仕事を人生の味方にし、充実感の一端を担うものにするには、仕事に没頭することが大切だ。年収や安定といった動機では仕事に没頭できず、お金のためにただ苦痛な時間を毎日8時間過ごすことになる。好きなことをして生きていきたいと思ったときには、大体の人は年配になり、人生を変えるだけの行動力も情熱も消えているだろう。

仕事と人生は切り離せない。だからこそ、仕事選びの際には「なぜその仕事をしたいのか?」という動機について考える必要がある。拝金主義者でもない限りは、お金のためだけに働くようなことは絶対にしてはいけない。そこで次は、お金と仕事の関係性について見ていこう。


お金で仕事を選ぶのは間違いなのか

仕事選びの際によく言われるのは、「お金とやりがいのどちらを優先させるべきか?」といった問題である。やりがいについては後で詳しく説明するため、ここではお金で仕事を選ぶことについて考えていく。

世の中には仕事はたくさんある。その中にはお金を稼げる仕事もあれば全然稼げない仕事もある。特に現代ではITや人工知能などの分野の進化がめまぐるしく、ネットを介したサービスやSNSが多くの人に利用されており、IT系業種は稼げると人気だ。IT関連会社の給料は右肩上がり、プログラマーやエンジニアで優秀な人材は新卒でも年収400万超えなどがザラにある。しかし、仕事はお金だけを基準に選んでいいのだろうか。

お金が自分の人生の価値観の真ん中にあるのであれば、お金を重視して仕事を選んでも後悔しないだろう。一方、もし「人生はお金だ」と胸を張って言えるだけの価値観を持っていないのであれば、たとえお金をたくさん稼げたとしても、その仕事に苦痛を感じる可能性が高い。

私も給料が高い仕事に惹かれて仕事を選んだことがあったが、お金をインセンティブ(動機)にして仕事を選ぶと、はじめはお金を稼いで銀行口座の数字が大きくなっていくことに喜びを感じる。しかし、次第に銀行口座の数字が増えていく喜びよりも、やりがいや充実感を渇望する気持ちのほうが強くなってくる。そして、気づけばお金のためだけに働いている現状に不満を抱える。お金を重視して仕事を選ぶのは、自分の価値観がお金だとハッキリしている人でもない限りは難しいのだ。

実際、お金が稼げる仕事の多くは肉体的にも精神的にもキツイ職種が多い。たとえばプログラマ―やエンジニアといった職種は人手不足で引っ張りだこ、年収もそこそこ高い額を提示している会社が多いが、働いてみるとサービス残業や休日出勤が当たり前のブラック企業だったというケースも少なくない。最近は真っ白の超優良なホワイトIT企業も増えているものの、「お金が稼げる=キツイ」というのはある程度は真理である。

お金を重視して仕事を選ぶのも、やりがいを重視して仕事を選ぶのも、どちらにもそれぞれ長短がある。そのため、お金とやりがいのどちらを軸に仕事を選ぶのが正解かは一概には言えない。自分は仕事に何を求めているのか。それを徹底して考えることで、「給料が良い仕事がいい」という世間の価値観ではなく、自分の価値観に従って仕事を選ぶことができるようになる。古代ギリシャの哲学者であるヘラクレイトスもこう言っている。

「道を決めるのは自分の人と成りである」

仕事選びは人生を大きく左右する問題であるため、安易に道を間違うことのないように、まずは自分の価値観や人生の目標について考えてみるのがいい。もしその答えが「お金」ではないのであれば、お金を基準に仕事を選ぶのは後悔につながる可能性が高いだろう。


好きを仕事にするのはアリか

現代のようなSNS時代に生きていれば、誰もが一度は「好きなことを仕事にしよう」というフレーズを聞いたことがあるはずだ。YouTubeで「好きなことで、生きていく」というキャッチコピーを耳にしたことがある人も多いだろう。趣味でも何でも、自分の好きという気持ちを生かして仕事にすることで、ストレスもなく楽しく働けるという言い分である。

しかし、この「好きなことを仕事にする」という主張は、独立して生きていくことが前提とされている。さらに、好きを仕事にするにはほかにもさまざまなことを考える必要があるため、ただ好きを仕事にすればいいというわけではない。どういうことか深く掘り下げていこう。

まず、「好き」を仕事にするといっても、その解釈には注意が必要である。たとえば、本が好きだから本屋や図書館で働くのは、好きを仕事にしていると言えるだろうか? 食べるのが好きな人が飲食店で働くのはどうか? ゲームをやるのが好きな人がゲーム会社に就職するのは?

お分かりのとおり、世間で言われている「好きを仕事に」というのはそういう意味ではない。本が好きなら自分で小説を書く、食べるのが好きなら全国各地の名物料理をYouTubeやブログなどのメディアでコンテンツにする、ゲームが好きならゲーム配信で広告収入を得る。そうした働き方が世間一般的な意味での「好きを仕事にする」というものである。

「好きを仕事に」という言葉の意味を深く考えず、好きと仕事を安易に結びつけると大体失敗することになる。現代は誰でも好きを仕事にできる時代にはなったが、そのためには独立して自分で稼いでいく必要があるのだ。その前提が抜け落ちたままでは、好きを仕事にするのはアリなのかを議論することはできない。

では仮に、独立してやっていく覚悟がある場合、好きを仕事にするのはアリなのか。これに関しては、個人的には全然アリだと思っている。しかし、その場合でも一人ひとりのリスク許容度によって答えは変わる。たとえば貯金がなく、来月の生活費にも困っているような状態では、好きを仕事にするよりもまずは安定した収入が得られる仕事をしなければならない。

一方、1~2年収入がなくても生活することができ、なおかつ結婚もしていないという状態であれば、リスク許容度は高いので好きを仕事にすることに挑戦してもいいだろう。ほかにも、会社員として安定した収入を得ている状態で、副業として好きなことを仕事にするのもいい。副業の収入が本業を超えた場合、独立して好きな仕事一本で生きていく。これが一番堅実で、現実的な道でもある。

好きを仕事にするときは、さまざまな前提条件を考えなければならない。前提条件をすっ飛ばし「好きを仕事にするべきか?」と聞かれても、答えようがないのだ。インフルエンサーやYouTuberが「好きを仕事に!」と何の条件も提示せず綺麗ごとのように発信しているのは、机上の空論に過ぎないのである。

もっと言うと、さきほどの前提条件をクリアしていたとしても、好きを仕事にできるかどうかはブランディングやマーケティングといった営業力、本人のスキルや人柄といった部分にも大きく左右される。独立してやっていくには考えなければならないことがたくさんあるのだ。これについては第3部で詳しく説明する。


好きを仕事にすると嫌いになる?

「好きを仕事にする」と言うと、よく「好きなことは仕事にするべきではない」という意見が出る。これは、「好きなことを好きな時間に好きなだけしているときは楽しくて幸せを感じられるが、好きなことが「仕事」に変わってしまうと、今まで好きだったことが嫌いになってしまう」という言い分である。これは本当なのだろうか?

たとえば、趣味で絵を描くことが好きだった人が、漫画家になった途端に絵を描くことに苦痛を感じるようになる。文章を書くのが好きな人が、作家になると文章を書くのがつらくなるというのが、好きなことを仕事にしないほうがいいと述べる人たちの言い分だ。

好きなことはあくまでも趣味として楽しむべきであり、それが生活費を稼ぐための「仕事(労働)」になると好きなことが嫌いになってしまう。そのため、「仕事は仕事でお金を稼ぐ手段としてするようにし、好きなことは好きなことで趣味として楽しむのがいい」と言う。

たしかにこの言い分には説得力がある。今まで好きだったことが「仕事」になった途端、楽しめなくなったという人もたくさんいるだろう。しかし、この言い分は肝心なことを忘れている。そもそも多くの人は仕事が嫌いであり、できることなら働きたくないと思っているという点である。

つまり、好きなことを仕事にしようが、お金を稼ぐための手段として仕事をしようが、どちらにせよ大多数の人は仕事に対して文句と愚痴をいい、毎朝「仕事したくない」と呟きながら、ベッドから体を起こして働くことになる。

好きなことを仕事にしていれば、仕事に苦痛を感じないというのは幻想にすぎない。人はどんな仕事をしていても、結局は文句と愚痴を言い、働きたくないと言いつつ自分を鼓舞して働いているのだ。それなら、少しでも自分の好きなことを仕事にしたほうが精神的にも楽だろう。好きなことを仕事にすれば、少なくとも「労働」ではなく「仕事」になるため、働いているときの嫌悪感は少なく、自分の仕事に対しても意義を感じられる。

そして、独立ではなく会社員として好きな仕事をしたいと思っているのであれば、好きよりも得意なことを仕事にしたほうがいいかもしれない。


好きよりも得意な仕事のほうがいい

仕事に対する嫌悪感をなくしたいのなら、好きなことを仕事にするのはひとつの手である。だが、好きなことを仕事にするまでにはたくさんの努力が必要であり、独立して好きなことで生きていこうとしても、ほとんどの人は生活できるほどのお金すら稼げないのが事実である。

人生を賭けてやりたいことがあったり、本気で好きなことで生きていこうと思ってる人でない限りは、好きを仕事にするのではなく得意な仕事をするほうが仕事がより有意義なものになる。得意というのは「やっていても苦ではないこと」であり、他人より多少うまくできることである。得意なことをしてるときは自然と気持ちも前向きになり、やっている本人も乗り気で楽しくなってくるものだ。

人はうまくできることに喜びを感じ、うまくできることが自然と得意なことになっていく。楽器を始めたばかりの頃は楽しくなくても、ある程度弾けるようになると楽しくなるのと同じである。他人よりもほんの少しでもうまくできるものがあれば、それをやっている時間が楽しくなり、もっとうまくできるようになる。これを仕事を選ぶ際の基準にするのだ。

誰だって何かひとつは他人よりもうまくできることがあるだろう。自分には何もないと思っていても、それは自分が気づいていないだけで、本当はうまくできること、得意なことが何かしらあるはずだ。たとえば、自分は何が得意なのかを見つける方法として、自分の一番好きな作業を考えてみよう。

まず、普段自分が「楽しい」と感じることを思い出す。ゲームをしているとき、スマホをいじっているとき、友達と遊んでいるとき、音楽を聞いているとき、映画を見ているときなど、自分がやっていて楽しいと思うことを思い出し、その楽しいと思うことを作業に置き換える。

ゲームをしているときが楽しいと感じるのであれば、「ゲームをしているときの何に対して楽しさを感じているのか」を考えてみる。頭を使ってクリアしているとき、コツコツレベルを上げているとき、ストーリーを楽しんでいるときなど、ゲームをやっていてどの作業に楽しさを感じているのかを論理的に考えるのだ。

頭を使ってクリアしているときが楽しいと思うなら、自分が好きな作業は「考えること」だとわかり、コツコツレベルを上げているときが楽しいのなら、「地道な作業」や「ルーティンワーク」が向いているとわかる。

自分が一番好きな作業は、普段自分が楽しいと感じることを作業に置き換え、「どこに楽しさを感じているのか」を考えれば知ることができる。そして、その好きな作業に似た仕事を選ぶ。そうすれば、やっている仕事は一番好きな作業であり、自分が得意にできる仕事となるだろう。

好きなことを仕事にすることは素晴らしいことである。だが、もしそこまでの覚悟はない、あくまで会社員として好きな仕事をしたいと思っているのであれば、自分の得意なことを仕事にするのを検討してみよう。得意なことであれば仕事内容が嫌いになる心配はなく、やっていてどんどん得意になっていくため、成長を感じながら働くこともできるだろう。


将来性のある仕事なんか探すな

仕事を探すとき、多くの人は「長く続けられる仕事」、あるいは「将来食いっぱぐれない仕事」がしたいと思っているだろう。しかし、仕事を選ぶときには、まず前提として「安定した仕事は存在しない」ことを頭に入れておこう。

たとえ大企業に就職しようと、給料がいい仕事をしていようと、自分が好きな仕事や得意な仕事をしていようと、今の仕事が将来もずっと安定して存在するとは限らない。そもそも人生に「安定」という言葉は存在せず、仕事に限らず人生に関するすべては不安定で常に変わっていくのが道理。諸行無常というやつである。

だからこそ、将来性のある仕事を探すのはナンセンスだ。近年はAIやプログラミングが安定した仕事であり、将来性のある仕事だと言われているものの、数年後には別の仕事が将来性のある仕事だと言われているだろう。こうしたトレンドに振り回されていると、深いスキルは何も身につかず、小手先だけの中途半端なスキルをいくつも持った需要のない人材へと成り下がってしまう。

今後必要となる本当のスキルとは、いい企業に就職するための力でも、年収がいい仕事に就くための力でもなく、人生を生き抜くための力である。生き抜くための力というのは、実践的な仕事に役立つ力。つまり、専門的なスキルのことだ。

「専門的」とは言うものの、そう難しく考える必要はない。それはさきほど説明した自分の「得意」なことでいいのだ。得意なことを続けていればどんどんうまくなっていき、次第にそれが自分の専門となっていく。何も医者や弁護士、エンジニアやプログラマーを目指す必要はない。他人よりも少しうまくできることでも、それを磨いていけば自分にとっての武器になるだろう。

若い人たちをはじめ、20代~30代の人たちでも転職で将来性のある仕事をしようと思っている人は多い。特にプログラミングは専門的なスキルであり、近年は人気となっているが、大事なのは自分にそれが合っているかどうかである。あまりうまくできない、どちらかというと苦手な分野であるにも関わらず、「将来性があるから」「安定して稼げるから」という基準で仕事を選ぶと、仕事には困らないかもしれないが、人生の充実度は格段に落ちてしまう。

はじめから言っているように、仕事は人生で多くの時間を費やすものだからこそ、自分に合った仕事を選ぶことが大事である。安定や将来性で仕事を選ぶのは、「仕事」という人生のスパイスに捉われ、「人生」という主食を蔑ろにしているようなものだ。それでは人生がもったいない。


仕事の「やりがい」とはなにか

就職や転職で仕事を選ぶときに、お金よりもやりがいを重視するという人もいるだろう。自分にとってやりがいがある仕事をすると、達成感や充実感を感じやすく、肉体的なストレスはあるものの精神的なストレスは少なく、会社や社会の中で自分が役に立っているという感覚を得ることができる。仕事をしていく上でこうした感覚はとても重要である。もちろん人生にも。

だが、そもそも仕事においての「やりがい」とは何なのだろうか。今の仕事に不満を持っている人の中には「今よりやりがいのある仕事がしたい」「人の役に立っている仕事がしたい」と思っている人は少なくない。毎日毎日同じ仕事の繰り返し、意味があるのかわからない作業、ただ早く時間が過ぎるのを待つ。そんな毎日の仕事に嫌気が差している人は多いだろう。

しかし、そもそも「やりがい」というのは仕事そのものにあるわけではなく、自分で作り出していくものである。仕事のやりがいというのは探すからこそ見つからないのだ。「探す」のではなく「生み出すもの」としてやりがいを考えれば、どんな仕事に対してもやりがいを感じることができる。

たとえば、接客業や販売業・介護職という職種は、一般的にはやりがいのある仕事や、人の役に立っていると実感できる仕事と言われている。お客さんやおじいちゃん、おばあちゃんからの「ありがとう」という言葉で「自分は役に立っている」と感じ、その仕事に対してやりがいを感じる。

そうした、人と直に接する仕事はやりがいのある仕事と言われることが多い。しかし、こうした職種も仕事そのものにやりがいがあるわけではなく、自分の心でやりがいを作っているのである。

普段から「めんどくさい」「だるい」「やりたくない」と思っていれば、お客さんやおじいちゃん、おばあちゃんに「ありがとう」と言われてもやりがいは感じられないだろう。毎日「早く帰りたい」「休みたい」とばかり考えていれば、きっとどんな職種の仕事でもやりがいは感じられない。

やりがいとは決して「この仕事をすればやりがいを感じられる」「介護職ならやりがいがある」というものではなく、自分が仕事に対して思う気持ちによって感じるものなのである。つまり、取り組む姿勢が大事なのだ。

SNSでの投稿を見て「あの人の仕事はやりがいがありそうだな」と思うのはすべて幻想である。ミュージシャンやアーティスト、作家や芸術家、クリエイターや起業家といった人たちはやりがいを持って仕事をしているように見えるが、実際には、その人が自分でやりがいを作り出している姿を、それを見ている人が「あの人はやりがいのある仕事をしている」ように見ているだけなのだ。

今自分がやっている仕事に対してやりがいを感じていないのであれば、それは仕事に問題があるのではなく、今の仕事に対する考え方や取り組む姿勢に問題があるといえる。そして、その考え方のままほかの仕事や職種に転職しても、やりがいを感じることはおそらくないだろう。

もちろん、自分に合った仕事をしていればやりがいを感じやすいのは言うまでもない。プログラミングが好きな人はスターバックスで働くよりもエンジニアになったほうがやりがいは感じやすい。体を動かすのが好きな人が、事務作業をしているとストレスを感じるのは当然である。

だが、それでもやりがいは感じられないというわけではない。どんな仕事でもやりがいは生み出せるが、やりがいを生み出すための精神的なコストは得意な仕事や好きなことのほうが少なくなるというだけの話である。


仕事でやりがいを生み出すには

やりがいはどんな仕事でも生み出せるが、具体的にはどうすればいいのか。それはいたって簡単なことで、仕事に対して「主体的に取り組む」だけでやりがいは自然と生まれる。

働く意味がわからなくなったり、仕事にやりがいを感じられない原因の多くは、仕事を「やらされている状態」だからだ。それを主体的に取り組む「自分からやっている状態」に変えれば、やりがいやは自然と自分の前に現れる。これは綺麗事ではなく、私が実際に経験してきたことである。

人は誰かに命令されたり何かをやらされたりするのが嫌いな生き物であり、表に出すか出さないかの違いはあるものの、どんな人でも自分を中心に物事を考え、自分の思い通りに生きていきたいと思っているものだ。しかし、現実は「会社に雇われてお金のために仕方なく働く」「やりたくないけど上司にやれと言われたからやる」というように、ほとんどの人は他人や会社にやらされながら仕事をしている。

人はやらされている状態ではやりがいを感じることはできない。自分から主体的に取り組み、仕事を自らやっている状態でなければやりがいは感じられず、仕事に対する不満や嫌悪感も消えない。これは会社員という雇われの身だけでなく、自営業者にもいえることである。自分の事業であっても、仕方なくやらされている状態、お金のために仕方なくやっている状態では決してやりがいは感じられない。

では、仕事に主体的に取り組むとはどういうことなのか。それはたとえば「どうすればうまくいくか」「どうすれば仕事をもっと早く終わらせられるか」と、自分の頭で考えて工夫しながら目の前の仕事に取り組むことを指す。

これができれば、たとえコンビニの店員でも清掃員でもパチンコの接客作業でもやりがいを生み出すことができる。ただ与えられた仕事を惰性でこなすのではなく、「仕事をうまくこなすにはどうすればいいか」を常に自分の頭で考え、工夫し、実行するのである。

「あいつは仕事が遅い」「あの人のことは嫌い」「やりたくない」という余計なことは一切考えず、ただ目の前の仕事をいかにうまくできるかだけに集中する。仕事はやらされている状態ではただの作業に過ぎず、主体的に取り組んではじめて仕事になるのである(ここで言う仕事は、アーレントが指す仕事の定義とは一切関係がない)。

仕事のやりがいは、ただやっているだけでは感じることはできない。どんな仕事でも、自分で考えて工夫することではじめてやりがいを実感できるものなのだ。そして仕事にやりがいを感じることができれば、仕事への嫌悪感もなくなっていくだろう。

コンビニの店員でも、お客さんが来て接客するだけではただの作業に過ぎない。そうではなく、お客さんがいないときにはお店の商品を並び替えて棚を見やすくしたり、ちょっと商品をずらして買ってくれるか試してみる。あるいは、袋やストロー、箸などを取りだしやすい場所に用意しておくなど、主体的に作業に取り組む。そうした工夫をすれば、その作業をやりがいを感じる仕事に変えることができる。

おそらくほとんどの人は、仕事で「やったほうがいいけど、別にやる必要がないこと」はやらないで済ましているだろう。最低限言われたこと、自分に任されたことを最小限の努力でやっていればいい。そう思って仕事をしている人がほとんどのはずだ。しかし、仕事のやりがいは「やったほうがいいけど、別にやる必要がないこと」の中にこそあるのだ。

一つの仕事にやりがいを生み出す考え方がわかれば、ほかのどんな職種の仕事に変わってもやりがいは生み出せるようになる。そうすれば仕事に対する嫌悪感もなくなっていき、以前よりも仕事が楽しくなっているだろう。何度も言うが、大事なのは「どんな仕事をしているか」ではなく「どんな姿勢で取り組んでいるか」なのだ。

職種や年収、地位や権力といったもので仕事のやりがいを測るのは間違いである。目を向けるべきは、自分の仕事に取り組む姿勢なのだ。


やりたい仕事の見つけ方

第2部の最後は、やりたい仕事の見つけ方について考えていく。実際、自分が本当にやりたい仕事を見つけるのはとても難しい。特に現代は情報社会でもあり、隣の芝生は青く見えるように、たくさん稼げてキラキラした目立つ仕事が自分のやりたい仕事だと錯覚することも多い。YouTuberなどはその典型である。

しかし、本当に自分がやりたい仕事を見つけたいのであれば、そうした世間のトレンドや情報に振り回されず、自分自身の心と向き合わなければならない。世間的な評価を無視し、他人の目から自由になり、自分の信念や価値観と向き合うことで、好きだと思っていたことが実は嫌いだったり、やりたくないと思っていたことが実はやりたいことなのだと気づくこともある。

人間は自分の正直な気持ちにずっと噓をつき続けることはできない。やりたい仕事の変わりにやりたくない仕事をやっていると、疲弊して疲れきってしまう。お金のためだけに働いていたり、惰性で仕事をしていれば嫌気が差してくる。これは人間に備わった精神的な防衛機能だと言える。

身体を動かすのが好きなのにデスクワークの仕事をしていたり、運動が苦手なのに肉体労働の仕事をしていれば、誰だって仕事に嫌悪感を抱く。事務作業が好きなのに重い荷物を持たされたり、プログラミングがしたいのにデータ入力をやらされたりすれば、やはり仕事が苦痛になりやすい。

自分が本当にやりたい仕事と現実の仕事との間に生じるズレこそが、仕事で苦痛を感じる原因である。仕事は人生に欠かせないものであるがゆえに、仕事がつらくて苦しいものになると、人生の多くの時間が苦痛に満ちたものなる。逆に言えば、自分が本当にやりたいことを仕事にしていれば、それなりに楽しく人生を生きられる。

さて、上司の指示を受けてやるのではなく、自分から能動的に考え、動き、やりたいと思う仕事。それこそが「本当にやりたい仕事をしている状態」である。やりたい仕事をする最大の恩恵は、仕事に退屈しないことだ。

やりたい仕事をしている人は、目の前の仕事に没頭する機会が圧倒的に多い。「早く終わらないかな」と何度も時計を見るのではなく、「気がついたらこんな時間だった」というように目の前の仕事に没頭することができる。心理学者であるミハイ・チクセントミハイは、こうした状態を「フロー」と定義している。

フロー状態にある仕事では、「やらされている」「やらなければいけない」という感情はない。あるのはただ、「やりたいからやっている」「楽しいからやっている」「好きだからやっている」という感覚だけである。こうした状態で仕事をしていれば、働くこと自体が楽しくなってくるだろう。

だが、実際にはそこまで没頭できる仕事をしている人はほとんどいない。大多数の人はできれば働きたくないと思いながら、多かれ少なかれ仕事に対して不満を抱えながら働いている。しかし、自分の心と向き合い、自分の感情の動きを知ることで、没頭できる仕事を見つけことができる。

自分は何に楽しさを感じ、どんなときに幸せを感じるのか。何が好きで、何がやりたいのか。時間を忘れて没頭できるのはどんな時かを自分の感情を通じて理解する。やりたい仕事を見つけるきっかけは、自分の感情が教えてくれるものなのだ。


楽しい仕事⇒やりたい仕事が正解

ここでひとつショックなお知らせを。やりたい仕事を見つけるというのは、実は間違いである。というのも、「やりたい仕事を見つけられる」というのは、自分と向き合って考えればやりたい仕事が見つかると思いがちだが、実際には矢印の方向が違う。つまり、「やりたい仕事⇒楽しいこと」ではなく「楽しいこと⇒やりたい仕事」なのだ。やりたい仕事は思考ではなく感情から見つかるものである。

やりたい仕事とはどういう仕事なのかを分解して考えてみると、そこには必然的に「楽しい」という感情が混じっているものだ。やっていて楽しくないことはやりたくないだろうし、楽しくなければそもそもやりたいとすら思わないだろう。

やりたい仕事を見つけるときには、まず大前提として「やっていて楽しいこと」を見つけなければならない。そして、楽しいことは自分がやっていて楽しいと感じる事柄の中にある。

感情のない哲学的ゾンビでもない限りは、やっていて楽しいと感じることが何かひとつはあるだろう。ゲームをしているのが楽しいと感じる人もいれば、体を動かしているのが楽しいと感じる人もいる。あるいは、人と会ったり話したりすることに楽しさを感じる人もいれば、一人モクモクと単純な作業をこなすことに楽しさを感じる人もいる。

一人ひとり楽しいと感じる事柄が異なっていれば、一人ひとりどんな仕事に楽しさを感じるのかも異なる。やりたい仕事を見つけるには、他人が楽しい、おもしろいと語っている仕事ではなく、自分がやっていて楽しいと感じたことから仕事を考えなけらばならない。

最近はSNSによって他人の仕事や働き方に関する情報が溢れているが、そうした意見は他人が主観的に語っているものに過ぎず、自分がその仕事を楽しいと思うかどうかは別の話である。にも関わらず、多くの人は他人の仕事の話を羨ましく思ったり、自分もそんな楽しい仕事がしたいと思い、自分の気持ちと向き合うことなく仕事を選択してしまう。

自分がやりたい仕事は他人の話の中にあるのではなく、自分の心の中にしかないのを忘れないでほしい。自分が楽しいと感じることを仕事に置き換えてみると、やりたい仕事は意外と簡単に見つかったりするのだ。

ほかにも視点を変えて、仕事内容ではなく「働き方」に目を向けるのもおすすめだ。やりたい仕事を考えるときには、どうしても仕事内容に目が向きがちになってしまう。だが、仕事内容で考えてしまうと、ある程度「自分ができる仕事」という枠組みの中から仕事を選択することになる。そうすると、やりたい事の定義が自然と狭くなっていく。これでは「やりたい仕事」ではなく、「自分ができる範囲の仕事の中でやりたい仕事」を選ぶことになる。

やりたい仕事というのは、何の枠組みにも束縛されない自由な選択の中にあるものだ。言い換えると、前者は「会社に勤めて働く仕事」から考えるが、後者は「働き方も含めた仕事」から考えるということになる。どちらのほうが自分に合った仕事が見つかりやすいかは、考えなくてもわかるだろう。

現代ではインターネットさえつながっていればカフェで仕事ができ、自宅から一歩も出ることなく生活費を稼ぐこともできる(それが健康にいいかは置いといて)。働き方から仕事にアプローチすることで、自分のやりたい仕事が「自由に時間をコントロールできる働き方」だと気づく人も多い。

実際、私も働き方から仕事にアプローチした結果、今ではやりたい仕事をしながら生活している。 仕事内容にとらわれることなく、自分に合った働き方を考えることで、本当にやりたい仕事が見えてくることもあるのだ。この話の続きは第3部で詳しく。


第3部 働き方について

誰もが自分に合ったライフスタイルというものがある。ゆっくりのんびり生きるのが好きな人もいれば、ガツガツ行動してたくさん仕事をすることが好きな人もいる。ストレスフリーで気ままに働きたい人もいれば、ストレスがあってもお金さえ稼げればいいという人もいる。

こうした一人ひとりのライフスタイルの違いは、言い換えれば個性であり、個性は仕事をする上でとても大切だ。自分のライフスタイルに合った仕事をしていなければ、働くことに嫌気が差しやすい。自分の時間をたくさん欲しいと思っている人が、毎日残業ばかりして自分の時間がない働き方をしていれば、仕事に嫌気が差すのは当たり前である。

ライフスタイルに合わないことをすると精神的に疲弊してしまう。転職する人の中には、仕事さえ変えれば毎日が充実すると思っている人も多い。だが、問題なのは仕事そのものではなく、自分のライフスタイルに合っていない働き方をしていることかもしれない。

働き方を含めた上で、仕事が自分の気質にあっていれば、仕事をしている時間はそれほど苦痛にはならない。私は会社員だった頃、毎日同じ時間にアラームで起こされ、同じルートで通勤し、同じ時間に休憩し、同じ時間に退勤するという働き方にストレスを感じていた。仕事内容はそれほど苦ではなかったものの、気分が乗らないときでも職場に行かなければならない、決まった休日を目指して働くという状態がすごく嫌だった。

朝起きたときの気分で仕事するかどうかを決め、気分が乗らないときは長い散歩や遠くへドライブに行き、気分が乗っているときは一日中ガツガツ働く。私はそんな働き方がしたかった。1日の時間を自分の裁量で自由に使えるのであれば、正直仕事内容はどうでもよかった。

ある日の朝、いつも通り同じ時間に会社へ通勤したとき、ふと頭の中に「退職」という二文字が浮かんだ。なぜかはわからないが、多分車の中で流れたいた音楽の歌詞に気持ちを鼓舞されたのだと思う。そして私はその日のうちに退職を申し出て、独立することにした。今ではこの選択は間違っていなかったと思っている。

今では個人の働き方はかなり多様化している。昔は会社員であればフルタイムで出勤時間や休日などが厳密に決められていたが(今もそうかもしれない)、現代ではフレックスタイム制を導入していたり、有給休暇やその他の福利厚生が昔と比べて充実している会社も増えている。

自営業者にしても、今ではランサーズやクラウドワークスなどのサービスにより、個人でも仕事を獲得しやすくなっている。YouTuberやTikTokerといった動画で収入を得る人もいれば、サイトやブログを立ち上げて稼ぐ人もいる。ほかにも、単発の仕事をするギグワークという働き方も生まれ、自分の好きなときに働くことができる時代である。

こうした時代に生きている私たちは、そろそろ自分に合った働き方というものを考えてみるのもいいかもしれない。仕事を味方にすることができれば、人生の多くの時間が充実したものになる。会社員でなければダメ、正社員でなければダメという団塊世代の固定観念に盲目的に従うのではなく、ゼロべースから自分に合った働き方を模索するのだ。

そこでまずは、よく対比される会社員とフリーランスという2つの働き方について詳しく見ていこう。


会社員vsフリーランス

現代では「好きなことを仕事にする」というフレーズがイデオロギーにもなりつつあり、会社勤めを辞め、自分の好きなことを仕事にして生きていく、という考えが若者を中心に広がっている。SNSでも「独立しました!」「会社辞めました!」「フリーランスになりました!」という投稿を頻繁に目にする時代である。

たしかに、誰もが自分の好きなことで生きられる世界は素晴らしい。やりたくもない仕事を毎日8時間もやるのは、いくらお金のためとはいえモチベーションが上がらないだろう。しかしだからといって、安易にフリーランスになるのはおすすめはしない。というのも、近年は誰でもフリーランスになれるようになったからこそ、フリーランスという働き方の価値が過大評価されているように感じるからだ。

たしかにフリーランスは会社に通勤しなくてもいい分、時間的に自由だ。プログラミングやwebデザイナー、動画編集や文章力などある程度の専門的なスキルを持っているのであれば、生活するのに困らないだけの収入を得ることもそれほど難しくはない(難しくないだけで、決して簡単なわけではない)。

しかし、フリーランスは会社員よりも責任が伴う。会社員であれば毎日同じ場所に通勤していれば、惰性で働いていても毎月安定した給料がもらえる。一方、フリーランスは自分で仕事を獲得する必要があり、仕事のクオリティが低ければ簡単に契約を切られてほかの人に取って代わられてしまう。

会社員は自分で退職するか、よほどの不祥事やトラブルを起こさない限りは、毎月の安定した収入が途絶えることはない。これは会社員が自由と引き換えに得られる大きな強みである。フリーランスの場合はすべて自己責任の世界で、自分で仕事を見つけて生活費を稼がなくてはならない。

会社勤めに嫌気が差している人は、フリーランスのメリットばかりに目がいきがちである。「好きに働けて、人間関係のストレスもなく、自由気ままに好きな仕事ができるなんて最高だ」そんな風に考えてしまう。だがフリーランスの現実は、責任と不安で胸がいっぱいなのである。

フリーランスになった人の多くは、はじめの1年や2年は自由な生活に楽しさを感じるかもしれない。しかし、自由だけに惹かれてフリーランスになった人の多くは、自由でいることのストレスに耐えきれず、孤独や不安に負けて会社員に戻る人が多い。特に人間関係のつながりがなくなることで、精神的に不安定になることもある。

何年もフリーランスを続けられる人は、常に向上心があり、新しいことを学ぶのが好きで行動力があり、泥臭くて地味なことを継続できるタイプである。フリーランスで生きていくためには覚悟が必要だ。SNSのトレンドや世間の風潮に乗っかって安易にフリーランスになったところで、すぐに挫折して会社員に戻るのがオチだろう。


会社員のメリットはお金ではない安定にある

会社員のメリットとしてまず思い浮かぶのは「安定した給料」である。日本ではあまり仕事ができない人でも、とえあえず会社に行って仕事をしているフリをしていれば毎月安定した給料がもらえる。日本は外国よりも労働者の権利が強く、企業は人を簡単にクビにはできない。つまり、日本では外国と比べて会社員でいることのメリットが大きいのである。

だが、会社員の本当のメリットはなにも安定した給料だけではない。会社員でいることで得られる精神の安定、人や社会とのつながりこそが本当のメリットなのだ。お金の安定は将来の不安をある程度和らげてくれるが、人生の不安は和らげてはくれない。人間は社会的な動物であるがゆえ、人や社会とのつながりがなくなれば、たとえお金を持っていたとして惨めな人生が待っている。愛はお金では買えないのだ。

もちろん、職場での人間関係に嫌気が差している人も多いだろう。というよりも、仕事でストレスを感じる原因のほとんどは、実は職場の人間関係にあったりする。自分と合わない人が1人は必ずいるだろうし、職場によっては周りの人が全員クソみたいな人間性をしていることもある。銀行口座の貯金よりもストレス貯金のほうが圧倒的に溜まるのが早い人も多い。そうした職場に勤めている人は、会社員なんてやめて一人で気楽に生きたいと思うだろう。

しかし、たとえそうだったとしても、フリーランスで一人きりになって感じる孤独感や寂寥感、疎外感や虚無感も同じように精神的なストレスとなることを忘れてはいけない。むしろ、会社には何気ない会話をする人がいる分、誰とも話さないフリーランスのほうが精神的に悪影響でもある。

会社には嫌な奴がいるのは事実でも、気が合う人も少なからずいるだろう。何気ない会話をする人や悩みを打ち明けられる人、夕食の席で相談に乗ってくれる人など、そういう人が職場に一人いるだけで心が救われる。たとえそんなに深い会話をしない関係でも、ただ「会話する人がいる」というのは心や精神にとって重要な営みなのだ。

さきほど言ったように、人は社会的な動物だからこそ、人との交流を求めるのが自然である。社会から疎外され、誰とも会話しない状態というのは、職場に自分とは合わない敵がいる状態よりも悪い。これに関しては、フリーランスになったときに私も身をもって実感した。

私は元々そんなに人付き合いをしないタイプで、職場での人間関係にも嫌気が差していた。だからフリーになったときは毎日すかすがしい気分で働けると思っていた。だが実際は違った。はじめは良くても、誰とも会話しない毎日が続くと気持ちが少しずつ沈んでいくのが自分でもわかる。何かあっても気軽に相談できる人がそばにいなく、くだらない会話で笑ったりすることもない。話すのはスーパーやコンビニの店員との「袋はいりますか?」「いえ、大丈夫です」ぐらいなものだ。

そのとき私は、会社員でいることの本当のメリットに気づいた。嫌な奴も含めた上で、誰かがそばにいる環境で働くことは精神の安定につながるのだと。表向きは、嫌な奴に対してはイライラしたり一度ぐらいぶん殴ろうかと思うときもある。だがそうした感情も、人間として生きていくには必要な感情なのだ。一人っきりで誰にも怒ることがなく、逆に笑うことも話すこともないような生活は、たとえストレスがなくても充実しているとは言い難い。言い換えれば、ストレスがないことがストレスになるのだ。


野生と動物園の違い

さきほどは会社員のメリットについてあれこれ述べたが、結局のところ、会社員かフリーランスかといった議論は、メリットとデメリットを比較して考えるものではない。どちらにもそれなりのメリットとデメリットがあり、それらがメリットになるかデメリットになるかは、本人の性格や考え方、捉え方や価値観といったものに大きく左右される。

「会社を辞めてフリーランスになろう!」とメリットばかりを並べて語っているインフルエンサーに惑わされてはいけない。自分で経験しなければわからないことが多いのも事実だが、人生において会社員という立場は自分が思っている以上にメリットが大きいのだ。

何のスキルもなしに、勢いに任せて「好きなことで生きよう」という流行りのイデオロギーに飛びつくのはおすすめではない。正社員、アルバイト、フリーター、フリーランス、ギグワークなど、どんな働き方をするかは自分の自由である。安易にメリットに飛びつくのではなく、本当に自分が満足できる生き方を考えた上で、働き方と向き合わなければならない。

自由には責任が伴う。だからこそ、フリーは自由(フリー)ではないのだ。フリーランスとして働くのであれば、すべての責任を自分で背負い、うまくいかないことも全部自分で解決していかなければならない。毎日会社に行って惰性で働いていれば給料がもらえる会社員とはわけが違う。野生のライオンと動物園のライオンの違いを考えるとわかりやすいだろう。前者は生きるか死ぬかは自分次第だ。でも後者はそこにいる限り「生かされる」のだ。

会社員かフリーランスかで迷ったときは、自分は野生と動物園のどちらのほうが向いているかを考えるのがいい。これはどちらが良いか悪いかという問題ではなく、単なる本人の気質や性格の問題である。たとえ収入が不安定でも自分の好きに自由に生きたい人もいれば、安定した収入のためなら毎日8~9時間の拘束を受け入れる人もいる。

人それぞれストレスに対する許容度はまるで違う。他人が耐えられるストレスでも、自分には耐えられないこともある。逆に、自分が耐えられることが他人にはとても耐えられないこともある。大事なのは自分は野生と動物園のどちらが向いているかを考えることだ。野生(フリーランス)の不安定さにストレスを感じるなら動物園(会社)で飼いならされたほうがいい。逆に動物園(会社)にいることが苦痛なら、野生(フリー)で生きる術を学ぶ必要がある。

言うまでもなく、会社でうまく生きていくのに必要なスキルと、独立して自分の力で生きていくのに必要なスキルは違う。会社では仕事ができるできないではなく、同僚や上司といった周りの人たちとどれだけうまく付き合えるかのほうが重要だ。仕事ができても周りに馴染めなければ、会社では疎まれる存在になってしまい、会社にいることがストレスになってしまう。

一方、独立して生きていくのに必要なのは、ある程度の専門性である。もちろん、仕事をもらうという意味での人付き合いも大事だが、個人の持っているスキルが高ければ高いほど、仕事を獲得しやすいのは間違いない。多少性格が悪くても、高いスキルがあれば仕事をもらえるのだ(礼儀がない人は別)。


独立するために必要なスキルとは

よく、現代ではジェネラリストよりもスペシャリストになるのがいいと言われている。ジェネラリストとは幅広い知識を持っている人のことであり、仕事に置き換えて考えると「何でもそつなくこなす人」である。一方、スペシャリストは専門家のことであり、「一つのことに特化したスキルを持つ人」のことを差す。

現代では誰でもできるような仕事は今後AIによって置き換えられていき、いわゆるホワイトカラーと呼ばれる仕事はなくなっていくと言われている。それに対して、AIでは代替できないような専門的なスキルが必要な仕事は今後も生き残る。だからみんなジェネラリストではなくスペシャリストになろう、というわけだ。

もちろん、専門的なスキルを身につけるのは簡単ではない。本気で学ぼうと思えばそれなりにお金と時間がかかる。そして多くの人たちは、専門的なスキルを身につける前に挫折してしまう。何年か前にプログラミングブームが起こったときに手を出した人の中で、今もプログラミングを続けている人はどれだけいるだろうか。

だが、多くの人が専門的なスキルを身につける前に挫折するからこそ、そこにはチャンスがあるとも言える。勉強すれば手に入るような資格は、現実ではあまり役に立たない。必要なのは実践で役立つスキルなのだ。

しかし、私は将来の仕事のことを考えてスキルを身につけることには反対している。第2部で説明したとおり、将来性のある仕事なんてものは時間とともに変わっていき、今注目されている仕事も数年後には別の仕事に置き換わっているだろう。現時点で将来必要だと言われている専門的なスキルを身につけたとしても、そのスキルは数年後にはあまり使いものにならなくなっているかもしれない。

だから私は、独立するためには専門的なスキルではなく、コミュニケーションスキルのほうが必要だと思っている。たしかに突出したスキルがあれば仕事を見つけるのは有利になるかもしれない。だが、長い目で見れば、他人とうまくコミュニケーションするスキルのほうが仕事をもらいやすいのだ。

私の周りにもスキルは高いのに全然仕事がもらえないという人がいる。彼は人付き合いが苦手で、他人とのコミュニケーションがお世辞にもうまいとは言い難い。独立してやっていくためには自分で仕事をもらう営業力や、自分はこんなスキルを持っていると周知させるためのマーケティングスキル、そして自分はこんな人間ですとアピールするブランディングスキルなどが必要である。そしてこれらすべての根幹がコミュニケーションスキルなのである。

私はなにもプログラミングや動画編集といった小手先のスキルを否定しているわけではない。独立する以上、何かしらの専門性は持っていないと仕事を見つけるのは難しいだろう。だが、それは専門性だけあればいいというわけではなく、専門性を活かして仕事を見つけるにはコミュニケーションスキルも必要だと言いたいのである。世界一の投資家と言われるウォーレン・バフェットも、「良い人生を生きるためにはコミュニケーションスキルがもっとも重要な投資」と言っている。

必要な専門的なスキルがどんどん変わっていく中で、コミュニケーションスキルはどんな時代にも通用する普遍のスキルである。時代は変わり、社会は変わり、人も変わり、仕事も変わっていく。会社員であれフリーランスであれ、その他どんな働き方をするにしろ、コミュニケーションスキルを身につけておいて損はないだろう。言ってしまえば、コミュニケーションスキルへの投資こそ、これからの時代の最高の生存戦略なのである。


自分に合った働き方を考える

さて、ここまでは会社員とフリーランスという2つの働き方を見てきた。ここからは、それら2つを含めた上で自分に合った働き方を考えていく。何度も言うように、現代では働き方が多様化していて、会社に勤めるだけがすべてではない。

独立してフリーランスとして活動し、業務委託で仕事をもらうという働き方は昔よりも一般化し、企業も個人へ仕事を外注することも増えている。ランサーズやクラウドワークスを見ると、アプリ開発やロゴ製作、動画編集やライターなどたくさんの仕事があるのがわかる。現代は独立してやっていくハードルが下がった時代なのだ(何度も言うが、多様化している=簡単という意味ではない)。

また、独立したとしても業務委託ではなく、自分で何かサービスを作ったり、ブログやサイトを作って稼ぐという働き方もある。YouTuberは業務委託ではなくすべて自分で動画を作成しているため、フリーランスで活動するよりもしがらみがないのがメリットでもある。

Uber Eatsなどで単発の仕事を請け負って働くのも若者を中心に人気だ。こうした仕事はギグワークと言われ、自分の好きな時間に働くことができ、稼ぐ額も自分である程度決められるのがメリットである。

最近の若者はお金よりも自分の時間や趣味の時間を優先する傾向があるようだ。会社で正社員として雇われると色々な責任がのしかかり、残業などで自分の時間がなくなる。それならお金は少なくてもいいから自分の働きやすいように働き、最低限生活できるだけのお金さえ稼げればいいというわけだ。

こうした働き方に対する意識が変わったのは、社会的な変化の影響もあるだろう。現代ではスマホさえあれば娯楽をほぼ無料で楽しむことができ、無限に暇をつぶすことができる。AmazonプライムやNetflixの会員になれば映画やアニメを無限に楽しむことができ、音楽もストリーミングサービスやサブスクリプションでいくらでも聞ける。

恋愛市場では芸能人やインフルエンサー、YouTuberやミュージシャンなど一部のモテる人たちが勝者総取りする時代になっており、モテる努力をするよりも無料でAVを楽しむほうが気楽でいいと思っている人も多い。結婚でさえ、結婚するために必要なお金を稼ぐ労力と、結婚に対する気持ちを天秤にかけた上で判断している人がほとんどだ。

その結果、結婚するよりも気楽に働き、娯楽を享受して楽しむほうがいいと考える若者が増えている。未婚率が高くなっているのは、お金がないというよりも、無料かつ安価で楽しめる娯楽が溢れているため、お金を稼ぐ労力を考えると結婚なんかせずに自分の好きに生きたほうが魅力的だと判断しているからだとも言える。

昔は娯楽を楽しむためにはお金が必要だったが、現代ではそれほどお金を必要とせずに楽しく毎日を生きられるのだ。そのため、働くのが嫌な人は働く時間を減らし、自分に合った働き方で最低限の収入を得ながら暮らしていくことを選んでいる。

自分はどんな働き方を選択するのかは、自分の価値観に大きく左右される。安定してお金をたくさん稼ぎたいのであれば、正社員として働き、転職などを通じて年収を上げていくのがいいだろう。一方、お金よりも自分の時間が欲しい人は、正社員ではなくアルバイトや派遣で気楽に働くという選択もある。自分の好きなことでお金を稼ぎたいならフリーランスや自営業、本当に必要最低限なお金だけでいいのであればギグワークで稼ぐという手もある。

自分がどういう働き方を選択するかは、自分が人生で何を大事にして生きているかという価値観を元に決めると後悔が少ない。「正社員だから安定」「お金を稼がないとダメ」といった世間的な風潮には左右されず、自分はどういう生き方がしたいのか、どう生きたいのか、何を大事にして生きていくのかを考えるのだ。

自分の価値観さえハッキリしていれば、他人や世間の声に振り回されることなく、自分らしく働き、満足した人生を生きられる。結局のところ、人生は自己満足的なものでしかないため、自分が納得した上で気持ちよく働ける働き方を選ぶのがいい。そこに他人の意見なんて必要ないのだ。


自分のワークライフバランスを知る

働き方を考えるときは自分の価値観を基点とするのが基本ではあるものの、自分のワークライフバランスを知ることも大事である。ワークライフバランスとは仕事の時間とそれ以外の時間の割合のことであり、1日のどれだけの時間を仕事に費やすか、どれだけ可処分時間を確保するかということ。

たとえば、普通に正社員として9時~6時で働いている人は、仕事の拘束時間が9時間、帰宅してから家事やお風呂の時間を差し引くと、可処分時間は大体2~3時間というところだろう。これが一般的な会社員のワークライフバランスである。

しかし、多くの人は2~3時間の可処分時間では満足できず、つい睡眠時間を削って夜更かししている。残業をすれば可処分時間はもっと減り、帰宅してからやることをやったらもう寝る時間という人も少なくない。こうした生活を充実した生活と感じる人もいれば、つまらない社畜生活だと思う人もいる。可処分時間がどれだけ必要かは一人ひとり違うのだ。

ほかにも、週にどれだけ休みが必要か、どれだけ働けるかといった部分は個人のメンタルや体力にもよるところが大きい。日曜だけ休みで毎日12時間働けるという人もいれば、週休2日でもキツくて、残業なんて無理という人もいる。自分のワークライフバランスからはみ出した働き方をしていると、次第に精神が疲弊していき、ひどい場合は鬱になったりしてしまう。

そのため、自分のワークライフバランスを守れる働き方を選ぶのがおすすめである。自分は何時間働くと疲れるのか、休みはどれぐらい必要なのか、睡眠時間は何時間か、可処分時間はどれぐらい欲しいのかなど、自分の生活を基点に考え、その生活を実践できる働き方を選ぶ。そうすれば、比較的ストレスフリーで働くことができ、充実した毎日を実感できるだろう。

日本人は他人の目や意見を気にしすぎる気質なのか、「ほかの人も頑張っているから自分も頑張らないと」という意識が強い。「みんながやっているから自分もやる」というのは、趣味や娯楽の分野ではいいかもしれないが、仕事や働き方に適用するとおかしなことになる。仕事は人生において大事だが、自分を蔑ろにしてまで働くことはないのだ。そして、大事だからこそ自分に合った働き方を選ばなければならない。

前にも言ったように、私は会社員として毎日1日8時間拘束されるのが嫌だった。休憩時間や休日の日数も決まっていて、体調が悪くて休むときも上司からは嫌な顔をされる。そんな生活をこれから先何十年も続けていくことを考えると嫌気が差してしまった。だから私は、自分の価値観とワークライフバランスに従った働き方をしようと決めた。今では気分が乗らなければ仕事を放り出して散歩に出かけたりなど、1日の時間を完全に自分でコントロールすることができ、自分なりの充実した働き方を実践している。

会社員、フリーランス、自営業、ギグワーカーなど、現代は働き方が多様化している。どの働き方を選ぶかは自分次第である。会社員でしか生活費を稼げないと思うのは間違いだ。現代では「お金があれば何でもできる」と思っている人が多いが、豊かな生活の定義は一人ひとり違う。お金持ちにならなくても充実した人生を生きることはできる。だからお金ではなく、自分の価値観に従って働き方を選んでみてほしい。

自分の価値観と働き方がマッチしたときこそ、人は仕事から自由になれるのだ。


第4部 結論

この本も終わりが近づいてきた。現代人は仕事が嫌いな人が多く、できれば働きたくないと思っている人が大多数である。金曜日の昼になれば「あと半日」というキーワードがトレンドに入ったりし、多くの人がどれだけ休日を待ち焦がれているかが伝わってくる。

しかし、1日の中で多くの時間を占めるもの、人生全体で見てもかなり多くの時間を費やすものである「仕事」が、そんなにも苦痛を伴うものであって本当にいいのだろうか。20代や30代の人たちは、仕事に対する嫌悪感をそのまま持ち続けたまま、この先30~40年働き続ける人生でいいのだろうか。仕事は人間にとって苦痛を伴うものではなく、もっと人生の根幹にかかわる、それこそアイデンティティに影響を与える営みではないのだろうか。

そんなことをぼんやりと考え続け、自分の仕事に対する考えや価値観を一冊の本にしてみようと思い、この本が出来上がった。人間にとっての仕事とはなにか、仕事はどうやって選ぶのがいいのか、自分に合った働き方とはどんなものなのか、この本の主題として取り上げているのは実際に私が何年も悩み続けたテーマである。

人は生きていく以上、生活を維持できる最低限のお金を稼がなければならない。そしてお金を稼ぐためには、仕事をしなければならない。しかし、「仕事はお金を稼ぐもの」という認識が、仕事に対する嫌悪感を生み出している。仕事の本質はお金を稼ぐことだったとしても、お金を稼ぐことだけが仕事ではない。そして、どうせお金を稼ぐのであれば、自分に合った仕事と働き方をしたほうが、仕事に対する嫌悪感も和らぎ、楽しく働けるのではないか。そして、人生の多くの時間を占める仕事が楽しいものになれば、人生そのものも楽しいものになるだろう。これが本書の主張である。

この本には、私がこれまで仕事と向き合い、考え、悩んできたことのすべてを書き記している。とはいっても、書いていることは一個人の仕事論であり、好き勝手に考えたことをまとめたものなので、読んでくれた万人にとって有益なものになるかはわからない。だが私と同じく、仕事や働くことの意味、どうやって仕事を選べば楽しく働けるのか、自分に合った働き方とはどんなものなのかについて悩んでいる人にとっては、参考になる部分があるのではないかと思っている。

仕事に対する考え方や価値観は人それぞれ違うだろう。私の仕事に対する考え方や姿勢を否定する人もいるだろうし、まったく参考にならなかったという人もやはりいるだろう。それでも、本書が改めて仕事と向き合うきっかけになってくれたら著者は満足である。

仕事は人間にとって生きる意味そのものであり、個人のアイデンティティにもなるものだ。仕事をお金を稼ぐものとしか考えなければ、あなたの人生はお金を稼ぐためのものにしかならなくなる。この本を読んでいるということは、あなたが生きたいのはそんな人生ではないはずだ。

人生には苦難がつきものだが、自ら苦難のある人生を選ぶ必要はない。生活費を稼ぐための「労働」から、アイデンティティを得るための「仕事」へと発展させることができれば、人生は格段に生きやすくなる。やることのない人生ほど無味乾燥したものはないが、仕事のない人生も生きる意味がない。本書が仕事に悩むすべての人の参考になってくれれば嬉しい。


エピローグ さぁ、今日も仕事をしよう

朝日が窓から差し込む光で目を覚ます朝は気持ちがいい。一方、携帯のアラームでたたき起こされると、自分はロボットにでもなったんじゃないかと思ってしまう。

目を覚ましていつも真っ先に頭に思い浮かぶのは、今日はどんな風に一日を過ごそうかということだ。一日中仕事に没頭するのもいいし、のんびり散歩に出かけてもいい。暇している知り合いに連絡して一緒にご飯を食べてもいいし、何もせず窓の外を眺めながら瞑想したっていい。

時間を自由に使えるのは、私にとって自己所有権を取り戻したのと同じ意味である。自分の気持ちと感情で一日を好き勝手に作り上げていく。ある程度決まったルーティンはあるけれど、誰かに強制されているわけではなく、自分で決めたルールなのでそこにストレスはない。自分で自分に課したルールは守れば守るほど自尊心が高まり、自分の中に確固たる自信が湧いてくる。

仕事と恋人は似たもの同士である。うまく付き合えば人生に多くの幸せをもたらしてくれるが、付き合い方が悪かったり、自分の価値観やライフスタイルに合っていなければストレスの温床となってしまう。合わない相手と付き合い続けることほど苦痛をもたらすものはない。仕事も同じだ。多くのストレスを抱えながらやる必要はない。合わないなら自分にとって最適な仕事を探せばいい。

自分が本当に人生を生きているかどうは、仕事を楽しんでいるかによる。仕事のための人生ではなく、人生のための仕事をし、一日の終わりに満足を感じながらベッドに潜り込むことができれば御の字だ。仕事が終わって気持ちよく「疲れた~!」と言えるか、それとも「もう疲れた、、」と死んだ魚のような目をして言っているのか。

本当の自己満足は仕事から生まれるものだ。朝ベッドで目を覚まし、仕事をしたいと思えるのであれば、あなたは仕事を愛しているし、仕事に愛されている。そしてカフェインが大量に入った熱々のコーヒーをすすりながら思うのだ。「さぁ、今日も仕事をしよう」


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