竜崎大輝

フリーランスwebライター。心理学と脳科学が好き。エッセイ書いてます。Twitter⇒「https://twitter.com/ddd__web」ブログ⇒「https://zinsei-hack.com」気軽にDMください。

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    • ぜひ読んでほしいエッセイまとめ

      人気のあるエッセイ、個人的に読んでほしいエッセイを抜粋しています。

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    竜崎大輝のプロフィール

    はじめまして。竜崎大輝です。 この記事では、自分のことについてザックリと自己紹介していきます。 竜崎大輝についてまずはじめに、「竜崎大輝」という名前はペンネームであって実名ではありません。 実名を公表しない理由については特に理由はありませんが、このご時世、SNSやネット上で安易に本名をさらけ出すのはそれなりにリスクがあると考えています。もちろん、犯罪歴などがあるという意味でもありません。 ザックリとした簡単なプロフィールは以下のとおり。 ・本業:フリーランスライター

      • 生きていくこと。

        1日の中で夕暮れの時間が一番好きだ。 思えば昔から夕方の時間に外を歩くのが好きだった。 特に秋の夕暮れの匂いが独特で好きなんだけど、夕暮れの時間はそれぞれの季節に根づいた匂いがあるんだなぁと最近感じている。 人が忙しなく行き交う場所でいきなり立ち止まって空を見上げるのは迷惑な行為だとは思うけどついやってしまう。 空を見ると独りじゃない気になれるし、自分の視野や生き方、人生がどれほどちっぽけなものなのかも思い知らされる。 悩みとか迷いとか尽きることはないけれど、狭い空

        • 娯楽の読書と知識のための読書

          この間友達と話していて、お互い読んでいる本について語り合った。その人は本を音楽や楽器といった「娯楽」と同じ枠組みとして考えていて、本は「楽しむために読むものだ」と言っていた。 彼が読んでいる本は主に小説であり、貫井徳郎や伊坂幸太郎、森博嗣や宮部みゆきといった、誰もが一度は耳にしたことがある作家の本を好んで読んでいる。 自分は普段あまり小説は読まないんだけど、それでも名前ぐらいは知っているし、それぞれの代表作も読んだことはある。 その友達(ここではS君と呼ぶ)は、小説は物

          • 明日死ぬかのように生きる。

            昔からの格言のひとつに「常に死がそばにあるものと思って生きよ」というものがある。 これは古代の哲学者たちも口を酸っぱくして伝えていたことであり、現代でもよく耳にする言葉でもある。 ラテン語にも「メメント・モリ」といった似たような言葉があり、これは「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」ということを伝えている。 古代から現代にいたるまで、「死」は人間にとってもっとも忌避すべきもの、恐怖を感じるものであった。 「死ぬことは怖い」「何があっても死にたくない」そう思いながらも人

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            竜崎大輝

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            利己的であるはずの人間が、利他的かつ自己犠牲な行動をするのはなぜか。

            「人は本質的には利己的な生き物である」 これは幾度となく議論されてきたことであり、かの有名なリチャード・ドーキンスも「利己的な遺伝子」という本を書き、世界的なベストセラーになった。 ドーキンスが言うには、「人間という個体はDNAが肉体という乗り物に乗った存在にすぎない。それぞれの個体は自らの遺伝子を複製させるために生きている」とのことだ。 自己中な人間は性格が悪いのではなく、自らのDNAに従って行動しているだけのこと。自分の利益を一番に考えて行動することこそ、DNAを次

            モノは大事にするものであっても、執着するものではない。

            近年は断捨離ブームが起こったりしているが、自分の身の回りにあるものを整理するのは心の平静を保つためにも大切なことである。 断捨離というのはただモノを処分する作業ではなく、自分にとって本当に必要なものとそうでないものを峻別する作業なのだ。 モノを持たない人たちのことを、現代では「ミニマリスト」と呼んだりしているが、ミニマリストは自分にとって本当に大事なものだけを大事にする生き方をする人たちである。 たくさんのモノを持てば部屋は狭くなるし、コストもかかる。不必要なものばかり

            葛藤こそが人生。

            人生は葛藤の連続だ。 何かうまくいかないことがあると、すぐ投げ出してしまいそうになり、嫌なことがあると何もかもがダメになりそうになる。 人間の感情はマイナスなことやネガティブなこと、自分にとって負の出来事のことを強く感じるようにインプットされている。 たとえば、遠くに見える大きな岩をクマだと見間違えたり、草むらで何かが動いたらヘビだと勘違いして全力で逃げるのも、人間が物事をネガティブに解釈することで、自らの生存確率を上げるために自然が人間に備えたシステムだと言える。

            人は決して分かり合えず、世界は多数派で支配されている。

            人は他人の痛みには鈍感だ。 自分の苦しみや悲しさ、痛みや悲劇に対する反応を、そのまま他人に適用することができない。 テーブルに小指を思いっきりぶつけて泣き叫んでも、他人が同じような目にあったときは「うるさい」の一言で片付けてしまう。 自分に不幸な出来事や嫌なことがあったときは、自分がどれだけ大変な目にあったかをグチグチと語るが、他人の同じような話を聞くときには「自業自得」だの「仕方ない」と冷たくあしらう。 基本的に人間は自分の痛みしか理解できない。 自分の経験則から

            賞賛されても承認欲求が満たされないのはなぜか。

            人間にはたくさんの欲求があることは誰もが理解している。 食欲をはじめ、性欲や睡眠欲、物欲や金欲、承認欲求や自己実現欲求など、人間には数え切れないほどの欲求が存在する。 一般的には、欲求を満たすことで人は幸せを感じると言われているが、欲求には良い欲求が悪い欲求がある。 良い欲求というのは言うまでもなく、満たすことで幸せや喜びを感じられる欲求である。 一方、悪い欲求というのは満たしても満たしても満足できず、満たすほど逆にどんどん強くなり、まるで麻薬のように人間を振り回す欲

            希望がない人生に価値のある「生」はない。

            生きていく上で「自分が本当に自由に生きられる場所」を持つことは何よりも大事だと思っている。 「自由に生きる」と聞くと、なんだか胡散臭い自己啓発っぽい匂いがプンプンするだろう。 だが、ここでいう自由とは経済的な自由のことではなく、「自分らしく生きられる場所=自由に生きられる場所」という意味である。 それは自分にとって聖域のような場所であり、そこにいるときだけは自分らしく、自由な心を持って生きていられる。そんな場所である。 人によってどこが自由にいられる場所かは異なる。

            やりたいことをやらずに、やりたくないことをやるな。

            タイトルがこのエッセイのすべてでもあるのだが、やりたいことをやることは本当に大切であると最近強く感じている。 「やりたいことをやろう」「好きなことをしよう」みたいな言い分はあちこちでも耳にするし、これまでは正直「意識高い系がなんか喋ってるな〜」ぐらいにしか考えていなかった。 でも、最近人の死に巡り会うことが多く、人間の命と人生の儚さを改めて前にすると、やりたいことをやらない理由なんてないし、やりたくないことやっている時間なんて人生にはないのだな、と身に染みて実感させられる

            人生とは「大切なものを失う旅」である。

            人生とは何なのだろうか。 望む望まないにしろ、人はこの世に生を受け、人間として100年近く人生を生きていくことになる。 10代の頃は若者、20代〜30代の頃は青年、40代〜50代は中年、60代にもなれば高齢者と呼ばれ、この世に生を受けてから経過した時間によって、人間というカテゴリーの中での呼び名も変わっていく。 でも、誰もが100歳まで生きられるわけではない。若くして亡くなる人もいれば、事故や不運な出来事で突然死んでしまう人もいる。数年前まではピンピンしていたのに、病気

            「書く」という営みについて私が語ること。

            「書く」という行為は、私にとって「自己表現」と同じ意味である。書くことではじめて自分自身がわかり、頭の中にある断片的なアイデアの一つひとつが結びつくことで、はじめて「自分」という一人の人間を表現することができる。 思えば、私は昔から目立ちたがり屋だった。記憶に残っている限り、小学生の頃はとにかく明るくてうるさくて元気がいい子どもだった。でもそれは悪目立ちのようなものであって、とにかくみんなに注目してもらいたかっただけな気がしないでもない。 そんな子ども時代を過ごしていると

            浮気や不倫をする人と、しない人の違いはどこにあるのだろうか。

            芸能人の浮気や不倫が炎上するのは現代では珍しいことではなくなっている。ツイッターを開いているだけで誰々が浮気した、不倫をしたという情報がいち早く入ってきて、それに対してみんなが一斉にガソリンを撒き、マッチに火をつけ、一気に炎上することになる。 こうした現象は紛れもなく現代のSNSによって助長されており、SNSがあることによって人間の行動が昔よりも可視化され、芸能人のプライベートなども透明性の元に晒されている。これは時代の流れとしてはどうしようもできないことであり、その流れは

            子どもの頃からずっと大切にしている「自由」という言葉の意味。

            小さい頃からよく「自由」について深く考えるのがクセで、それは今も変わらない。とはいっても、ツイッターなどのSNSによくいる「20代でお金をたくさん稼いで自由になろう!」とか「自由になるための4つの方法!」とかいう胡散臭い謳い文句やビジネス臭がプンプンする自由の概念とはまったく違う。 これは別にほかの人の自由の概念や考え方、生き方を否定しているわけではなく、お金を手にして自由になるという生き方に自分が違和感を感じているだけだ。自由にお金が必要だと考えるのは、青空の下を思いっき

            いつから「言葉」は雰囲気で使われるようになったのだろう。

            最近なにかの本で読んだのだが、「もったいない」という言葉はどうやら日本語にしかないらしい。英語では「waste」がもっともニュアンス的に近いようだが、その意味は「無駄」である。「無駄」と「もったいない」はなんだか違うような気もするが、まぁ日本語は難しいものである。 しかし、「もったいない」という言葉を使っている人は、何がもったいないのかを本当に理解しているのだろうか? ご飯を残したり、モノを捨てたりすると「もったいない」と言う人がいるが、そのもったいないという言葉にはどんな