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小説:河川敷と、タバコと、瑠璃色と。第1話| [創作大賞2024] | 恋愛小説

あらすじ

「書けなくなった小説家」柿崎かきざき蒼佑そうすけは河川敷のベンチでタバコに耽る日々を送る。しかし、夏のある日を境に、彼の憩いの場所に奇妙な人々が集まりはじめた。

不自然なほど自然に振る舞う謎の女性、西野にしのゆう。
夜な夜なプチ家出中の訳アリ小学生、鈴木すずき陽斗はると
後ろ向きに道を歩く変わり者なじいさん、山吹やまぶき賢三けんぞう

彼らの物語が思わぬところで交差していく。流れていく鶴見川を辿るように、止まっていた時間が動き始める。これは果たして偶然か運命のいたずらか。居場所となった河川敷の寂れたベンチで巻き起こる、ごくごく小さなヒューマンドラマ&恋愛小説。

プロローグ

 夜の帳が降りたある夏の日。

 鶴見川を一望できるJR綱島駅近くの河川敷には青々とした草原がまんべんなく茂っている。左手側に、車専用の往路復路と頑強な歩行者用通路が特徴的な大綱橋が対岸まで伸びていて、さらにその奥に、東急電鉄東横線が通るこぢんまりとした橋が並行してかかっている。しかし奥の橋には名前がない。その名もなき橋まで全部含めて「大綱橋」とされているかもしれないが、詳しいことは分からない。

 大綱橋の交通量はそこそこあり、車の走行音が高架下によって増幅されると一帯の環境音をすっかり支配する。よって、ぼくは大綱橋とは反対側、つまり右手側に歩を進める。徐々に走行音が遠ざかると、ジーと断続的に鳴く虫の声だけがすっかり耳になじみ、夏らしさが目いっぱいに広がる。

 川の対岸にはやや背の高いマンションが建ち並び、そこに住む人々の放つ光がちかちかと川の水面に反射する。土手には一定の間隔で街頭が建ち、光の道筋がそのまま道路の土色を示している。
 華やかな対岸と盛り上がった土手、それら光源二つの谷間みたいになった河川敷には、水面に反射した月明りが頼りくらいの、わずかな明るさしかない。
 薄ぼんやりとした河川敷の中に、ぽつんと青いベンチが浮かび上がる。昼間でさえほとんど存在感がないそれは、夜であればなおさら闇に溶け込んでいた。ベンチの足元はそこそこ成長した草の丈に覆われていて、地面から直接生えているように同化している。
 土手から軽快に斜面をくだり、ベンチの座面を軽く払いながら腰を下ろし、ポータブル灰皿を中央において一服する。
 それがぼく、柿崎蒼佑《かきざき そうすけ》のルーティンだった。
 ルーティンはいつも通り行われる予定だったが…、今日に限っては、ためらう理由があった。


 煤けたベンチの上に、ウェーブがかったロングヘアーがしな垂れていた。


1.不自然なほど、自然な出逢い


 一瞬、目を疑う。
 ベンチに先客がいたことはこれまでなかった。幽霊でも取り憑かれていそうな不人気っぷりこそお気に入りたる所以だったのに…。別に幽霊だとか思ったわけではないが、対象が栗毛色のロングヘアーときたから、必要以上に戸惑った。
 ナンパな真似は好きでなかったし、積極的に人に絡む性質たちでもないので、長らく土手の上でまごまごしていた。…見なかったことにして、このまま帰ってしまおうか。だが、あの忘れ去られてしまったようなベンチに興味をもつのはどのような人だろうか。わずかな好奇心とせめぎ合った。

 結局、興味に軍配があがる。一年間このルーティンを突き通してきた意地もあるし、何よりこんな機会は二度とないだろうと、意を決して斜面をくだる。
 斜面にぼうぼうと生える草花を踏みしめ、青いベンチと栗毛色の輪郭がだんだんと鮮明になる。途中で引き返そうかとも思いなおったが、また斜面を登るのも億劫おっくうになり、そのまま重力に任せた。

 少しだけ左手側、大綱橋側に進路を外しながらくだる。1/3ほど降りたところで横目にベンチを見ると、煙が立ち昇っていることに気づく。
 喫煙所で見慣れたタバコの煙。宵闇よいやみの中をぼやっと上昇していくそれを見届けながら、ベンチと同じ高度の平地まで到達した。
 
 スマホの光に照らし出された女性の顔が、暗闇の中に浮かび上がる。化粧っ気こそないが、目鼻のくっきりした顔。驚くほどに美人さんだ。服装はラフで、上下とも灰色のくたびれたスウェット。組んだ足の上に左手をダラッと置いて、人差し指と中指の間に細長いタバコが挟み込まれている。
 ふわふわと煙が夜に紛れていく様子は、いつか手掛けた小説のワンシーンを彷彿ほうふつとさせた。

 胸ポケットからタバコとを取り出しながら、おそるおそるベンチに近寄る。女性がこちらに気づくと、表情を変えないままジッと様子を伺ってきた。どこかやましい気持ちが湧き、ふり払うよう反射的に口を開ける。

「あー……すみません、その、横、いいですか?」タバコの箱を軽く掲げながら聞く。
「いいですよ」彼女はなんでもないように答えた。
 このだだっ広い河川敷でピンポイントで近づいてくるやつなんて怪しいに決まっているし、てっきり不審がられると覚悟していたが、思いのほか気さくな返答に面食らう。女性は表情をかえずに、小刻みに頷いていた。
 ぼくは絞り出すように「…どうも」と答えると、体に染み込ませたルーティンに従って一本タバコを取り出す。たった3言の会話のあと、ジッポの開閉音が河川敷に響く。点火の役割を果たしたジッポを閉じ、デザインのお披露目の機会を与えないままポケットにしまう。タバコを持ち替えて一息に吸い込み、気を紛らわすように煙を吐き出した。

 女性の表情を見るのが途端に怖くなる。視点が落ち着きなく泳ぎ、対岸の町並みを眺め続けることでなんとか平静を保つ。
 
 これだけ広い河川敷で、何の理由もなしにわざわざ隣に来ることなどあるだろうか?相手の立場からしたら、どう思うだろうか。すっかり自分の行動を後悔していた。

 「…あの、座らないんですか?」

 ギクリとして、町並みから視線を引き剥がして声の主に向ける。笑顔を浮かべるでもない、自然体の彼女と目が合う。「え、あ、はい?」と要領がのみこめていないテンプレートみたいな生返事がでてしまう。

 横、いいですか?と聞いておきながら、ぼくはベンチに座るでもなく女性の左側にボーっと突っ立っていた。得意気にジッポを見せつけ、視線を遠くの町並みに向け、ハードボイルドでも気取ったように見えていたのだろうか。きっと、そうなのだろう。そんな痛々しい自分の姿を想像したら、ああ、いたたまれない。このまま川に飛び込みたいくらい恥ずかしい気持ちになった。

 腑抜けているぼくを尻目に、女性は腰をずらしてベンチの右端まで移動した。もともと座っていた左側にスペースが作られる。空けたスペースに彼女が手を伸ばし「ここにどうぞ」と示すよう、座面をポンポンと叩く。座ってどうぞ、ということらしい。

 警戒心を見せない女性の対応に、動揺が加速する。「ど、どうも」とこれまた生返事をしながら、おずおずとベンチにすり寄り、空いたスペースに腰を降ろした。「いえいえ」と、女性はハッキリ返事をしたあと、自然に続けた。

「お兄さん、このへんの人ですか?」
「……あぁ、ええ、仕事帰りはよくここで一服してるんですよ」

 休憩室で世間話をするようなトーン。お兄さんという似つかわしくない呼び名に違和感を覚えつつも返事をする。彼女の膝元に視線を移すと、組んだ脚の上にスマートフォンを伏せていた。光源がなくなり、その表情が暗がりに包まれる。わずかに顔をこちらに向けて、目線だけはぼくの方に大きく流れている、と想像した。

 「へー、常連さんだったんですね。」
 「ええ、先客がいたのは初めてだったんで、ちょっとびっくりしてしまって。」

 彼女の下からすくい上げるような独特の頷き方がオーバーに思えた。しかし、顔がよく見えない中でもこちらの話を聞いてくれていると伝わる。彼女の聞く姿勢につられて自然と話が進む。

 「私も穴場見つけたなと思って喜んでたんですよ。ここの静かな雰囲気が、とても気に入ったんで、そうだ!と思って、一服しちゃってました」
 「はは。いいとこでしょう」

 「落ち着きますねぇ」と明るいトーンで答える彼女。話し方からして若い印象を受ける。しかし、ただ若いというには、落ち着き払っている態度がチグハグに思えた。むしろ、先程までテンパって動揺していたぼくのほうがよっぽど若々しい反応だったに違いない。

 「ここには、どれくらいの頻度で来るんですか?」
 「ああ、大体週に3回くらいです。もっと来たいくらいなんですけどね」
 「めっちゃわかります。毎日でも来たいですね」

 暗闇に目が慣れてきて、段々と表情がうかがえる。初めて彼女の表情が更新される。口角がややあがった自然な笑顔。柔和で魅力的だった。きっと耐性のない人間なら、すぐに心を射抜かれてしまうだろうな、とか漠然と考える。
 
 しかし、さきほどまでチグハグな印象はそのままだった。「上手に笑う」という、いわれもない表現が頭にパッと浮かんだ。どこか上手にこなしている印象が抜けなかった。
 先ほどまでの彼女の仕草を思い出す。タバコをくわえる姿も、視線を上げて煙の向こうに澄み渡った夜空を眺める姿も、夜空のなかひっそり浮かべる微笑も。どれもが不自然なまでに洗礼されていて、まるでドラマか映画の撮影中みたいだった。

 …そもそも不審者みたいな声のかけ方をしたぼくが、何を偉そうに評価してるんだろう。自分自身の不遜な考えにピシャリとむちを打つ。
 だけど疑問は膨らむ。
 若いようで、でも堂々としていて、ぼくのような捻くれた大人の警戒心すら解いてしまう彼女は一体何者なんだろうか。そうして視線が彼女の表情へ釘付けになっていることに気付き、ハッとした。これじゃまるで虜みたいじゃないか。

 あわてて視界を外すが、誤魔化すほかなくなった子どもみたいな振る舞いに思えて、恥の上塗りといった気分だった。いたたまれなくなり、視線もだんだんと落ちる。
 落とした視線の先には、対岸のマンションからの電気と月明りの反射だけになった鶴見川。水面はゆらゆらと穏やかな黒をうつしていて、荒れ狂うぼくの心とは対照的だった。その冷静さを少しは分けてもらいたい。
 ふと、彼女が話しはじめる。

 「私、最近、越してきたんですよ。この近くのマンションに。それでタバコで新居を汚すのも勿体ないなって思って、いいトコロないか探してたんですよね」
 「ああ、そうだったんですか」
 「そしたらお兄さんに話しかけられて、先客だって聞いたから、『ここはウチのシマだー!出てイケー!』なんて言われるんじゃないかって」言いながら彼女はクスクスと笑っている。
 「いやいやいやいや、そんなこと言わないですって。…こちらこそ、変に話しかけちゃって申し訳ない」
 「全然全然!いまは、喫煙仲間見つけちゃったラッキーって感じで、めっちゃホッとしてます」

 彼女はスウェットについたカンガルーポケットからポータブル灰皿を取り出して、タバコの残骸を押し付けながらポツポツと語った。心地よいリズムとややロートーンな彼女の声色は、不思議とぼくを安心させた。飾り気もなく、卑しさもない。まるで旧知の仲のような気安さがあった。俄然、彼女が何者であるのか気になってしょうがない気分になり、タバコを吸うスピードもいつにも増していく。

 まったく警戒心を抱かない様子に、よっぽどの不用心かとも思っていたが、単純な純朴さとも違う気もする。むしろ場馴れしている印象。経験を積んで成熟されたがゆえの雰囲気ではないか、などとぼんやり考えていた。

 「こんないいとこなのに、人、こないんだなぁ」

 彼女は残念そうな声色を繕い、ぼやいた。バージニア・エスの箱を取り出し、手慣れたように2本目をくわえたところで、視線が合う。いつの間にか、ぼくは水面から目を離して、彼女の動作を追っていた。ちょうど彼女もそれに気づいたのか視線を向けて返していた。
 まずい。視線を交差させまいとわざとらしく目を泳がせる。まるでいたずらがバレそうになった子供みたいに背筋がぴんとのばして、ごまかす。動揺を隠そうとあくせくしていると、彼女は右手で手招きをする。

 おいでおいでと、こちらを誘うような動作。
 一瞬の戸惑いの後、ぼくはおずおずと身を乗り出す。
 近づいたぼくの顔に、彼女もまた顔を急接近させた。

 彼女のくわえたタバコと、ぼくのくわえたタバコの先端が、接着する。

 びっくりしたまま動けなくなる。後は、一本につながったタバコの動向を見守るしかなくなった。
 動揺から焦点も定まらない。彼女の輪郭が視界の外にはみ出す。
 伏し目がちの瞳から長いまつげが上に跳ねて、凛とした鼻筋がキレイに線をひいている。しな垂れた前髪をかきあげた時、指先に淡い瑠璃色のネイルがちらりと見えた。

 タバコに火が燃え移り、ゆっくりと離れる。彼女は元の位置に戻り、呼吸をふかめて火の勢いを強め、夜の闇に煙を立ち昇らせた。煙の行く末を追いかけるように顔を見上げ、それから視線をこちらに傾けて、微笑む。

「これからも、ここ、お邪魔させてもらいますね」

 いたずらっ子のような無邪気さがそこにあった。
 ぼくは、不自然なほど自然な動作をする彼女の正体を突き止めようと必死に思考への集中を強めた。しかし、自分の動揺を多い隠せるほどの効力はなく、心はドギマギしたままで考えるに至らない。
 大丈夫だろうか。顔は赤くなっていないだろうか。ちょうどいい口実がないかわたわたと探しあぐねていたぼくの口から、吸いかけのタバコがポロリとこぼれた。自由落下に任せて、ベンチにぶつかり、灰が飛び散る。そのまま座面にも弾かれて足元の植物にまぎれてしまう。慌てて拾い直すが、すでに湿気ったそれにもういちど着火する気は起きなかった。

 「あっ、あー、ごめんなさい。もったいないこと、させちゃいましたね」
 「え、あ、…大丈夫です… ちょっとびっくりしちゃって」

 謝罪の言葉をのべながらも、目を三日月にしてわずかに挑発的な表情を浮かべる彼女。そのままンベッと舌を出してもおかしくはないほど蠱惑的だった。
 動揺するぼくの心に、悔しさが湧く。その心を少しでも晴らすように彼女に尋ねてやる。

「…お姉さん、こういうことはよくやるんですか?」
「ああ、まぁ、なんか自然にやっちゃうんですよね」
「自然にか。す、すごいね」
「ふふ。動揺するお兄さん、かわいかったですよ?」

 若さとは罪だと思った。こんな態度をとられて悪く思う男はいない。掌でまんまと転がされ一層の悔しさを感じながらも、どうしようもなく惹かれた。ほがらかに笑みを浮かべて、タバコをくわえなおす彼女に見惚れてしまいそうだ。
 最初こそ、危ない娘だなと呆れていたものの、警戒心を抱いていないのは自分も同じことだと思った。

「はは、弱ったな」

 自然に口から出た言葉は、自分自身に宛てたメッセージだった。落ちてしまったタバコを灰皿にねじこんで、代わりにもう一本無理矢理くわえた。我ながら下手くそな照れ隠しだ。火をつけて、思い切り吸い込む。それから気持ちを清算するよう、深く深く、吐き出した。

 今年で31歳になる。自分を若いと思うことがめっきり少なくなった。だから惚れた腫れたな感情にも抑制がかかると想像していた。しかし、フタをあければ、初対面でおそらく年下である娘にまんまと踊らされている。所詮はぼくも男にすぎないのかと、内心で肩を竦めた。

 「お兄さん、ご家族さんいます?」

 ぼくの小さな敗北を知ってか知らずか、相変わらずの調子で問いかけてくる。きっと彼女はあの手この手でこちらの男心をいじめ抜いてくるのだろう。そうと分かっていてもイヤな感じはいっさいなく、素直に会話を続けたくなる。せめてこの一線だけは守ろうと取り繕っていた敬語も、気づけばタメ口になっていた。

 「母親だけだね。子供もいなけりゃ、結婚もしていないよ。」
 「あ、そうなんですね。てっきり奥さんがいるかと思いました。」
 「ええ、そう見えるかい?」
 「見えます見えます。だから一人になろうとここに来ているのかなって、ちょっと思ったんですよ。お気に入りって話を聞きましたしね」
 「ああ、もともと一人が好きってだけなんだ。家にかえっても、結局は一人。ここは、本当に丁度いい場所だよ。学生の頃、かなり無理言って家を出たってこともあって、なかなか家族とは顔を合わせづらいかな」
 「へ~、じゃあ、似た者同士かもしれないですね」
 「…そうなのかい? 少なくともタバコは違うみたいだ。」
 「あ、これ最近変えたんです。バージニア・エス。お兄さんのラッキーストライクですよね。私も最初はそれ吸ってたんです。でもウケが悪くて、いまはこっちです」

 そういってタバコを持つ手をフリフリと揺すり、煙が波を描いて吹き上がっていく。ベンチの端と端、中央に1人分のスペースを開けた距離感で、どちらともなく会話が続いていく。彼女の言った、似た者同士、はどれに対してなんだろうか。そして「誰のウケ」が悪かったのだろうか。

 聞きたいことはたくさんあったが、そんなナンパな真似をする自分がどうにも想像できなかった。キャラじゃない。タバコが良い話題の緩衝材になってくれたことにひたすら感謝した。

「へえ、そうだったんだね。ぼくはヘビースモーカーだった父親が吸ってるのを真似して以来、ずっと、これだけ。」

 気持ちにフタをするみたいにして、もう一度タバコをくわえた。彼女は「…父親。なんだかいいですね」なんていいながら、ぼくに習ってタバコをくわえていた。
 正面の鶴見川を眺める。街の明かりを反射させた水面が、さらさらと音を立てる。言葉の代わりに煙が立ちのぼるだけの時間が、ゆるやかに流れていく。

 もともとタバコはキライだった。父が相当なヘビースモーカーで、年がら年中、家中がけむたかった。母が咳き込むぼくを心配して、家の中では辞めるようホンキで説得してくれたこともあった。母の前では喫煙を避けるようになったが、母が出かけた隙を見計らっては、家の中でこっそりと吸うのだ。
 ぼくが高校生くらいになると、「蒼佑もいつか吸う時くるかもしれないな」なんて、目の前でプカプカ吸い始める始末だった。普通、親なら俺みたいになるなと、息子の喫煙を咎めるべきなんじゃないかと思った。

 結局、20才までタバコを口につけることはしなかったし、成人してからも10年間は一本たりとも吸わなかった。良い反面教師だったのだろう。
 30歳を超えた今となっては、父の予言どおりになってしまったが…。

 悪いことばかりじゃない。いやに長くなってしまう会話の間も、タバコがあれば正当化できた。それに自分のリズムを保てる点も気に入っていた。ベラベラと喋り続ける必要なく、適度に思考の時間を稼げる。滝のように流れていく会話はどうにも苦手だったし、自分も積極的に話すタイプではなかったから、ちょうどよい緩衝材になっている。

 話す、吸う、聞く、煙を吐く。そうしてまた話す。

 あいだに工程がひとつ挟まるだけで本来の冷静さが取り戻せる。今回の場合は、恋心と錯覚する脳内をいったん鎮静させる役割も担っていた。ぼくの動揺をたっぷり吸いこんだタバコを灰皿にせっせと押し付ける。いまこの中には、ぼくの煩悩がさぞかし溜まっていることだろう。
 十分にゆとりをもってから口を開いた。

 「そちらは。ご家族さんは?」
 
 「…家族は、いないですね。父も母も、小さい頃に死んじゃって。車の交通事故だったんです。まぁ、物心つく前だったんで、ほとんど記憶とか思い出もないです。それから、一人暮らしだったおばあちゃんが引き取ってくれて、大体12年くらいですかね。一緒に暮らしてましたけど、私が高校生のころに死んじゃいました。そこから、いろんなところを転々として、最近ここに、って感じですね」
 「そ、そうなのか。大変だったね…。あぁ…ごめん、悪いことを聞いた」
 「ぜんぜん。ふっきれてるからいいですよ。むしろこんなこと聞かせちゃって。こっちこそごめんなさい。お兄さん、イヤにならなかったです?」
 「いや、イヤってことはないよ。聞かせてくれて…ありがとう?」
 「ふふ、なんですかそれ」

 小さく笑う彼女はとても自然体だった。通りすがりの男に、ここまで話してよかったのだろうか。彼女が悪い大人に捕まらないか心配になる。恋だなんだのと揺れた気持ちは、もしかしたら保護者的な視点での情動だったのかもしれない。

 とにかく、彼女は、人から好感を持たれるようにできている。そう思わざるを得ないような魅力があった。確かに心は揺らされた。このまま、お姉さん、彼氏さんは?とか聞いてしまいそうだった。しかし、そんなの気持ちさえ見透かされ、まるで彼女の計算通りの振る舞いをさせられていると疑ってしまう。

 きっと彼女のこれは演技なのだろうと、どこか納得してしまった。短時間でここまで人の心を惹きつける自然体は、等身大の姿ではないだろうと思う。ぼくだってそうだ。大人の殻を被って体裁を保っていて、等身大とは程遠い。いや、保てているかどうかも分からないが。

 どこかで、彼女を見たことがあるような気がする。
 彼女によく似た人を知っているような気がする。
 しかし思い出せない。タバコの吸いすぎか?
 頭の中まで煙で満たされてしまったようで、記憶をうまく取り出すことができない。

 大綱橋の高架下から響き渡る走行音がまばらになっていく。帰宅ラッシュの時間が過ぎ、交通量がだんだん減ってきた。

 「じゃあ、私はこのへんで失礼しますね。」

 彼女は最後のタバコをポーチ型のポータブル灰皿に詰め込み、立ち上がった。見降ろされるような形になるところを、彼女は身をかがめて、ぼくの目線の高さに合わせようとしてくる。

 「お兄さん、お話きいてくれてありがとうございました。また今度」
 「あ、ああ、こちらこそ。…ありがとう。またおいで」

 またもや動揺を隠せなかったぼくに、あの挑発的な笑みをつくってみせた。彼女はお役御免となったポータブル灰皿をポケットに突っ込むと、そのまま斜面を登っていく。ちまちまと控えめな歩幅で坂の上の道路までたどり着くと、こちらに振り返り、軽く手を振った。斜面の下と上で目線が交錯する。
 こちらも小さく手をあげて応じた。

 彼女がそのまま河川敷の外へ去るのを見届け、ぼくは正面の鶴見川に向き直った。まるで小説の中の出来事だった。彼女は一体何者だったのか、ぼくは思い出そうと躍起になっていた。遠い記憶の中で、やけに印象づいている「誰か」と重なる。ぼくは彼女を知っている気がした。
 
 ふと正気に戻って、かぶりをふる。
 まったく、いつからぼくは運命論者になったのだろうか。そんなロマンチストなタチじゃない。そうして、本日最後になるタバコの残骸を瑠璃色のポータブル灰皿に押し付けて、帰路につく。

 斜面を登って、土手の道路にでる。振り返れば、さきほどまで過ごしていた河川敷は、闇の底みたいな具合で夜に沈んでいた。目線を道路に戻しても、すでに彼女の姿はどこにもない。ジーという虫の鳴き声と、たまに通る車の走行音の中にぼくはすっかり取り残される。

(そういえば、名前も聞いていなかったな)

と、ぼんやり考えていた。




つづく。


②話目:柿崎蒼佑と、西野ゆう

③話目:河川敷の小さな訪問者

④話目:白状

⑤話目:後ろ向きの爺や

⑥話目:河川敷の4人と、その帰路まで

⑦話目:神崎宗助と、和泉真菜

⑧話目:山吹賢三と、鈴木陽斗と、シシノメと。

⑨話目:雨音と、喪服と、瑠璃色の記憶。

最終話:柿崎蒼佑と、○○○○



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