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小説:河川敷と、タバコと、瑠璃色と。第8話

前回


8.山吹賢三と、鈴木陽斗と、シシノメと。


 灰がかった曇り空の中、街灯の薄ぼんやりとした明かりのにじむ河川敷。ベンチでくつろぐ山吹老人と、その横で足をブラブラさせながらしきりに空模様を気にする陽斗くんの姿を確認した。日が暮れる前ににわか雨が降り、湿り気を含んだ斜面を慎重にくだりながら近づく。ぼくの姿にきづいた陽斗くんが、待ちくたびれたとばかりに声をかけてくる。

「あ、蒼佑兄ちゃん!やっと来てくれたぁ」ベンチから降りて駆け寄ってくる陽斗くん。
「陽斗くん、こんばんは。今日は少し遅くなった」
「やあ、神崎くん」
「先生、こんばんは」
「あいにく、彼女ならきとりゃせんよ」

 開口一番に山吹老人の放った言葉は、ぼくのわずかな希望を早々に打ち砕いた。こうして河川敷に降り立った時から、西野さんの行方を視界の端で捜していたが、ぼくの捉えた視界通りの事実があるばかりだった。

「…そう、ですか」

 落胆の色を隠すのも難しく、声も視線も沈んだ。落とした視線の先に、陽斗くんの手元に抱えられたぼくの小説が映る。西野さんが持ってきた「瑠璃るり色の空とありし日の君」を約束通り受け取って、彼はこうして毎日持ち出していた。とても本が読める明るさではない河川敷だが、自宅で読み進めては分からない部分あるといって、スマホのライトに照らしながら西野さんや山吹老人に尋ねるのが彼にとっての日課になっている。

 特に山吹老人は熱心で、それでいて面白おかしい解説が上手なものだから陽斗くんもあっという間に懐いた。もともと陽斗くんが人懐っこい性格というのもあったが、山吹老人も孫と重ね合わせている節もあるのだろう、優しく彼に接した。ちなみにぼくはというと、3人の感想や解説を嬉しく聞きつつも、どこか学芸会の発表のようで気恥ずかしい思いをしていた。

 ちょうど今も陽斗くんは本を開きながら山吹老人に解説を求めていたが、いかんせん光源がないから共有のしようがなく、待ちぼうけていたところらしい。読み合わせる為には、ぼくか西野さんのスマホが必要だった。眼下の陽斗くんが焦れったそうに催促してくる。

「兄ちゃん、はやくはやく」
「ああ、悪い悪い、ちょっとまってね」陽斗くんに急かされながら、スマホを取り出すと、ひったくるように持ってかれた。
「あ、こら」
「兄ちゃんが遅いからだよー!」
 
 跳ねるようにベンチに座り直し、器用にライトの継続照射機能をオンにする。山吹老人の手元に小説が握られ、かざしたライトがお目当ての一説を照らした。山吹老人は気品ありげな鼈甲べっこうの老眼鏡を羽織りから取り出し「どれどれ…」と言いながら装着した。「えっとね、ここがね…」と陽斗くんに急かされながらも、落ち着いて読み込んでいた。ぼくはそんな二人を見届け、川べりに近寄ってから一服をする。
 
 山吹老人との出会いを果たしてから、2週間が経過していた。夏休みのシーズンもすっかり終盤にさしかかり、上がり続けた気温も盛り返し徐々に下降線を辿った。西野さんは、3日前から姿を見せていない。もしかしたら同棲相手が帰ってきただとか、旅行にでも出かけているではないかとか、体調を崩したのではないか、とか、あれこれ予想を立ててみたが、どれも確証には至れなかった。
 結局、西野さんの問いには答えらていないままだった。「どうして書かなくなっちゃったんですか」と問いかけられた直後、ぼくは目を伏せ乾いた笑いを響かせることしかできなかった。
 今にして思えば、その問いへの答えは複雑なように見えて、シンプルだったかもしれない。和泉真菜との因縁、父の訃報、そういった出来事の積み重ねだった。しかし、それらは山吹老人の計らいで、ほとんど解消したと言ってよかった。問題は、和泉と話したことによって判明した新事実だ。

 シノノメ ルリ。

 今ちょうど陽斗くんの手元にある「瑠璃色の空とありし日の君」は、ぼくが23歳の時に書いたものだ。つまり8年前。そして和泉の証言によれば、当時のシノノメルリは高校に通い、なんらかの原因で通えなくなったと語っていた。少なくとも15~17歳と考えられる。西野さんの年齢をちゃんと聞いたことはなかったが、ぼくよりもひと回り若いのには間違いない。それに祖母が亡くなったという話も、この河川敷で西野さんから聞いた話と合致した。山吹老人が開口一番に「シノノメ」と発言した経緯もある。どれも、偶然にしてはあまりにも出来すぎていた。

 西野ゆうは、シノノメルリなのだろうと思い込むに十分な確証がある。だとしたら、彼女の立場からすれば、ぼくはお気に入りの作家でもあり、同時に、自分の手紙に一切反応を示さなかった非道の人物にうつっているのではないだろうか。あれだけの熱烈な手紙を受けて、返信もせず、新作にも手をつけずと、そんな冷たい大人に映ってしまったのではないだろうか。

 2週間前の自分を殴ってやりたい。君のおかげでようやく書けたんだくらい、キザなセリフを吐いておけば良かったと本気で後悔している。ぼくが和泉から限りなく真実に近い証拠を手に入れてからというもの、どうやって彼女に謝ろうかとそればかりに苦心していた。しかし、和泉に原稿を渡した次の日から今日まで、彼女は現れていない。
 自分のせいかもしれない。そればかりが頭をぐるぐると巡っていた。せっかく手渡せた原稿も、すぐに連絡をして引っ込めたい気持ちになっていた。その衝動を押し込めるようタバコを乱暴に吸い、瑠璃色のポータブル灰皿に吸い殻を押し付けてベンチに戻った。

 ベンチに戻ると、山吹老人から鋭い目線が向けられた。何事かと身構えると、隣で陽斗くん少しだけうなだれている様子が目に映る。
「なにかありましたか?」
「どうやら、の、彼はもうここには来れないらしい」
「うん…」
 彼は、ぽつぽつと家の事情を話し始めた。陽斗くんの、両親の離婚が決まったらしい。そして近々、家をでていく予定があるのだという。つたないながらも真剣に伝えようとたどたどしく話す様子に老人は心を打たれて、どこまでも傾聴の構えを取り、また、ぼくもそれに感化されて話に聞き入った。
 「ぼくは、母さんについていく。だって、お父…いや、あいつは別の人のとこにいくっていうんだ。母さんがいるのに、今住んでいる家も、ぼくたちも、捨てるって。それで、しばらくはさ、母さんのそばにいてやらなきゃって。もう、…俺は決めたんだ」

 一瞬だけ、陽斗くんの一人称が俺に変わったことに気付いたぼくは、その精神性の成長に驚きを隠せなかった。同時に、この子と母親の幸せを心から祈った。山吹老人に至っては、鼻をすすり、涙を流していた。それから杖を手放すと、陽斗くんの体を横からぎゅっと抱きしめた。陽斗くんは驚いた様子で唖然としていたが、しばらく抱擁を受けているうちに、山吹老人よりもずっと威勢のいい鼻すすりの音と、こらえるような嗚咽をあげた。老人は頭をなで、その頭上から激励の言葉をかけた。

 「おお、君は立派な子だ。君とならお母さんも安心だよ。よいよい。ワシらのことはもう考えんでよい。だが、しょい込みすぎてはならん。それだけはならんぞ。どうしても辛ければ、ここにくるとよい。いつでも小説の授業を開いてやる。ワシの家に来たっていい。ふたりに甘えたっていい。とにかく、無茶はするでない。我慢のしすぎもよくない。お母さんとしっかり手を取り合い、それから、しっかりと甘えて、生きなさい」
 
 山吹老人はしつこいくらいに撫で続けた。まるで甘え方を陽斗くんに無理やりに教えているようだった。
 ぼくは陽斗くんが、純粋で甘えんぼな子だと思い違いをしていた。そうではなかった。彼には甘える先がずっとなかったのだ。甘えられるはずの存在が弱っていて、または彼も自分自身の意思をどこまでも無視していて、ずっと耐え忍んでいた。
 己の無力をなげきそうになった。しかし、山吹老人がそれを見咎めるように、こちらに視線を向けてかぶりを振った。
 
「きみも、あの子も、立派にやった。ワシは君と西野さんの行いを、誇らしく思うぞ」

 陽斗くんがここまで本心を明かすことができている現状は、まぎれもなく君たちの功績だ。何も恥じることはない。そう、目で訴えているようだった。目頭に熱いものがこみ上げる。
 老人は彼を解放して落ち着くと、陽斗くんはまた話をぽつりぽつりとし始めた。

「しばらく家に居ていいってアイツは話してたけど、母さんが、すぐにでも出られる準備をしておきなさい、っていうんだ。だから今夜からでも、荷物をまとめなきゃいけなかったんだけど、どうしても、ゆう姉ちゃんに会っておきたいと思って。ほら、これ」

 そういって小説を掲げる。彼がずっと小説を持ち歩いていたのは、読んでもらうためでも解説してもらうためよりも、いつでも西野さんに本を返せるように、というの意味合いが強かった。律儀な子だ。彼の持ち前の責任感がよっぽど伝わるようだった。
 それを聞いて、また山吹老人が彼をなでる。「きっと、彼女なら君に譲ってくれる」そう言いながら微笑んだ表情は、本物の孫に向けるのと何も変わらない愛情そのものだった。ぼくも感傷に浸って、おもわず声をもらす。

「…寂しくなるな」
「…うん、でも、そんなに遠くにはいかないと思う。学校は、もしかしたらそのまま通えるかもしれないって話だったから」その事実に雰囲気がパッと和らいだ気がした。
「落ち着いたころを見計らって、こっちからも遊びに行くよ。もちろんゆう姉ちゃんも連れてさ」
「ホント?! 約束だよ!」

 陽斗くんの顔がパッと明るくなる。この暗い河川敷の中でも輝かんばかりの表情に、また山吹老人の涙腺がウルウルとし始めていた。そうして白いひげの中でズズッと鼻を鳴らすと「さぁさぁ、準備は今夜からなのだろう。こうしちゃいれん。お母さんのそばにいてやりなさい。なに、また会える」といって催促をした。

 陽斗くんは「分かった」といって、珍しく持参していた手提げ袋に小説を入れた。小さな折り畳み傘もその中に納まり、さらに袋の底には、ぼくや西野さんのIDを記したメモ用紙が眠っている。彼曰く、雨が降ってもゆう姉ちゃんの本を濡らさないように、最近は手提げ袋を必ず持参しているらしかった。その律義さや健気さに、またもや山吹老人の涙腺が危ぶまれた。ぼくも、思わず彼の頭をなでるほかなくなっていた。
「しかし、そんな急に家をでるっていうのも不思議だ。あてがあるのかな、実家が近くだったりとか」

 ふと思った疑問を口にする。答えは気にしていなかったが、意外にも陽斗くんはその解答を知っていた。

「なんかね、ずっと昔に喧嘩したおじいちゃんがこの辺に住んでるんだって。ぼくが生まれた時にはもう居ない、って聞かされてたんだけどね、最近、ただ喧嘩してて顔を合わせづらいだけだよ、って話してくれた。それでもういい加減、頭を下げに行こうと思う、って言ってて、ぼくもそれについてくことにしてるんだ」

 事情を聴いてうなづいた。頼れる人がいるならば、存分に頼るといい。辛いときほど一人での頑張りには限界があると、ぼくも身に染みるほどによく分かっていた。

 そうして感心していると、どうもベンチに座る山吹老人の様子がおかしかった。明らかに挙動不審で、効果音にするなら『ワナワナ』していた。落ち着きのない老人は、要領の得ない様子で陽斗くんに問いかけた。

「陽斗や、お前さん、苗字は、な、なんという?」
「ぼく?ぼくは鈴木だよ。鈴木陽斗」
「ハルト、ハルトとは、どんな漢字を書くのだ?春先のハルに、人でト、ではないのか?」
「ええ、っとね、たいようの陽に、斗は、うーんなんていえばいいんだろう、こうチョンチョンでシュッシュッみたいな漢字だよ」
「一斗缶のトです」とさりげなく口添えしてやると、それを聞いた老人は全身の力がなくなったようにベンチにもたれかかって、そのまま中空を見上げて静止した。老人の奇怪な様子を見届け「ど、どうしたんですか?」と声をかけたものの、山吹老人は半分開いた口から空気を漏らすばかりで、反応は希薄だった。陽斗くんはベンチから飛び降りると「おじいちゃん、どうしちゃったんだろう…?」と心配そうにぼくに耳打ちしてきた。
「よくわからないけど、ここはぼくに任せて、早いとこお家にいってあげな」
「わかった。…それじゃあ、蒼佑兄ちゃん、山吹おじいちゃん、ありがとう!…あと、ゆう姉ちゃんによろしく言っといてね!」

 そうして会った時と同じように、斜面を歩幅目いっぱいに元気よく駆け登っていった。濡れた斜面など気にせずに土手の道路までたどり着くと、こちらに振り返って手を大きく振った。ぼくも手を大きく、大きく振り返した。いつのまにか正気を取り戻していた老人も、視界の端になんとか映るくらいのごく小規模で、さりげなく手を振り返していた。

 土手の向こうへと去っていった陽斗くんを見届けると、横の老人に声をかけた。
「先生、さっきは何があったんです…?だいぶ取り乱してましたけど」
「ああ、ああ、いや、しかし、そんなことが、ああ」
 急に呆けてしまったのかと心配になるくらいまとまりのない老人の横に座り、ぼくにも伝染しそうな動揺をタバコでごまかすことにした。
「ほら、タバコでもお吸いになって、一旦落ち着きましょうよ」
 ジッポを取り出し、喫煙を促した。「おお、そうしようか…」と、羽織から古き良きパッケージがまぶしいわかばを取り出し、そこから震えた手で一本抜き出す。ジッポをさしだすと、老人は腰を屈めて火にタバコの先をあてた。

 ゆっくりとふたりで喫煙の時間を味わった。煙が夜闇に流れて消えていく。そこにバージニア・エスの煙が含まれていないことが、いやに寂しく胸をついた。こうして山吹老人と二人きりタバコをふかすのは初めてのことだった。

 山吹老人はタバコをくわえる時間が極端に短く、ほとんどを手の中で吸い殻に変えていっていた。普段から吸わない。とくに陽斗くんの前だと喫煙者だという態度をおくびにも出さなかった。そのほとんどは年端もいかない子供相手に出されることはなく、ぼくのようにタバコを口実にしか間を作れない若者のために利用していると話していた。
 先生でも人に合わせることがあるのかと、つい口にだしてしまったことがある。それでも怒らず「ワシをなんだと思っておるのか。血の通った人だよ。それも、人に血を流させすぎた自覚すらある側のな。ワシはワシだけで生きるには、もう弱りすぎた」と話した。
 珍しく弱音を吐いた老人の言葉には、やりきれない何かが柔然に込められていた気がする。だが、その根拠はいよいよ今日まで掴めなかった。山吹作品の中でもごくわずかしかヒントを残さなかった人だ。そう簡単に押し拓けるものだとも考えていなった。それでも知りたい。知りたいからこそ、ぼくはファンなのだろう。

 そうして、間を十分に空けると、老然とした態度を取り戻した山吹老人が語り始める。これから始まる話の中に、山吹賢三の核が込められているのだと十分な覚悟をもって臨めた。

「ワシにはな、友梨佳という娘がおってな、なに、それとの長い、それでいてとてもつまらない因縁の話だよ。―――妻が亡くなってからすぐな、娘はでていった。もうここにいる意味はないとか、せいせいしたとか、そんな捨てセリフを残してな」
「友梨佳さんとは、仲が悪かったんですか…?」
「それは、もうな。…いや、妻のことは好いておった。ワシにはてんでだった」タバコの煙をゆらゆらと漂わせながら、まだタバコは手の中に納まっていた。

 山吹老人にしては珍しく、ゆったりとした間と会話だった。一息にまくしたてる普段の先生の姿はなく、苦悩に満ちた人間がベンチに横たわっているように思えた。
「『見返り美人』の時、君は言っておったろう」
「ええ、奥様がモデルではないと、思ったことでしょうか」
「それじゃ。細部は違えども、ワシと家内は、君と和泉編集のような間柄だったと言ってよい」
「…ぼくと和泉ですか。えっと、作品を巡って険悪になったとか」
「いや、険悪にはなっていない。ただワシと家内には激情が一切なかった、というだけだよ」

 しばらく言葉の意味を考えた。激情の伴わない、しかしぼくと和泉を指すくらいだから、穏やかな関係性とも言いづらいはず。つまるところ、その関係性がぼくには理解しえない次元でのやりとりではないかと、推定するしかなかった。ゆっくりと持たされた間の中で、一つの予想が頭をよぎった。

「思うような作品が書けなくなり、奥様に引け目を感じているうちに、激情が娘さんに向いてしまった、と?」
「おおむねその通り」それから久しく吸っていなかったタバコをくわえて吹かした。煙をぽうぽうと吐き出しては見上げて、夜空の雲との境目を消していった。
「だが、直接的なことは何一つしとらん。ただただ執筆の邪魔をするなと、それだけを言い聞かせていた」
「先生は、それでも無理に書き続けられたんですね」
「いや、書けてなどおらん。キミヨが湯屋のシノノメだとぴたり言い当てられてから、ワシはな、ずっと書けるフリをした。しかし言い逃れに十分な作品がついぞ書けず、こっぱな仕事ばかり引き受けた。妻も妻でな、それ以降に読むことは辞めたのだ。娘も、ワシとの対話はとうにあきらめておった気がする。…ただ、激情がなかっただけなのだよ。誰一人な」
 この話の続きが気になったが、彼の言わんとしていることは単なる後悔とも違った気がした。ただ過去を振り返るだけが、彼のやり口ではないことを十分に知っている。老人の手の中でタバコがじりじりと燃え続けている。

「鈴木というのはな、今の友梨佳の姓でな」
 
 ぼくは、目を見開いた。であれば、帰結する物語は…。

「その子供がな鈴木陽斗、ハルトは、ワシの孫だ」

 老人の顔には、先ほどの動揺が嘘のように、穏やかな表情が浮かんでいた。
「まさか、そんな偶然が…」
「あるのだよ。あったのだよ。神崎くん。事実は小説よりも奇なり。バイロンの古い言葉は、いつの世にも生きておる」
 顛末を察していながら茫然自失となりそうな気持ちだった。一歩はやく感情の整理をつけた山吹老人よりもはるかに遅れをとっていた。
「…そうかそうか、あの子が、まさかそうであったとはな」
 感慨深げに遠くを見つめる山吹老人の横顔に、ひとつの疑問が浮かぶ。聡明で物事を深く洞察する彼にしては、この事実に気付くのがどうにも遅い気がした。
「しかし、先生ほどの方であれば、気づかれてらしたのではないですか。西野さんのこともすぐに見抜かれてらっしゃいましたし、それにぼくと和泉との関係についても、すぐに察していらっしゃった」
「いやいや、ワシを買いかぶりすぎだ。陽斗と、ワシはな、顔を合わせたことがないんだ。友梨佳が家を出ていってから、陽斗の出生の連絡だけは受け取った。無機質なメールひとつでな。漢字だけがポツンと書かれて、名前の読み方もあやふやだったものだから、そのままイメージだけで覚えておった」
「ええ、それはまた、ずいぶんと他人行儀な…」
「いい、いい、それほどに傷つけておったのは他ならぬワシだ。さすがにあったことも見たことも記憶もないものに関しては、洞察の使用がない。参考文献も持たずにヒエログリフを解読しようとするようなものだ。だが、そうか、彼がワシのな…」
 老人は再び思案の海へ潜った。視線の先に広がる鶴見川の黒に、何を浮かべているだろうか。

 二人してタバコを吸い終わり、ぼくのポータブル灰皿に二つ分の吸い殻がねじ込まれる。山吹老人もすっかりといつもの調子に戻っていた。いや、若干浮足立っているようにも見える。ちらと横目で見られ、声をかけられた。
「して、神崎君、君のほうの収穫はあったかね」
「ええ、無事、和解が済みました。招待券、ありがとうございます」
「そうかそうか。なに、お礼などはなくて構わん。ワシには無用の物だ。それで、詳しく聞かせてくれんか」
 ぼくと和泉の間であった過去は、すでに山吹老人には伝えていた。過去は省略して、昨日、彼女とあったやりとり、入稿した物語、それからシノノメルリという熱心な読者と、一通り話す。月が雲に隠され、一層の暗闇が周囲を覆った。薄暗闇に順応していた目でさえ、もはや耐え難い闇が訪れ、音だけのやり取りが続く。

 もはや表情を読み取ることもかなわない山吹老人のシルエットが大きくうなずくと、ゆっくりと音が切り出された。
「そうか、それはきっと、彼女のことで間違いないだろう。ワシたちの出会いは、避けられない因果だったかもしれないな」
「やはり、そうでしょうか…だとしたら、彼女の不安は計り知れないように思えます。学校にもいられず、身内を亡くして、助けをずっと求めていた。でも、そんな想いをないがしろにして…そう考えるだけで、合わせる顔がなくなってしまう」
「そんなことはない。君は彼女に十分勇気を与えた。いや、君と和泉編集、それから物語の中の君自身の理想が、生きる希望を与えた。現にこうしてシノノメルリは生きておるのだ」夜闇の中で山吹老人が杖を立て、背筋を伸ばしていた。
 無理に納得しようとしたが、いくら先生の言葉であっても素直に咀嚼することは出来なかった。そうしてうだれているぼくに、彼はまた音を切り出しはじめる。
 
「―――ワシが湯屋で出会ったシノノメというのはな、ワシの作品の大層な読者でもあった」懐かし気な声色が、わずかな風音を退かして河川敷に響く。
 
「当時は小さな湯屋だった。今は、箱根の強羅ごうら駅近くにそびえる大きな旅館になってしまったか。東館と西館をつなぐ吹きさらしの通路の横でな、『先生』といって駆け寄ってきたのが、シノノメくんだった。当時はワシの名も顔も世間に出回っていてな、一目見てすぐに分かったと言っていた。
 鼻筋のしっかり通った美人だった。それこそ西野さんの生き写しじゃな。執筆の合間を縫って会話を交わした。ちょうどこの暗がりくらいでいびつな長椅子に座って、街の明かりも絶え絶えな中で、旧知の友のように蜜月を過ごした」

 座っているベンチを、杖でコンコンと叩いた。乾いたアルミの音が河川敷に響く。

 「去り際にな、チラリとこちらを見る姿は、ワシがずっと夢見てきた画がそのまま切り取られたようだった。その後も彼女とは何通も文を交わした。聡い女性でな、ワシの文章の隙や甘い部分をことごとくついては、文章の上でも見返りながら去っていくようだった。言い訳を書く暇も隙もないのだから参ったものだ。その仕返しというわけではないが、ワシも何作も立て続けに書いては、感想という文を彼女に送らせた。それでも、彼女は必ずワシの心を見抜いては、見返っていく。あんな女性は他にはいなかったよ」
 
 山吹老人に意見ができるほどのシノノメさんとは、いったい何者だったのか。目をこらしても灰色の頭髪だけが浮かび上がるばかりで、深い暗闇がその表情を定かでなくしていた

「…それが先生の、キミヨさんのモデルなのですね」
「さよう。ワシは、ついに我慢ができなくなったのかもしれん。そのうちに『見返り美人』を発表した。もはや、あれは作品とは呼べん。単なる、シノノメへの溢れ出る恋文だったのかもしれんし、作品の皮をかぶったワシの遺書であり、決死の追悼文であったかもしれん。とにかく、ワシはすべてを投げうってしまった。本質だの深淵だのさんざん求めてきて、それが現実にあると思い知らされた一人の男の、哀れな独白にすぎぬ」

 驚いた。ぼくの敬愛していた作品に込められていた形而けいじそのものが、翻弄された男の焦れた愛の告白であったと、耳にしてしまっていた。それからも徐々に強くなる風の音の中で、男の独白は続いた。暗闇の中にいるのは優し気な好々爺ではなく、湯屋で戯れ、熱意を迸らせる若き作家そのものだった。
 
「ワシは、彼女からの文を待った。一体何が書かれているのか恐ろしかった。こっぴどく叱咤されるか、それともいつものようにはぐらかされ、また彼女は変わらずに見返っていってしまうのか。しかし、それまでとは比べ物にならない期待もまた背負って、待った。妻の指摘も、娘の友梨佳の無邪気な笑顔も、その時にワシにとってすべて二の次になっていたのだ。
 あくる日、編集を通して”親展”の文字が印字された便箋が届いた。ああ、あれほど心臓が高鳴った瞬間は他にしらない。だが、それを開けてから、ワシの世界はすっかり一変してしまった。

「―――…シノノメ カオリと、その旦那の訃報を知らせるものだったよ。
 彼女の母の宛名で、本人の手紙が添えられてな。
 封をあけたのと同時に、キミヨも、作家としてのワシも、死んだのだ」

 それから、若き作家は枯れた。ぼくは、ただ黙っていた。胸ポケットのタバコを触れる気さえしなかった。

「―――それからは、君も知っての通りだ。激情の消えた男は、何も真実を隠したまま家内と過ごし、娘を引き留めること気力もなく、ただ枯れていった。ワシは残された孤独と共に、土手を後ろ向きに歩いておったのだ」
 
 それが後ろ向きの爺やの正体であった。いつかの、後ろ向きで進んでいた山吹老人が、なぜ急にこちらへ向かってきたのか。
 あり得ないはずのシノノメカオリの生き写しに、その姿に、激情が灯ってしまったからに他ならなかったのだろう。
 
「…その、添えられていた手紙には、なんと?」
「書きかけの手紙じゃったよ。いつもの思わせぶりで意地らしい文章ではなく、事実だけが、淡々と書かれていた。旦那と旅行に出かけること、娘を祖母に預けること。見返り美人はまだ読みかけだということ。そして、それを最後まで読む意思が自分にあるか、それを確かめるための旅行でもあるということ。…彼女の母が気を遣ってくれたのだろう、旅行先で交通事故に遭い、その顛末まで記してくれた。葬儀は、とっくに終わっていたがな」
「そうでしたか…。彼女は、見返り美人のメッセージに気付いて、山吹先生の覚悟を受け取ろうとしていた…」
「今となっては分からんが、それまでの見返る手紙とは違っていた。あの手紙は、まぎれもなく彼女自身の本心が込められていた。だが、これは、家内への、友梨佳への裏切りにすぎん話だ。同様に、彼女もまた、裏切ってはならないものに手をかけてしまった。いや、かけさせたのは、ほかならぬワシだ。だからワシは、もう書くことも想うこともなくなった」
「そう、なのでしょうか」
「ああ、そうさ」

 杖を地面から離し、座面に乗せる。再び老人に戻った影が、ベンチの背に深くもたれかかった。一つ、手紙に書かれていた点で気になったことを、今まで浮かび上がらせてきた推測と合わせ、口にした。

「先生。…彼女は、西野さんは、シノノメカオリの娘なのでしょうか」
「奇異な話だと思うか?」視線がこちらに向いた気がする。
「それはもう、そんな偶然なんて納得できませんけど、でも、信じられてしまう」
「はじめから、君は信じ切っておっただろう。忘れているだけじゃよ。でなければ、気の弱い君が彼女に話しかけられる道理はない」

 そういって老人はコッコッと笑った。その言い分にまったく心当たりがなかった。

「忘れている…ですか。ぼくは、彼女と出会ったことはありませんよ。先生のように、湯屋で見かけた記憶もありません」
「いやいや、きっとそうではない。訓練された忘却は、出生の君と”ちぐはぐ”を起こすものだ。君にはそれが起こっている」

 何のことだか、さっぱり分からなかった。

「それにな、ワシと陽斗がここでこうして話していただろう?信じられないことは起こるのだ。ワシらが信じようが、信じまいが」

 それから、老人はすくりと立ち上がった。目で追うと、老人のシルエットを通して黒色の雲が空をうっすらと覆い始めていた。

「雨が降りそうじゃな。さあ、そろそろ帰るとしよう」
 
 斜面ではなく大綱橋の方面にある階段へと向かっていく。ぼくは、その背中を引き留めて言った。

「先生!」
 
 そのシルエットはゆっくりと振り返る。

「―――…ぼくは、どうすればいいのでしょうか」
 
 表情は見えないが、確かにぼくに微笑みかけていた気がする。

「何をいっておるか。もう君の心は決まっておろう。君は『ロジー』を選んだのだ。仮にワシが『キミヨ』を選んだ未来を、君は歩き始めてしまったではないか。ほほ、君の未来が、大層うらやましい。彼女と話しなさい。ただ、それだけでいい」

 そうして山吹老人は笑って、階段を登っていった。

 ぼくはベンチの傍らに立ち尽くしたまま、しかし、体に燻る熱意が落ち着くことなく駆け巡っている。

 その脈動に耐えられずに、タバコをくわえた。深く吸い込み、肺を煙で満たして、余計な温度を追い出すようにすべて吐き出した。

 吐き出した想いが煙と共に雲散していくのが気に食わなくて、何度も何度も吸って、何度も何度も吐き出す。
 
 吸い殻が試したことがないほどに短くなるまで、ただ繰り返していた。

 何かが、思い出せそうだった。




つづく



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