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小説:河川敷と、タバコと、瑠璃色と。第9話

前回


9.雨音と、喪服と、瑠璃色の記憶。


 綱島駅に降り立つと、アスファルトを無尽蔵に打ち付ける雨音と、車のヘッドランプに照り返した反射光があちらこちらに飛び散っていた。ビニール傘をさしていつもの河川敷の方面へと歩いていく。

 この夏は、雨がほとんど降らなかった。記録的な連続快晴日が続きメディアも世間も大いに騒ぎたてている。田園は高水温障害に悩まされ、地方各地で渇水の危機にさらされていたが、ここに来て昨夜からの豪雨がほころび始めた問題を次々に洗い流していた。
 ぼくには。それを恵みの雨だと喜べるほどの純真さはなく、雪が降れば電車が止まるだの、快晴の空で仕事をしない雲たちに文句が浮かぶ、そんな心持のまま豪雨に顔をしかめていた。

 子供心のぼくが大人になってしまった嘆きだとでもいいたげに、自分の感性を叱り飛ばす自分がいる。かといって胸を張って大人になれたかと聞かれれば、未熟で不誠実な心の在り方がどうにも気持ち悪く、増税で苦しくなっていくタバコの費用ほどに不安だった。
 
 心を安定させるためにはタバコがどうにも必要だった。
 吸って、吐いてを繰り返して、対話の道具にした。
 もしくは、部屋を飛び出した和泉の後ろ姿を紛らわすよう煙に巻く。
 焼香の代わりにと口元から白い道筋を立ち昇らせる。
 そうして父に届けようと、慣れない肺を酷使した。

 初めて吸ったのは、いつだったろうか。

 そうだ。父の葬儀の、すぐ後だ。たしか、不思議な子と出会っていた。
 
 風に吹き飛ばされないようにビニール傘をしっかりと支えながら、かつての記憶を探求していた。


 ・・・
 


 父の葬儀が先ほど終わり、ぼくは、喪服のまま葬儀場にぼんやりとたたずんでいた。
 親戚一同への挨拶周りも落ち着き、母は親戚の手配したタクシーに乗りこんでいた。それを、ぼくはぼんやりとしたまま見つめる。母から、何をしているの、早く乗りなさいと急かされ、咄嗟に、少しぶらつきたいから先に行って、と乗車を断った。一度は強引に言って聞かせようとする母だったが、同乗していた親戚から「今は、そっとしてやりなよ」と一声があって、しぶしぶといった様子で諦めた。
「すぐ雨が降るらしいから、早めに帰ってきなさいね」と言い残しながらも心配そうな母の顔が、徐々に閉じられるドアウインドウの奥に映ったまま、タクシーは出立していった。ぼくはその様子を見届けてから、行く当てもなく曇天の街中をさまよった。

 そこも川が近かった。あれは多摩川だったか。曇天の隙間を縫うような夕暮れの中で、和泉多摩川の河川敷をぼくは歩いた。丸っこい石がいくつも転がった灰色の河川敷に降り立ち、ひとつひとつ選別するフリをしながら心はすっかりなくなっている。
 小田急電鉄の通過する大掛かりな橋下まで歩みを進めると、分厚さ以上に横幅のある橋柱が我が物顔で河川敷を占めていた。土手の道路から見て裏手に回ると、柱のそばの茂みの中にぽっかりと空いた空間がある。レジャーシートを長年引いたみたいにして禿げあがった土の地面に足を踏み入れ、背中を柱に預けて多摩川を眺めた。

 ほとんど街明かりの反射だけで黒々としていたが、ゆるやかで穏やかだった。ぼくの心はまるで干渉するのを諦めたみたいに、水面に対して特段感じるものがなかった。

 右のポケットに手を突っ込むと、先客の角ばった感触がぼくの手に伝わる。それをつかんで引っ張り出すと、愛煙家であった父のラッキーストライクの箱が顔をのぞかせた。これは、父の棺に移すはずだったモノだ。献花台のような場所で遺品の1つだった開封済みの箱を、何を思ったのか、棺の父に添えてやることなくそのまま喪服のポケットへしまった。

 一体、くすねてどうしようというんだろうか。ぼくはタバコを吸ったこともないし、吸いたいとも思っていなかった。しかし、この気まぐれは、なんの因果だったろうか。鞄のサイドポケットに入ったままになって、使う予定のない存在を思い出した。
 黒の鞄を地面に降ろし、その場にしゃがみ込んで狭く平たいサイドポケットに深く手を突っ込む。底のほうに落ちた2つの金属の感触を摘まんで引っ張りあげる。

 父の遺品であったジッポライター。
 もう一つは、瑠璃色に輝くポータブル灰皿だった。底面には『第34回出典記念 神埼宗介』と刻印されている。

 準備は整ったと、すでに開封された箱からタバコを一本取り出しくわえた。フタを開けた勢いのまま点火したジッポを、おそるおそるタバコの先端に近づけて、炙る様にその揺らめきを接着させる。まるで線香にともすようにジリジリと待ちぼうけていて、いつまで経ってもまともに移ってくれない火と焦っていた。

 しばらくして、間抜けな自分に気が付く。吸わなきゃ火はつかない。そうして盛大に吸い込んでは、瞬時に飛び込んでくる濃い煙に口も目も鼻もやられ、馬鹿みたいにむせ込んだ。モサッとした煙とニコチンの苦味で口が満たされ、後悔ばかりが先だった。しかし、そうして耐えている内に、どこか甘い風味がほんのわずかに口の中に遺されていると気付く。
 その瞬きのような甘さがあったからといって、どうしようもなく苦いことには変わりなかった。苦かったけれど、無感情なぼくに何かを揺りもどすには十分な刺激だった。

 1本目は口の中で煙を転がすだけだった。2本目は、思い切り吸って肺まで入れてみる。二酸化炭素中毒みたいに苦しくなった。若干むせ込みつつ、なんとか肺から外に煙を押しやった。ただただ広がる苦味の中に、わずかな甘みが一点だけポツリと咲いていた。大きな苦しみの中で、ほんのわずかだった希望を求めるように、何度も吸った。火がじりじりとタバコの尾を焼き焦がしていき、まるで制限時間のようにぼくを焦らせた。
 3本目から口の中で煙をためてコントロールしようと努める。煙を空に撒くと、それが父の遺灰のように思えて不思議な気持ちになった。少しづつ、少しづつ、父への未練や罪悪感を解いていくよう、遺灰を空に撒いた。

 気づけば日の明かりがすっかり劣勢で、まだ白みがかっていたはずの雲が、深い黒へと徐々に姿を変えていった。
 
 その時、すぐ横の茂みがガサリと音を立てた。

 ギョッとして思わずタバコを口から外して後ろ手で隠す。立派な成人だから隠す必要など微塵もなかったが、多くのうしろめたさがぼくに罪人みたいな態度をとらせた。

 柱の陰の茂みから身を乗り出したそれは、ブレザーの制服を着ていた。暗がりの中でも顔立ちはよく見えないがおそらく女子高生で、黒色のリュックサックを背負い、そのストラップを両手で支えていた。こちらのこと警戒する素振りも見せず、容易に距離を詰めてくると、ぼくに話しかけてきた。
 
「ここ、いつも使ってる場所なんです。座っても、いいですか」

ぼくの正体を気にする様子もなく、ただただ平坦にそう言った。

「あ、ああ、そうとは知らず。ごめんね。どうぞ、座って」

 急な問いかけにすっかり慌てた。後ろ手に隠したジッポやタバコの存在が動揺に拍車をかけていた気がする。彼女はリュックサックの中から小さなレジャーシートを取り出すと、空いていたと思っていた空間に敷いた。土を露わになっていた大地をすっぽりと包み隠す。その痕跡は、確かに彼女の持ち込んだレジャーシートによって残されたものだった。スカートを手で均すと、体育座りのように膝を抱えて座った。ぼくは彼女から4歩くらい距離で柱に寄りかかったまま、多摩川をまっすぐ見つめる背中から目を離せずにいた。

「誰か」
「え?」

 相変わらず彼女は正面を見つめたままだったから、一瞬その言葉が彼女から発せられているものだと気づかなかった。

「誰か、亡くなったんですか」

 急な質問に驚いたが、自身の服装が喪服だと自覚して、意図を汲んだ。

「ああ…今、そこの葬儀場から帰ってきたところでね…」
「葬儀…」
「うん、父のだったんだ。本当に、急だった」
「…お父さんが、亡くなったんですか」

 彼女が、悲痛な声色をあげながら振り返った。薄暗がりになったこの河川敷では顔のパーツも表情も満足に視認できない。

「そうだね」
「辛くないんですか」
「…辛いよ。そう、見えないかもしれないけど」
「そんなこと、ない。とても辛そう」

 さも当たり前の質問にも、ぼくは素直に答えていた。不思議と嫌な気がしなかった。傍から見れば、ズケズケと踏み入れられている気分になってもおかしくはない。それでも、彼女のたんたんとして、しかしどこまでも自然でありのままの態度が、ぼくの態度を氷解させていた。
 ジッと見つめてくる彼女は、どこか浮世離れしている。風が吹けばどこかにフワフワと浮いていってしまいそうな儚さを纏っている。そこに一種の同族意識が芽生えた。思わず、ぼくは疑問を投げかけていた。

「…君も、誰かを亡くしたのかい」

 そう聞くと、彼女は体育座りの体勢をさらに縮こめた。両腕で膝をギュッと抱え、口元を寄せる。目と前髪だけが顔を覗かせる形になって、その目もずっと下を向いていた。まずいと思い、訂正の言葉を掛けようかというところで、掠れそうな声色が返事をした。

「おばあちゃん」

「そう、か。つい最近?」
「おととい」
「そうか、この度は…いや、つらかったね」
「…うん。お兄さんも、つらい」
「そうだね、ありがとう」

 彼女の感情の色を読み取ることのできない視線が、またぼくを射止める。慎重を期して会話を続けてはいたが、単純に自分に重ね合わせるだけの材料が欲しかっただけかもしれない。
 今のぼくに、とても普段の会話ができる気がしなかった。先の葬儀場では、無機質な心の裏側に潜む悲しみと怒り、それを封じ込めるので手一杯でまるで気が回っていなかった。しかし、この場においては、重ねられるだけの理由が確かにあり、思いのままに身を任せることができた。

 それから二人で、なんとなく見つめあっていた。奇妙に長く、奇妙に短い時間だった。なんとなくだが、共鳴とはこんな状態を呼ぶのではないかと肌で感じていた。意識が混同し、身も心も互いに潜心していく。ほどなくして。大変危うい考えだと自我を取り戻した。何を、いい大人と高校生が暗がりで見つめあってるんだろうか。
 おかしな煩悩を隅に追いやってタバコをくわえと、彼女から続けざまに質問が飛んできた。

「タバコを、吸うの?」
「いや、吸わないよ」
「でも、いま吸ってる」
「普段はね、吸わない。吸うのは、今日が初めてなんだ」

 タバコの先端をジッポで炙り、息を吸い込む。点火の要領はつかめたが、そもそもこれで正解なのかどうかは疑問の余地があった。煙を口の中でしばらくとどめてから、一気に吐き出す。独特の苦さが広がり、ピリピリとした主張するような甘さが舌の真ん中に取り残される。

「おいしい?」
「苦くって、あんまりかな。でも、ほんのり甘い」
「甘い…」

 彼女は興味のあり気な様子でぼくの口元をうかがっていた。目の前でもう一口吸って見せてやり、良くない大人を体現した。それから率直な疑問とばかりのトーンで質問してくる。
 
「どうして吸おうと思ったの?」

 わずかに体が硬直した。ぼくの動揺をあえて彼女が見逃したかどうかは分からないが、ジッと答えを待っていた。

「父がね、吸っていたんだ。これ、もともとは父の棺に入れるやつだったんだけど、どうしてかな。気づいたら、ポケットに入れてたんだ」
「…そうなんだ」

 口元に向けられた彼女の視線がずっと強まった気がした。タバコを手で摘まみながら、かつて父から言われた「いつか蒼佑も吸う日が来るかもしれないな」なんてセリフが脳裏にこだましていた。父の自慢の息子でありたいなんて模範解答は、ぼくの中にない。むしろ、やりたいことばかり無理を言いつける親不孝モノの烙印のほうがふさわしい。しかし、そんな罪悪感や残されたひとかけらの良心が、最期くらいは父の理想を優先させてくれたのかもしれない。

「なんていうの。そのタバコ」と、彼女が間を開けて訪ねる。
「ラッキーストライクって銘柄だよ。いろいろと試してきて、結局これが一番イイらしい。父の、受け売りだけど」
「見せて」

 そうして彼女が箱を見せるようにせがんで来たので、二三歩近づいて箱を手渡す。日の丸のようなロゴが印字されたパッケージを、暗がりのなか物珍しそうに見つめていた。吸わせて、と言い出さないか内心でひやひやとしていた。

 すると、水面を打つ雨音が聞こえてきた。高架下からのぞく空は先刻よりも、ずいぶんどんよりしていて、間もなくすると河川敷全体が降りしきる雨音だけで満たされていった。
 
「ああ、降ってきちゃったね」
「うん」

 彼女は雨空を事もなげに見てから、またタバコのパッケージに視線を落とした。レジャーシートの上でペタンコにつぶれた黒色のリュックサックが目にとどまり、ぼくは疑問を口にした。

「君、傘は持ってる」
「持ってない」

 彼女は嘆くでもなく、機嫌を損ねるでもなく、まるではなから問題がないかのように答えた。

「そうか…両親が迎えに来てくれる、とか?」
「親はいない」

 ただ当たり前の事実を述べるように話した。レジャーシートに侵入してくる砂利と植物にも、水面を激しく打つ土砂降りにも、これから帰路につく自身の命運にも、もはや彼女の興味は欠片もなく、手元のラッキーストライクだけが唯一現実のようだった。それを不憫に思ったわけでは、断じてないが、しかし、ぼくは情動に突き動かされていた。鞄の中から折り畳み傘を取り出し、それを彼女に差し出していた。伸ばした先が彼女の肩に触れて、気づいたように振り返る。

「ほら、使って」

 まじまじと手元の折り畳み傘を見つめ、それからぼくの顔を交互に見やった。

「…でも、お兄さんが濡れちゃう」
「ぼくは大丈夫。喪服なんてめったに着ないから、どれだけ濡らしてもいい」
「…風邪をひくかも」
「近くでタクシーを拾って帰るさ。ほら、君が濡れネズミになっちゃあ、おばあちゃんも安心できないよ」

 ずいと、より一段力を込めて押し付けると、彼女は観念したように受け取った。手の中に小柄な折り畳み傘が納まると、眼前に近づけて観察していた。

「…ありがとう。きれいな、青?紫?」

 どうやら折り畳み傘の色合いが気になったらしいが、曇天と高架下に届く街明かりがぼんやりとしていて、判別は難しいようだった。ぼくは、スーツを頭から羽織りながら答える。

「瑠璃色だよ。ぼくの好きな色」
「ルリ…」
「それじゃあ、お邪魔したね。帰り道、気を付けて」

 彼女がぼそりとつぶやいたのを皮切りに、雨の中の河川敷を駆け出した。


・・・


 綱島駅からすぐの鶴見川河川敷。
 土砂降りの中、階段を使って河川敷のベンチまで降り立つと、陽斗くんの姿も山吹先生の姿も、そこにないことを確認した。大粒の雨が青いアルミの座面をしたたかに打ちつけ、ついに、誰からも見放されてしまったベンチがひどく寂し気に佇んでいた。やや離れてその様子を見ていた僕自身も、ポツンと孤独に佇んだ。心情で言えば、決して相いれないひとりぼっちが二つという有様で、しかしわざわざ座るのも億劫だった。

 そう思って踵を返した。今日は帰ろう。期待はするものじゃないと。

 すると、斜面の階段を下りる瑠璃色の傘が目に映った。傘の持ち主は平地に降り立つと、迷いなくベンチに向かってくる。いや、ぼく自身に向かってきた。

 上下はお馴染みのくたびれたスウェットではなく、肩口にボリュームフリルのついた白のワンピース。ウエストの共布ベルトで、フレアスカートみたいに裾口が広がっている。ナチュラルなメイク、目鼻のくっきりした顔。 

 お互いが十分に視認できるほどに近づくと、彼女はぼくに向かってちょいちょいと手招きをした。

「あっちの高架下なら、雨、気にしなくて済みます」

 そう言って、大綱橋の高架下を指した。ぼくは軽くうなずくと、ふたりで川辺を添って歩いていった。しばらく無言のまま歩く。言いたいことが多すぎて、何から話していいかまるでまとまっていなかった。それに豪雨の中の河川敷は見通しも足場も悪く、慎重に歩かざるをえないから、なおさら切り出すのが難しかった。

 てっきり、彼女はそんなぼくを不思議そうに見つめるものだと思ったが、なぜか彼女も高架下の提案をしてから押し黙っていた。本当に彼女がこの暗がりにいるのか、何度も確認する。だけど、視線を横にやるたび、確かに瑠璃色の傘があった。

 ほどなくして、高架下にたどり着く。
 
「多摩川河川敷の、あの時の子が…君だったのか」

「やっと、思い出しましたか。遅いですよ先生」
 
 対岸からの交通網を支える大綱橋の高架下。
 鶴見川の水面を揺らす雨音と、走行音の反響の中、西野ゆう、いや『シノノメ ルリ』は、瑠璃色についた水滴を払いながら、傘を閉じた。




つづく




※ごめんなさい!
20日までに完結と宣言していましたが、もう1話かかります…!!


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