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小説:河川敷と、タバコと、瑠璃色と。最終話| [創作大賞2024] | 恋愛小説

前回


10.柿崎蒼佑と、東雲瑠璃


 大綱橋高架下に広がる凸凹のコンクリートの斜面が、座るのにちょうどよい緩やかな角度をしていた。
 乾いたコンクリートの上にそのまま腰かけ、彼女は、花柄の小さなシートを敷いてその上に座っている。真っ暗かといえばそうでもなく、頭上の歩道橋と往復路の間に広がった裂け目から、大げさな街灯の光が差し込んでいて、お互いの姿を視認するに十分な明るさだった。

 車の走行音は思ったより静かで、高架下よりも少し逸れた地点のほうが、よっぽど大きな音に苛まれているとはじめて知った。ビビットカラーのスプレー缶で書きなぐられた柱のアート達も風化して、人の気配も痕跡も遥か以前のものだと分かる。

「君は、ぼくのことを覚えてたのかい?」
「覚えてましたよ。はじめて声を掛けられた時はぼんやりでしたけど、ラッキーストライクの箱を見てからは、ああ、多摩川に居た人だなって」
「そっか、じゃあ、ほとんど最初からだったんだ」
「先生は鈍いですね」そう言いながら、畳んだ瑠璃色の傘をふりふりと振ってこれ見よがしにアピールした。
「…しゃべり方も服装も全然違ったし、タバコを吸う姿で気づくのは難しいよ」

「それもそっか」と言って、彼女は視線をそらした。

 ちょうど座っている位置からは正面の柱のせいで、鶴見川の全貌を見通せない。柱をよけた先に少しだけ露出した水面から、複数の波紋を広げながら伝搬して波打つ様子が見て取れる。ぼくたちの座る位置はちょうど河川敷と土手の中腹くらいの高さをしていて、空模様を一望するにも頭上の大綱橋にさえぎられた。唯一、橋と橋の隙間から覗かせる空は、ただ黒々としていて、街灯の光の中、透明の糸みたいに引き延ばされた雨粒が無数に瞬いた。

 ベンチに来るときはいつもラフな格好をしていて、メイクをしているのかどうか分からないくらい最低限だった彼女。打って変わって今日のコーディネートは華々しく、もしもこんな状況でなければ、今すぐに喜んで街を並んで歩きたいような情動にかられる。頭のどこかでふと、これが彼女の戦闘服なのかもしれない、と想像した。

「しばらくだったね。1週間ぶりくらい…?」
「ですね。同棲相手がしばらく帰ってきてて、旅行に行ってたんです。今日が、その帰りです」

 よく見れば、彼女のワンピースはところどころ湿っていた。栗毛色の髪も、湿り気を帯びていて一度雨に晒されたせいだと予想させた。きらびやかだったはずのゴールドの華奢サンダルも、雨ですす汚れて輝きを失っている。

「さすがに、賢三さんも陽斗くんも居ないと思いましたけど、蒼佑さんが居てびっくりしました。何やってるんですかこんな土砂降りの中」
「ええ、それはぼくのセリフでもあるんだけどな」
「わたしはいいんですよ。明日から特に用事があるわけでもないんですから」
 そこで、陽斗くんは引っ越しで、山吹先生は事情があってしばらく来れないということを伝えた。聞くと彼女はそのまま顔を伏せて、しみじみと言った。
「そっかぁ、ちゃんとお別れできなかったかぁ。寂しくなるな」
「いや、そうでもないかもしれないよ」

 それから、山吹老人との陽斗くんの意外な関係性についても説明する。これには、さすがの彼女も面食らったようで、言葉を詰まらせていた。そのまま預かっていた伝言を告げた。「本、読み終わったら必ず返しにいくから!」と陽斗くんの口調を真似しながら伝えてみると、彼女は吹き出した。
 
「ええ、なんで笑うの」
「いや、そこまでずっと真剣な話だったのに、なんで最後だけ再現度こだわったんだろうって思っちゃって。あと、全然似てなくって、ふふ、ごめんなさい、ふふふ」

 そういってお腹を抱える彼女を見て、自分の演技がそこまで酷かったのかと顔が熱くなり始めた。バレまいとぼくも顔を伏せて眼下の河川敷に意識を移した。彼女は落ち着くと、「でも、よかった。陽斗くんが言ったなら、また会えるよね」とフォローのような感想をひとりごちる。

「そんな偶然があるんだなぁ。山吹先生、良かったですね。娘さんが孫を連れて帰ってきて。しかも、それが陽斗くんだなんてすごいじゃないですか」
「本当に驚いたよ、なんにせよ、また会える距離でホッとした」 
「今度ここに来るときが楽しみだなぁ」
「もしかしたら、明日にでもひょっこり顔を出すかもしれない」
「…ううん、きっとしばらくは来ないと思うな」
「ん、どうして?」
「だって、きっと賢三さんは陽斗くんを独り占めしたいし、陽斗くんも家が大好きになる。お母さんが隣にいて、それで笑ってくれるんだもの。会うとしても、私たちから行かないとね」 

 陽斗くんを溺愛する祖父としての山吹老人、娘の友梨佳さんとぎこちなく話す不器用な父親としての山吹老人がそれぞれ目に浮かんだ。先生はすべての顛末話す決心を固めているのだろうか。それとも秘匿するのだろうか。好々爺な顔立ちの後ろにどれだけの複雑な感情を込められいたのかをおもんばかる。しかし、そんな複雑な胸中であっても、ぼくと彼女のことを気にかけていてくれていた懐の広さに、ただ感謝した。

「それに、あの人って、とってもお節介焼だから…きっと陽斗くんと言いくるめでもここには来ないかもね」

 努めて明るい声色とは裏腹に、思い詰めたような表情をする彼女。それは彼女の演技だったのだろうか、それとも、彼女自身をさらけ出した姿だったのだろうか。ぼくの中にあった彼女を包むヴェールは、次々とはがされていく。

 確かに、山吹老人は、お節介焼ではあるだろう。ぼくには真似できそうにない、深い洞察と予想、それから驚くべき直感。年の功といっては失礼かもしれないが、きっと元来からああいう作家なんだ。ずっと憧れてきた山吹賢三そのものが、ぼくたちと同じベンチに座っていたことが今になって信じられなくなってきた。しかし、イマイチ陽斗くんを言いくるめてまでベンチに来たがらない理由が分からなかった。

「この前ね、ぼくと編集の仲を取り持ってくれたんだ。といっても、実際にその場所にきて仲介してくれたわけじゃないけど」
「んっと、あれだよね。昔お世話になった編集さん。事情があって、ずっと連絡できなかったって言ってた」
「そうそう。上野のカフェの優待券を引っ張り出してきて、ここで話してこいって発破かけられちゃって。――おかげで無事に和解できたよ。なんてことはなかった」

 険悪であったわけではないから和解という言葉が正しいかは分からない。でもぼくにとっては、心に折り合いのつけられた立派な和解だった。

「わ、そうでしたか。それは本当に良かった。やっぱり、お節介焼ですよね」

 思いつめた表情がすっかり消え去って、柔和に微笑む彼女が姿を現した。それから大きく伸びをして、後ろ手で上体を支えて橋の底面を見上げるような格好になる。

「あーあ、そっか。結局、賢三さんにクライアント取られちゃったかぁ」
「クライアント?」
「ほら、覚えてませんか。初めの頃、カウンセリングの真似事したじゃないですか」
「ああ、そんなこともあったね」
「あれからずっと、カウンセリングのつもりで頑張ってきたのに、賢三先生、蒼佑さんのこと丸裸にしちゃうんだもん。悔しいですよ」
「ええ、そうだったのかい?ぼくはそんな気にしてなかったし、山吹先生は憧れの存在ってこともあるしちょっと規格外なだけで…」

 ふてくされたようなセリフとは裏腹に、清々しい彼女の表情を目の当たりにして、言葉に詰まる。

 ぼくがカウンセリングを題材にした作品は、『瑠璃色るりいろ色の空とありし日の君』。
 サナトリウム病院でカウンセリングに従事する主人公が、未成年の女の子と奇妙にかかわりあっていく話。与えられた瑠璃色の髪飾りをきっかけに、女の子は賢く健気に成長していき、『ロジー』や『キミヨ』のような魔性へと変わっていく。主人公は、再開した彼女の成長を喜んだ。しかし、次第に彼女の人生を大きく変えてしまったこと、そして得体の知れない彼女の魅力に翻弄される自分を徹底して抑え込む。
 ヒロインからしても、主人公の気持ちの片鱗が掴めない。しかし彼女の変化や成長は、その本能に従って縦横無尽に止まることなく、主人公はただ理性の力をもってまっすぐに進み続け、二人の人生は時に重なり、時に分かたれた。そうして進んでいく、本能と理性の、重ならない恋の物語。
 彼女の一番のお気に入りだと話していた。

 主人公の名前は『大輔』で、ヒロインの名前は『瑠璃』。
 
 それから唐突に、シナプスが結合したような閃きがあった。

「…そうか、君の名前も、ルリだったんだね」

 目の前にいる彼女が、まさに『瑠璃』だった。ヒロインから影響を受けたと以前にも話していた。和泉多摩川の河川敷で出会った彼女は、カウンセリングを受ける以前の弱弱しい『瑠璃』と姿が重なる。小説を手に取りファンレターを送り、そうして帰ってこない返信を待つ間に、『瑠璃』になる決心を固めていた。その時の彼女は、ぼくから瑠璃色の折り畳み傘と、結局回収しそこねたラッキーストライクの箱を受け取り、はじめて『瑠璃』そのものになる一歩を踏み出したのかもしれない。

 思わず漏れ出てたぼくの呟きを、彼女は聞き洩らさなかった。今までみたこともない瞠目した表情をぼくに向けていた。まぎれもなく彼女自身の丸裸になった表情だった。

「―――賢三先生から、聞いたんですか」
「いや、聞いていないよ。でも、その様子だと、先生には話したことがあったのかい…?」
「ううん、違うの。先生にもその名前は伝えてないはずだったから、驚いちゃって、つい。…もしかして私の手紙を?」
「そうなんだ。ずっと返事がおくれて、ごめん。
 君の本名は…『シノノメルリ』…そうだよね」

 彼女は口を一文字に結んで、顔を伏せた。視線を反対側に向けて、まるで表情を読み取られないようにと苦心している様子だった。しばらくの沈黙が肯定の証拠でもあり、それからコクリとうなずく様子でさらに確証づく。

「…源氏名使ってたの、バレちゃいましたか。本名探るの、業界ではご法度なんだけどなぁ」

 憎まれ口としては効力の薄いセリフを叩きながら、表情を取り繕っていたが、普段の完璧で自然な演技は露ほどもなかった。挑発じみた口元も、つりあげようとした目尻も、力なく崩れている。軽く「ごめん」と謝罪の言葉を向けるも、ころころと入れ替わる表情や口元が面白くてずっと眺めていられた。
 
 それから、シノノメルリに行き当たった経緯を説明する。和泉に原稿を渡して、かつてのファンレターの話になったこと。送り主の両親が早くに亡くなったことや、祖母のもとで暮らしていたこと。偶然にしてはキレイに合致していく事実が、『シノノメルリ』に結びついたこと。
 彼女は、複雑そうな表情を浮かべたまま、ぼくにまずこれだけはと切り出した。

「…新作、ずっと書かれてたんですね。入稿、おめでとうございます。もう、それが聞けただけでも、本当に報われたなって、思います」

 それから、百面相みたいにして、じたばたと藻掻いていた。演技を選ぼうにも、どれもしっくりこずに駄々をこねているようだったが、結果的にはそれらの姿が正解だったのかもしれない。試着室で慌ただしく仮面を付け替え続ける彼女に、ぼくは満足げな表情を浮かべていた。

「本当に、待たせたよ。ずっと応援してくれていてありがとう。手紙、しっかり受け取ったから」

 和泉には郵送で手紙を送ってもらった。そこには、まぎれもなく生きた彼女の文章や想いが宿っていた。演技ではない、彼女自身の言葉が文字。『瑠璃色るりいろ色の空とありし日の君』で、『瑠璃』がひた隠しにしていた手紙のようだった。
 異なっているのは、『瑠璃』は秘匿し、目の前の『ルリ』は隠さなかったこと。いや、隠したくなったが、既に過去の自分が行動を起こしていたという誤算の結果で、そう見えたのかもしれない。
 
「あーあ、恥ずかしいです。恥ずかしい。なんだかいたたまれません。どうしてくれるんですか」 
「ぼくは嬉しいよ。こうして、また入稿もできたし、君の手紙で書く気力も湧いてきた。本当に、きっかけも含めて、君のおかげなんだ」
「うー、私はどうしてくれるのかって聞いてるのに…!」

 駄々っ子のようになった彼女が、甲斐甲斐しく映る。これが、彼女の本来の姿なのだろうか。演技だとしたら大したものだと思いつつも、そうではないと打ち払うだけの決定打には欠けていた。

「君のカウンセリングなら、絶賛受付中だよ」
「なんですかそれ…!」

 ありとあらゆる動きで恥ずかしさを雲散させると、疲れたのか徐々に落ち着きはじめる。あまりに自然な収束具合に、先ほどまで脳裏に思い描いていた女優の姿が本物じみてきた。
 
 彼女はぼくがいなかったとき、山吹老人と話した内容を語り始める。
 ちょうどぼくが来れなかった日。「小説の感想文、急がなきゃ」と陽斗くんが早々に帰っていき、山吹老人と二人で話す機会があったのだという。その時に、彼女は自身がシノノメカオリの娘であると白状した。

「賢三さんはずっと確かめたかったんだと思う。私がシノノメなのかどうか」

 それから、ぼくも山吹老人から聞いた話をすり合わせた。それが彼女自身聞いた話と寸分たがわずに同じエピソードだと気づき、とんだ食わせ物だと内心で山吹老人を批難した。知っていながら隠していた老獪なやり口。しかし、それでこそぼくの憧れた大先生なのだと二律背反な思いが心を駆け巡る。

東雲シノノメ香里カオリは、確かに私の母です」

 物心が着く前に両親が亡くなったこと。祖母の家に山吹賢三の作品がすべて揃っていたこと。
 その話を聞かされてから、彼女はすぐ『見返り美人』を読んだらしい。古い写真と祖母の話だけでしか補完できなかったイメージが、パズルのピースを組み合わせるよう母の像を強固になった。思い出の中でぼんやりしていた母の姿に追いつけたようで、嬉しかったといった。

 一通り話を聞き、ぼくにとってぽっかりと開いたままのピースが気になった。

 「祖母が亡くなったあとの、君はどんな風に生活を…」

 意図を伝えようと言葉を選んだが、どれもしっくりこず、言葉を持て余した。学校に居られなくなったといった事情も気になるし、ぼくの小説が唯一の拠り所になるとまでいった孤独感や寂寥感について、無粋に踏み込んでいいものだろうか。ごにょごにょと言葉を並べ立てるぼくに微笑みかけると、彼女は話し始めた。

「祖母が亡くなったあと、叔父が実家にやってきて居ついたんです。もともと離婚して、独り身だったからちょうどいいといって、一緒に暮らし始めました。でも、こう、あきらかな男としての欲望を向けられました。仮に家族に向けて良いモノじゃないです。それで、耐えらなくなって家を飛び出しました。それから、友達の家を転々として、ある時スナックを経営してる友達の母親から働き口を紹介してもらったんです。年齢としてはグレーだったんですけど、でも、一人で暮らしていけるぐらいには何とか生活が保てていました。それからも、いろんな人の力を借りて、生きてこれています。今は、こんな囲われの立場ですけど」

 その話を聞くうちに、ぼくの心には悲痛の色が浮かび上がる。しかし半生を振り返った彼女自身の語り口に悲壮感はなく、ただ今を生きる精一杯の姿が気丈にあった。どんな言葉を返せばいいのか、さっぱりと失ってしまった。しかし、パズルのピースが埋まり、目の前の彼女の像がこれまでになく輪郭を帯びた。だからだろうか、見当違いの言葉が口から出てしまうのを、抑えられなかった。

「そうか…ありがとう。聞かせてくれて」
「ふふ、なんですかそれ。ってこんな会話、最初もしませんでしたっけ」
「そう、だっけか?」
「なんか、おんなじこと繰り返してますね。わたしたち」

 そうして、ふいに笑いあった。高架下、車の走行音を退かしたように、彼女の笑い声があたりに反響していた。ぼくもそれにつられて笑っていた。

「ずっと気になっていたんだけど、今日は、何かあったの」
「ああ、これですか」

 彼女は自身の服装を主張するように立ち上がって、ひらひらと見せつけるように舞った。

「どうです?」
「…なんだか、いつもと違って、見慣れないね」
「えー、そこはキレイだとかおしゃれだとか褒めるところでしょう」
「ぼくにどんな情操教育をしたところで、変わらないのは分かっているだろう」
「む、言いますね」

 『瑠璃』がどんなに着飾っても、主人公は何も答えなかった。いや、実際には心を動かされていたけれど、それを認めてしまうのがいささか問題だったから、彼は抑圧を続けていた。といっても、作品を書いたぼくと編集をした和泉だけが知り得るメタ的な設定。それともう一人、シノノメルリは手紙の片隅に何気なく考察を放り込んでいた。

 『大輔』は、ずっと嘘をついている。『瑠璃』を理想に近づけるために、苦悩するフリをずっとしている。

 傍から見れば、とんでもない暴論に見える彼女の考察は、実のところは真実に近かった。原案の時点でそれでは読まれないと、描写や心情をとことん書き直した結果、そうなっていたに過ぎなかった。だからこそ、彼女には、作家でない僕の素直な見解を伝えたかった。

「でも、すごく似合ってると思う」
 
 見せつけてくる彼女に向かって、だいぶ間をおいてから、その言葉をかけた。キザったらしいし、まるでぼくらしくもない。歯が浮きそうなセリフ。しかし、自己嫌悪はなかった。
 
「―――…ありがとう」

 蒼佑先生、無理しないで、なんて揶揄されるかと思ったが、彼女も彼女らしくなく、しばらく戸惑ったあとに恥ずかしそうに礼を述べた。これはまったく予想がだった。なんたってレンタル彼女だ。その手の言葉は耳にタコができるほど聞いてきているはず。この恥ずかしがる様子が演技に失敗したありのままの彼女なのだろうか。それとも、これすらも彼女の演技の内なのだろうか。西野ゆうが、シノノメルリになっているとしても、確証は未だ得られずにいた。
 
 彼女は、そのまま再びしゃがみ込むと、話をつづけた。

「同棲している方の出張に付き合ってたんです。箱根湯本のほうに2泊してて。その帰り道だったから、この服装です」
「そうだったんだ。…いいのかい、家に帰らなくて。待っているんじゃないかい?」
「ううん、私だけ帰ってきちゃったんで、いいんです」
 それからふーっと深いため息を吐きながら橋の底を見上げた。

「もともと、その人には家族がいるんです。囲いの提案をしてくれた時、最初はなんの冗談かと思ったんですけど、ある日レンタルの依頼を受けて待ち合わせ場所にいってみたら、それが空っぽのマンションの一室でした。何も返せるものはないってお返事したんですけど、それでいい、そのままでいてくれるだけでいい、なんて言われて結局それに乗りました。

 でも、今回出張に付き添う中で、その人が話したんです。妻と別れるから、一緒になってくれないか、って。彼の行っている事業も仕事も定かじゃないです。そういったことは、何も聞かない約束でしたし、私自身も、過去の話はしていません。彼の中で私は理想の『西野ゆう』のまま。それに、他人の家族の不幸を踏み台にしてまで、楽になろうなんて思っていません。だから、話が違うと思って、納得できなくて、でもテーブルの上の指輪と箱がどうしようもなく重みになって。

 それで、そのまま宿泊先を抜け出して帰ってきちゃったんです。正直、もうあのマンションに帰りづらくってしょうがないですね」

 力なく笑った彼女の表情はどうにも崩れそうで、街灯に照らされた目元はうるんでいる。

「…そうだったのか」

 この事実を受け止めるには、時間を要した。彼女は、どう思ったのだろうか。そしてこれから、どうするつもりなのだろうか。穿った余計な意見を脱ぎ捨て、率直に聞いた。
 
「これから、どうするんだい」
「…それ、聞きます? 今、わたし傷心中なんですよ」

 そういって無理に笑顔を作る彼女は、また演技に深く心を覆い隠してしまう。そうはさせまいと、無理やり仮面の横から手を突っ込むよう言葉を紡いだ。

「今は西野ゆうにならなくていい、君の、『シノノメルリ』さんの正直な気持ちを聞かせてほしい」
「…蒼佑さんにしてはすごいセリフですね。今まで聞いたことなかったなぁ」
「今までなんて言っても、まだ出会ってひと夏も経ってないじゃないか。意外な面のひとつやふたつあるよ」
「ひと夏しか、経っていない私に、それを聞いてどうしたいんですか」
「君はずっとぼくの作品を見てくれていた。お返しがしたい」
「…それで、聞いて、お返しになるんですか」
「力になれるかもしれない、いや、力になりたい、と思っている」

 意外にも彼女は強固な仮面をかぶり続けたが、ぼくも折れなかった。また孤独にさせるものかと言葉を紡ぎ、食らいつくように視線を向けた。ようやく目の前のこの人が何者か分かったんだ。もう他人事ではいられなくなっていた。彼女は、返事をした。

「…このまま部屋に戻って、帰りを待ちます。指輪は、受け取らなきゃいけない。それが『西野ゆう』の生き方だから、私はそれに習う」
「君自身は、どう思う」

 それから、顔を伏せて、長い、長い間があった。ゆっくりとこちらに視線を向けると、ぼくの視線と交差する。澄んだ瞳がぼくの中に潜り込むほどにジッと向けられ、正解が見つかるまで瞬きの一つもしないようだった。何を思っているのだろうか。まるで『ロジー』や『キミヨ』と対面したように、その魔性が飛び込んでくる。目を逸らしても、言葉を放っても正解はない。

 彼女たちは、見抜く。この鋭さは、彼女たちを読み、そして書いてきたからこその緊迫感だった。シノノメルリが、いまぼくを見ている。世の河川敷には、不思議と人に本音を引き出す効用でもあるのだろうか。なにげなく、彼女の放った言葉は、さきほどまでの強情が嘘のようにすんなりと僕の耳に届いた。
 
「このまま、ここにいたい」つらつらと言葉が漏れた。
「ずっと、時間がとまってる。叔父から逃げ出した、あの日から。
 私の時間はとまってる。進めたい。ずっと進めたいと思ってる」

 それから、彼女の表情は抜け落ちた。いや、それが彼女本来の表情なのだと悟った。
 和泉河川敷で言葉を交わした、無機質で、ずっと超然とした女性像に憧れた孤独な女の子が、今も別の河川敷でたむろしたままだった。

 それから、彼女の目からスルリと涙が流れた。
 ぼくは、直後に彼女を抱きしめた。
 西野ゆうに対しては、正しい行動だったと思えない。
 
 それでも、『シノノメルリ』にはどうだろう。
 そう考えると、体が勝手に動いた。

 小さな嗚咽が、高架下で静かに響いた。

 
 

エピローグ

 
「本当に良かったのか?」
「ええ、ぼくには荷が勝ちすぎます」

 晴れ渡った澄空の下、ぼくは鶴見川からほどない邸宅の前で山吹老人と言葉を交わしていた。何を隠そう、そこは山吹老人の住まいで、十分な広さと間取りがあった。玄関の内側、開け放たれた扉の奥から、陽斗くんがいたずらまじりに声をかけてくる。

「蒼佑兄ちゃんも一緒に住んだらいいのに!」
「ほら、陽斗、お話の邪魔しないで、こっち手伝って」
「はーい!もう、張り切っちゃってさ」

 その後ろからぼくと同世代くらいの女性が顔をだして、陽斗くんを一喝していった。直後にその女性こと、友梨佳さんはぼくと目が合うと、ニコリとぎこちない笑顔を張り付けて頭を下げた。ぼくは、構わないと手のひらを振ってジェスチャーしながらも、それに習って頭を下げてしまう。

「ほほ、陽斗の言う通りかもしれんなぁ」
 
 そういうと老人は、邸宅の門から庭側に抜け、白いチェアに座ってくつろいだ。ほどなくして、トラックが邸宅の前に停まる。

「あ、蒼佑さん。手伝いありがとうございます」

 離れの一室から、見慣れた上下灰色のスウェットを着た瑠璃さんが姿を見せた。



 

 あの日、西野ゆう、いや、東雲瑠璃は、一旦自宅に戻り生活に必要なモノをスーツケースに詰め込んで、僕の自宅へと避難した。

 それから数日後、とある上野駅のカフェテリアに囲いの男を誘い出すと、彼女は囲いの契約の打ち切りを告げた。相手であった男は例の如く偽名であったが、結婚の意思は本気であったらしく、激しく反発した。半ば脅しのようになった態度を皮切りに、近くの席で待機していたぼくと山吹老人、それと鈴木友梨佳が、二人の座る席に飛び出した。男は、驚きのあまり言葉を失っていた。

 男の名前は、鈴木庄也すずき しょうやといい、友梨佳の元旦那だったのだ。これはまったくの偶然だが、ぼくが瑠璃さんを自宅に匿い、今度の方針を山吹先生に相談している時、同居を始めていた友梨佳さんが思い当たる節があるといって旦那の写真を送ってきたのがキッカケだった。はじめは複雑な関係性に戸惑っていた友梨佳さんと瑠璃さんだったが、鈴木庄也を共通の敵として一旦は協定が結ばれることになった。
 結局、彼女の演技の力で友梨佳さんをほだしただけのような気もしたが、生きる上で培ってきた能力なら存分に発揮したほうがよいだろうと結論づけ、余計な口出しせずにぼくも今日の計画に乗った。
 
 山吹老人の口八丁と当事者二人の鋭い視線を受けて男は引き下がるほかなかった。カフェテリアに放心気味のままおいていかれた鈴木床也に同情したものの、因果応報だと努めて無視した。帰り道、友梨佳さんは「西野さんについて離婚調停で持ち出さないだけありがたく思え」と笑って吐き捨てていた。彼女たちに多少の恐怖心を覚えたが、味方であるうちは心強かった。

 瑠璃さんも困り顔で「本当に、ごめんなさい」と眉でハの字を作っていたが「いいのいいの、あなたも被害者なんだから」と気さくに許してしまった友梨佳さんを見て、また別のベクトルで身の毛がよだったのは内緒の話だ。

 「うむうむ、したたかさは美徳なりや」とそれを微笑まし気に見守る山吹老人に対しては身内びいきが過ぎるのではないかと思った。ちなみにだが、友梨佳さんと陽斗くんには瑠璃さんの本名は伝えず、西野ゆうのままとしている。

 瑠璃さんの行先については、山吹老人と陽斗くん、それから友梨佳さんの総意で、山吹老人宅に身を置くことになった。もちろん、これは一時的な措置で、瑠璃さんの収入の安定までといった条件付きとなった。山吹邸は2階建ての上に離れまであり、友梨佳さんと陽斗くんを迎えてなお、十分すぎる部屋数とスペースを誇っている。瑠璃さんは、庭先の離れで暮らすことになった。

 実のところ、もう一つ案があるにはあった。それが「ぼくと瑠璃さんの同棲」であったが、決断は控えた。一応、ぼくの家に何日間か連泊していた事実はあるが、ここでの独白は控えておく。ただ、やましいことは何もなかったというのは誓って本当だ。

 山吹老人から同棲の提案を受けた時、彼女は、それでも構わないとまっすぐと答えていたが、ぼくが身を引いた形になった。それ以降、山吹老人は顔を合わせるたびに「本当に良かったのか」と聞いてくるようになったが、あまりの頻度に言葉の裏で「本当に小心者だのぉ」と揶揄されているんじゃないかと猜疑心が芽生える。しかし憧れの先生の手前、その気持ちは完璧に伏せた。クスクスと笑う瑠璃さんには、そんな気持ちすらもお見通しだったかもしれない。

 引っ越し作業がひと段落すると、ぼくと瑠璃さんは山吹老人に声を掛けて河川敷へと向かった。「陽斗はワシが引き受けておこう」となぜかぼくに耳打ちする老人の顔は、愉快そうにくしゃりとゆがんでいた。



 夕暮れ時の河川敷。いつも黒々としてた鶴見川はオレンジと青を交互に反射させて、ラメを撒いたみたいにキラキラしている。
 二人で斜面を慎重におりながら「そういえば二人で同時におりたの、はじめてじゃないです?」と瑠璃さんが口にする。「ああ、確かに。いつもはどっちかが先についてたしね」と、和泉多摩川でのやりとりをなんとなく思い出していた。あの時は、瑠璃のテリトリーにぼくが侵入して、ここの河川敷では彼女がぼくの領域に侵入していた。そして、どちらも互いに受け入れていた。奇妙な関係は今に始まったことではなかった。

 ぼくがベンチの左側に座ると、ニヤケ顔で彼女が聞いてくる。
「隣、いいですか」ちょっとした挙動不審だった初日のぼくを演じて茶化す。
「ええ、ぼく、そんなだったかな。…もちろんいいよ、どうぞどうぞ」ぼくも腰の位置ずらしてベンチの右側に移動した。

「蒼佑さん、結構ちゃんと覚えてますね」
「はは、忘れたくても、忘れられないよ」

 そういって、ぼくは胸ポケットからタバコの箱を取り出す。
 彼女もカンガルーポケットから見慣れたタバコを取り出した。

「…あれ、それってラッキーストライク?」
「はい、戻しましたよ。もうウケを狙わなくていいんで。それに、こっちのほうが好きなんです。甘くって」

 ニシシと笑う彼女。夕暮れの中だとパッケージに添えられた瑠璃色のネイルが、深く鮮やかに目立っていた。

「…そういえば、あの時のラッキーストライク返してもらってなかったけど、すぐ吸ったりしてないだろうね?」
「ええ、吸ってませんよー。ちゃんと成人してから、吸いましたー」
 そういって挑発的な笑みを浮かべる彼女の前にして、もう真偽のほどはどうでもよくなってしまった。
 語ろうが語るまいが、もう真実は彼女の演技次第。彼女の不自然に自然で、どうしようもなく魅力的なチャームポイントだった。

 
 タバコをくわえると、ポケットからジッポを取りだす。着火しようとしたところで、横合いから彼女の手が伸びてきてフタを押さえつけた。そのままぼくの手からスルリとジッポを奪い取ってしまう。
 何をするのかと抗議しようとしたが、口元のタバコに塞がれていて言葉がカタチにならず、彼女の動向を見守るだけになった。

 瑠璃は自身がくわえたタバコの先端に、ぼくのジッポを使って火をつけた。
 
 浅く煙を吐くと、くわえなおして、ぼくに顔を寄せる。
 口元のタバコを抑え、ぼくのタバコへと火の灯った先端をつけた。

 出会ったあの日と同じ、シガーキッス。
 
 彼女の輪郭が、視界から大きくはみ出す。
 目を閉じる彼女。
 ぼくも目を閉じ、息を吸う。
 煙が口の中に漂うと、胸元のポケットにジッポライターが返された感触があった。
 その後、ゆっくりと彼女の気配が離れていった。
 
 目を開けて、彼女がベンチの左側に戻っていることを確認する。
 しかし、視線はこちらに向けたまま、挑発的な笑みがそこにある。
 
 息を深く吸う。煙だけじゃなく、彼女の残した熱まで肺に満たされる。
 ああ、この煙を吐き出すのは、もったいないな、なんて思った。
 二人でタイミングを揃えたように、長く煙を吐き出してから、彼女に聞く。

「…誰にでも、こういうことをするのかい?」
「ううん、誰にでもじゃないよ」


「特別な、君にだけ」


 彼女の手を握ってから、横並びで鶴見川を一望した。
 
 夏の終わりの夕焼けと、虫たちの鳴き声と、川のせせらぎ。
 
 河川敷と、タバコと、瑠璃色と。
 
 手の温もりと、ネイルの鮮やかさを、いつまでも離さずにいた。

 




~完~
 
 
 


✨タグミス防止用品置き場!これ大事!✨

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