小説:河川敷と、タバコと、瑠璃色と。第3話
前回
3.河川敷の小さな訪問者
薄暗い河川敷の中、西野さんが川べりへと歩みを進める。視線の先にはポツンと浮かび上がる小さな背中。あわててぼくもベンチから立ち上がり、彼女の後ろに習う。
鶴見川に反射した白たちにまぎれた背中へ近づくにつれ、輪郭がはっきりしてくる。背丈を見るに中学生、いや小学生くらいだろうか。彼女がその斜め後ろにたどり着くと、ハッキリと背丈の違いが現れる。彼女がその子と同じくらいの身長になるまで身を屈め、ゆっくりと声をかける。
「きみ、どうしたの?」
背中が驚いたように振り返る。短く切りそろえられた髪。おそらくは男の子だろうか。水辺に近寄れば近寄るほど、土手上の道路に並んだ光源から遠ざかり、輪郭ばかり強調されて表情は読み取れない。
男の子は、こちらの姿を認識するとわずかに警戒の色が浮かべた。西野さんは腰をかがめたまま、その真隣まで寄る。同じ目線の高さでぼそぼそと何か話す。そのうち、彼女も河川敷に腰を深く下ろし、さらに小さな声で二三言葉を交わした。ぼくの位置からは聞き取れない。
やけに近い距離で二人が顔を合わせている。おんなじほどの小さな影が、対岸の明かりを背景にそろって並んだ。
彼女がぼくの方を指差す。またぼそぼそと隣の子に何かを伝える。彼女の指先につられるように、子どもがぼくの顔を見た。視線が交錯するやいなや、子供はふいっと顔を逸らし、暗く流れる川へそっぽ向く。ぼくは速度を緩めながら、ゆっくりと二人の背中へ近づく。
声が聞きとれる程度の距離になって、ようやく、ぼくよりも30秒ほど早い当事者となった西野さんに「迷子かい?」と聞いた。
返事を待つ間、子供の様子をうかがう。ひざがかかるくらいの丈をした青色のパンツを、天然の座布団に落ち着けていた。ややうつむきがちの顔には、夜の河川敷に似つかわしくないほどの幼さが浮かんでいる。
「ううん。そうじゃないみたい」
彼女は声のボリュームを入念に落としながら、ぼくと話すときより幾分も丁寧に答える。先ほどまでベンチで話していた彼女とは、別の演目を切り替えた様子だった。二人の声が届く程度の位置で、ぼくは手持ち無沙汰に停止した。
小さな2つの背中、鶴見川、対岸を一望できるように位置で、ジージーとがなりたてる虫の声の隙間を縫うように、耳をそばだてた。
「きみは、この辺に住んでるの?」
隣の影がコクンと頷く。もしかしたら声を発していたかもしれないが、環境音にまぎれて、僕までは届かない。
「そっか。そっか」相変わらず子供の声は闇にまぎれたまま。
「私、つい最近引っ越してきたばっかりなんだ」
はからずも、彼女とぼくがした最初のやりとりだった。彼女は視線を川のほうへ向ける。
「ここ、いいとこだね」
安心感をそのまま服にして着ているみたいだった。飄々としていた気安さがなりを潜め、母性があたりを包む。もしかしたら、ぼくが追いかけている途中で西野さんは他の誰かと入れ替わってしまったのかもしれない。対岸の明かりも遠く、斜面上の街頭灯も届かない暗がり。水面に映るわずかな白い反射だけが頼りの視界では、目の前の母性あふれる女性が、さきほどまで彼女と同一人物かどうか判断できる材料に欠けていた。
これも彼女の演出なんだろうか。相手の望む姿に変え、彼女は生きていると言った。この小さな男の子が最も必要している人物像こそ、まさに隣の彼女自身なのだろう。
本当は「家族に連絡したほうが…」とか「警察にしらせたほうが…」とか、そんなセリフが口から出かける。だが彼女の対応を見る限りそれが不正解のように思えて、言葉を飲み込んだ。
大人としての義務だとか、地域社会への貢献だとか、そういったものばかりが頭に浮かんでその通りにしか動けないぼくと、目の前にいる小さな背中を対等な人間として接する彼女。二人の間に大きな隔たりができたように感じられた。葛藤をしたまま立ちすくむぼくに、彼女が視線を向けてくる。
「もともと、このね、お兄さんの場所だったんだけど、わたしが無理いって入れてもらったんだ。だから、きみもお願いしとくといいかもね」
そんなことを微笑みながら伝える。男の子もおそるおそるといった様子でぼくに視線を向ける。彼女にならって、極力笑顔を作った。
「ああ、いつでもおいで。ここはみんなの場所だから、ぼくのってわけじゃないけど。ゆっくりしていくといい。」
動揺を押し込めながら、彼女のはじめた演劇に参加する。正解のセリフは言えただろうか。後半は助長だったかもしれない。なんだか気恥ずかしくなってくる。胸ポケットに手を入れたくなる衝動を抑え、頬をポリポリとかく動作でごまかす。男の子がわずかに頷きながら「ありがとう、ございます」とつぶやいた。
変声期を迎えていない高いトーンの声は、夜の河川敷でも環境音の合間をぬってハッキリと聞こえた。それから段々と顔が下がり、また川べりとも地面ともつかない場所に視線が落ちた。
西野さんがこちらに顔を向けると、首の動きで何かを指し示すように合図を出している。その軌道から「私の右側に座って」と読み取った。対して、男の子は彼女の左側に座っている。どうやら、挟むこむ並びだけは避けたい様子だった。意図を解釈したぼくは、彼女の右側までおずおずと近寄り腰をおろす。西野さんは両足を地面につけたまま屈んでいたが、スウェットのお尻の部分は汚さずに浮かしていた。彼女の満足げな表情から自分の解釈が正しいことを読み取ると、男の子に向き直る。
「わたしが西野、で、こっちのお兄さんが柿崎。わたしたちもここで友達になったの」
西野さん自身、ぼく、と順番に指をさしながら、友達と紹介されドキリとする。関係性を考えたことがなかったから、奇妙な表情になった気がしたが、暗がりの中だったことが幸いした。指の軌道に従って、男の子が顔を向けていく。紹介が終わると、その子はおそるおそるといった様子で、口を開いた。
「ぼくは、陽斗、です。綱島小学校、5年3組」
自分の名前と、通っている小学校の名前を語った。綱島小学校はこの河川敷から徒歩で10分程度の市立小学校。見たところ、ランドセルも手提げも持っていないから、学校帰りというわけでもなさそうだ。家から自分の意思で歩いてきた、にしても、その活発的な行動とは裏腹な、どうにも塞ぎ込みがちな様子が気になる。
「わっ、近くの学校なんだね。どんな学校なのかな?」
「…よく、わからないです。ぼくも、ひっこしてきたばっかで……だから、あんまり友達とかも、いなくて…」
「そっかそっか」
ポツポツと陽斗くんが喋り始める。西野さんは話を急かすわけでもなく、まっすぐと鶴見川に目を向けながら、まるで昔馴染みのような自然体で聞く。
「ね、どれくらい前にひっこしてきたの?」
「えっと、2ヶ月前くらい。それから1か月くらいで…すぐに夏休みに入っちゃったから…うん…」
「お~2ヶ月かぁ、なるほどな。やっぱり、陽斗くんのほうが先輩だね」
「先輩?」伏し目がちだった陽斗くんが、彼女のほうにパッと顔をあげた。
彼女は少しだけ横目を向けて、それに応える。
「わたしは1ヶ月くらい前なんだ。ここらへんに引っ越してきたの。
それより前だったら、私が先輩っていえると思ったから、悔しいな~ってさ」
「ええ、悔しいって、そんなことで…?」
「うん、悔しいよ~。先輩ヅラしたかったな!」むくれたような笑顔につられてか、陽斗くんがクスリと笑った。
「おねえさん、変な人」
「ええ、変かなぁ?」
「変だよ。フフッ…!」
「あ、笑ったな」
そういって陽斗くんの脇腹を、こちょこちょ、とくすぐるフリをする。河川敷に甲高い笑い声が響き渡る。先ほどまでの寂寥感がすっかり影をひそめて、あっという間に打ち解けてしまった二人に面食らう。同時に、ほほえましい空気にあてられ、思わず表情が緩む。やりとりから目を離せずにいると、西野さんがにやりとした顔をこちらに一瞬向けた。かと思うと、陽斗くんに向き直り、その耳元に告げ口をする。
「でも、こっちのお兄さんはね、わたしたちよりずっと大先輩だからね。頭下げないとだめだよ~。私も最初は『ここにいさせてください、お願いします』ってちゃーんとあいさつして、やっといさせてもらってるんだから」手で耳を隠すようなモーションをしているが、彼女に声を潜める意思はない。つまり、わざと筒抜けだった。
「ええ!…そうなの?」反対側にいる陽斗くんが川側にやや身を乗り出すと、4つ並んだふたりの視線が同時にぼくを差した。
「いやいや、そんな挨拶はされた覚えはないし、しなくてもいいよ。それに大先輩っていっても、精々3年くらいだし…」
「ほら! 3年だって、すっごい先輩じゃない?」
「3年…」
なにやら陽斗くんが真剣に考え始めてしまった。もしも頭を下げて挨拶をするかどうかを考えているのであったら、ぜひとも辞めてもらいたい。
「ぼくは西野さんと違って上下関係はあまりに気にしないからね。ちゃんとした挨拶なんていらないから、安心してくれていいよ。」
「あ!先輩、いいましたね?」
と、今度はぼくの脇腹を狙ってくすぐるような素振りをする。それは陽斗くんのと違って実際に接触を伴うものだったから、ぼくは驚いてバランスを崩し、地べたに横から倒れ込みYシャツの袖を草と土で汚した。不意打ち、というのもあったが、彼女からのボディタッチはこれが初めてだったから、そのまま受け入れていいかの葛藤もあった。
幸いになことに、その様子を見た陽斗くんが声をあげて笑っていたから、彼女も特に考え込むことなく「ちょっと、なにしてるんですか~」と茶化しながら笑ってくれていた。それからも他愛のないやりとりは続いた。
聞きたいことは山程あった。
(なぜこんな時間に、一人で河川敷にいるのか)
(家族は心配していないのか)
おそらく、それを聞くのが大人としての務め、という自負や責任を感じる。しかし、西野さんの演出を見るに、どうにもこの場において、それらの信念に忠実であることが不正解のように思えてる。彼女の対応こそが真に正しい。彼女はきっと何かを察していた。大人のままで良しとしない何か、あるいは河川敷に広がっている目に見えない情緒をくみ取り、西野さんは新しい”彼女”を取り繕った。それはぼくには見当もつかないことだし、認識すらできない次元での話かもしれなかった。
手元の時計をふと見ると、そろそろ小学生が一人で出歩いて都合の良い時間帯ではなくなっていた。それまで押し黙っていた話題をさすがに切り出そうとタイミングを見計らっていると、陽斗くんがスッと立ち上がる。
「ありがとう…。ぼく、そろそろ帰る」
ぼくたちふたりにその小さな頭を下げる。頭頂部のつむじが暗闇の中でかすかに目立つ。お辞儀というよりも、再び顔を伏せたように見えるその姿は、何かを言いたげなまま、もじもじと立ちすくむ。
「そうか。帰り道、気をつけるんだよ。」
「わたしたち、よくここにいるから、良かったらまたおいでね」
ぼくと、西野さんがそれぞれ言葉を発する。期待通りの言葉をもらえたのか、陽斗くんがパッと顔を見上げて、暗がりの河川敷の中でもひときわの表情ではにかんだ。川べりの暗さにも目が慣れてきた。さっきよりも屈託ないの陽斗くんの表情がよく見えて、ぼくの心を大きく安堵させる。
西野さんは軽くスウェットを払いながら、立ち上がって彼を見届ける。ぼくも同じように立ち上がり、陽斗くんを見送ろうと居直る。
陽斗くんはもう一度大きく頷くと、ベンチに向かって駆け出し、脇を通り過ぎると斜面の上まで勢いそのままに駆けあがった。斜面を登り終えた彼は、こちらに振りかえって、大きく手を振る。そうして嵐のように、土手の道路をそのまま走り去っていった。
「気軽に吸えなくなっちゃいましたね。タバコ」
彼女がぼそりとつぶやく。陽斗くんが去っていた道の先をいつまでもジッと見つめている。河川敷にふたり残され、どことなく気まずさを感じていたぼくとは裏腹に、彼女の母性や愛情は、河川敷を去っていった小さな背中にいつまでも向けられているのだろうか。「そうかもしれないね」と、なんとか彼女と同じ方向に目線を揃えつつ、答える。
「あの子は、また来ると思うかい?」歩きながら、なんとなく尋ねる。
「来ると思います。きっと。わたしだったら通い詰めます。夏休み中。」
そうしてハッキリと言い切った彼女の顔は決意に満ち溢れているようだった。だが、どこか寂しそうな雰囲気も感じられた。強く願ったはずの望みが叶わなかった時を想うような、ほころび。だけど、ぼくの考えすぎだと言われればそれまでになってしまうような、ごく、わずかなほころびだった。
「まぁ、ちょっと早めに来て吸う分には多めに見てもらおう。それに外だしね。内側に閉じ込めて煙たがれるよりは、ずっといい」
そう言いながら、父親のことを思い出す。蒼佑もついか吸うんだろうな、なんて冗談じゃないと思いながら過ごしていた。だけど、せめて肩を並べて吸うくらいは生前にやってあげたかった。
胸ポケットからタバコを一本取り出してくわえる。ベンチよりもずっと川に近く、より暗い場所で吐いた煙は素早く闇に溶けてあっという間に見えなくなる。何気なく鶴見川に振り返り、その川底を見通そうと目を凝らすが、月明かりと空の闇ばかりが反射して何も見えなかった。
底抜けに暗い川に水面うつる細い二人分の影。それらのおぼろげな姿から目を離し、実際に眺めた彼女の表情に、嬉しさとも楽しさともつかない憂いの色を見た。
「にしても、だいぶ慣れてる様子だったみたいだけど、もしかして子供は好きなのかい?」彼女もまた土手から視線を川に戻して、先刻と同じ場所に腰を下ろしていた。
「うん、好きですね。昔に務めてた職場で、待機所までお子さんをつれてくる方がいたんですよ。部屋にわっと入ってきては、煙いーとか、臭いーとか元気いっぱいに茶化して、母親からどやされてって。なんか家族みたいに楽しくって、仲良くなったりしました。それで、その子が入ってくる時は、みんなスッと一斉にタバコの火を消したり、しまったりして、誰も吸わないんです。お客さんに付く前にブレスケアでごまかしてでもタバコ吸いたがるような人たちが、ですよ。だけど、ぱったり吸わなくなる。ほんとに、子供って不思議ですよね。」
ちょっと俯きながら内心を暴露していく彼女は、どこか恥ずかしそうな様子で、川だったり、そこらへんの地面だったりに視線をふらふらさせていた。しゃがみこんだまま足元の草花をイジったりしている姿をみると、年相応というより、まるで親の言いつけを守って待たされている子どもみたいに見えた。「そうなのか。その子も、いい人たちに恵まれたね」なんて分かったようなセリフを投げつけてしまい、どこか恥ずかしさがこみあげてくる。しかし、肺にいれた煙と共にフッと吐き出しきってしまえば、次の瞬間にはなんてことはなくなっていた。
彼女はそっと立ち上がり「それじゃあ、お先に失礼しようかな」なんて言いながら「私は、明日から毎日来ますんで」と付け足して、瑠璃色のポータブル灰皿を取り出していた。彼女の口元にタバコはくわえられていないが、癖なのだろうか。そう疑問に思うと、ぼくのほうに近づいてきて、その灰皿をスッと差し出した。ぼくの口元のタバコの先端は、灰がもこもことしていて今にもこぼれ落ちそうだった。
瑠璃色の受け皿をふりふりと揺らす彼女の意図をくみとり、タバコを口から離し押し付ける。わずかに跳ね返る力の感触。それらを拮抗させるように、ギュッと押し付け、彼女もさらにそれを支えた。彼女が満足げに微笑むと、ぼくの灰を回収したコンパクトなケースごと手を振って、そのままベンチのほうへと戻っていく。
ベンチの脇を抜けて、斜面を小さな歩幅で登る。陽斗くんよりもだいぶ時間をかけて斜面を登りきったあたりで、顔だけ振り返り、ぼくに向かって小さく手を振る。そうして彼女も去っていった。
洗礼された一連の動きは、確かにぼくを安心させるには十分な効力を保っていたように思う。たとえそれが演技であっても、そうでなくとも、彼女の行動は人を勇気づけるものには変わりない。誇っていい、と思った。それは誇っていいことだと、誰にいうわけでもなく、河川敷の中心で叫びたい気分になった。
夜の迷い子と、演出する彼女と、惹かれる僕と。
ぼくは、また書けるのかもしれない。
直後に、破り捨てられた小説、父親の遺影。暗い水面を通してぼくのレンズに映ったのは、なんの脈絡もない過去の映像。
しかし、ぼくが過去につむいできたどんな描写よりも、ふたりのじゃれあう姿が鮮明なまま、頭の中で燃え盛っていた。
つづく
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