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小説:河川敷と、タバコと、瑠璃色と。第5話

前回


5.後ろ向きの爺や


 ぼくは斜面の下のベンチから、土手を見上げる。夜の闇に包まれてしっかり姿は視認できないが、確かに背の低い男性のシルエットが浮かび上がっていた。
 しかし、三本目の足がある。足は左手から伸びていて、地面にしっかりと接地しているから、ほどなくして杖だと気づいた。奇妙なことに、腰は曲がるどころかピンと姿勢よく伸びていて、本当に杖が必要なのかと疑問に思う。それ以上にぼくの注目を集めた正体は、シルエットの進んでいる方向にあった。

 後ろ向きなのだ。

 杖を後方にのばして地面を支え、そこに引き寄せるようにすり足で後ろに進んでいる。進行方向の街灯の直下に入り、姿があらわになる。薄緑の着物を着た老人だった。正面はこちら側を向いているのに徐々に遠ざかっている。
 少しばかり嫌な予感がわく。こういってはなんだが、時間も時間だったし、もしかしたらどこかの家から抜け出して徘徊しているではないか、という懸念が頭をよぎった。

 ベンチで戯れている西野さんと陽斗くんに視線を戻す。先ほど告白したばかりの僕の作家名について、あれやこれやと話しているところだった。身を寄せて割り込み、老人の存在を知らせる。
「…あのおじいさん、ちょっと様子が変じゃないか?」なるべく声を潜めて伝える。
「おじいさん?えっと、珍しいね。どのあたり?」斜面の上を差し示すと、それにならってふたりの視線が連れ添う。土手の上の老人をとらえると、さっきまでのぼくもしていただろう、いぶかしげな表情をする。
「ううんと、確かに変だね」
「あれ、えー?…なんであのおじいちゃん、後ろ向きで歩いてるんだろう?」
 西野さんが首をかしげ、陽斗くんの遠慮ない声がやや大きめに響いた。とっさに斜面の上の老人に目線を戻すと、こちらに気付いた様子だった。

 街灯に照らされた立派な白髪。丈が短めな黒の羽織。その老人は後ろ向きの進行をやめ、そのまま前に歩き出した。普通に歩けるじゃないかとホッとしたのもつかの間、老人はぼくたちの方向へまっすぐ、そのまま斜面を降りようとしていた。その行動どこか得体のしれない熱を感じる。
 向かってくること自体にギョッとはしたが、それ以上に心配が勝った。確かに足取りはしっかりしているし、前に歩くときは杖もほとんど使っていないようだが、それでも老人は老人。補装もされていない斜面をくだるのは一筋縄ではない。

 あわてて駆け出した。おじいさんが道のはずれに足を踏み入れる前に、下から斜面を駆け上がり、同時に声をあげる。「おじいさん、危ないですよ!」

 渾身の警告は届かなかったのか、ついに斜面へと足を踏みだす。その足元は、しっかりしたスニーカーだった。スッ…スッ…と一歩づつ確かめるように斜面を降りてきていて、杖も上手な補助となってよっぽど安定していた。思わずぼくは途中で足をとめて、老人の様子を唖然と見ていた。「だ、大丈夫ですか」と声を掛けると老人は口を開いた。
「ああ、なに、大丈夫だよ。そちらのお嬢さんに見覚えがあると思ってな。…すまないが、ちょいとそこを通してくれないか」

 そういって、ますます杖を器用に手繰って、ぼくを横に押しのけるようベンチへ向かっていく。お嬢さんというのは西野さんのことだろうか。仕方なくぼくは老人の背中を追う。平地に足が差し掛かると、老人は手持無沙汰になったように杖をプラプラとさせた。ちょうど出勤中のサラリーマンが傘を半ばから持つような恰好をしていて、まるで足腰に問題はないように思えた。

 後ろ向きをはるかに上回ったスピードで、すたすたと歩き始めると、あっという間にベンチにたどり着く。不思議そうに見つめる西野さんと、ややおびえた様子の陽斗くんが彼女の背中に少しだけ隠れた。老人がゴホンとひとつ咳ばらいをすると、厳かな声色で尋ねる。

「失礼だが、お嬢さん。もしや、シノノメという名前に聞き覚えはないかい?」

 聞きなれない名前を候補に挙げて質問した。老人の後ろにたどり着いたぼくにはその質問の意図がまったく分からず、西野さんに目をやった。単なる人違いか、あるいは本当にぼけてしまっているのだろうか。失礼な物言いを隠して、老人に何かを声をかけようと思案するも、視線の先に固まった西野さんの姿が映った。
 想像よりもずっと長い逡巡の後、彼女は否定と肯定、どちらともない返答をした。

「…おじいさん、あなたは?」

 その声色には明らかな緊張の色が宿っていた。それが狼狽の証なのか、それとも何かを察してとっさに演じた違う”彼女”なのか、判断はつかない。老人に向かって用意としたセリフを引っ込める。すると老人は「これは失敬」と身をわずかに引き、続けた。

「いえね、ワシはヤマブキというしがない作家だよ。お嬢さんのような雰囲気を持つ人はなかなかいないと思って、つい降りて来てしまった。驚かせてしまったね」

 ヤマブキ、と名乗ったその老人は軽く会釈をしていた。思いがけない名前が飛び出し、心臓が強く脈打つ。西野さんは「あ、いえいえ」といくらか気安さを取り戻しながら答えていた。老人は熱が入ったのか、話を続けた。「シノノメというのはワシが若いころに出会った女性でな、箱根あたりの湯屋で見たのが最初だった。縁側の通路から庭で涼むその人はね、ちょうどこんな河川敷くらいの暗さの中だったが、お嬢さんの雰囲気と瓜二つ。まるで生き写しだ。それで思わず声を掛けたわけだよ」

 諸事情を一息にしゃべると杖をまっすぐ立て、三点で体を支えた。それからジッと返事を待っているような様子で気長に佇む。果たしてヤマブキという作家が、ぼくの想像した通りの人物なのだろうか。ぼくの思案はその点すっかり支配されていた。そうしているうちに、彼女は不思議な声色で話はじめた。

「そうなんですか。あいにく、シノノメという名前に覚えはないですよ。私は西野って名前です。あの斜面をわざわざ降りてきてもらったのに、ごめんなさいね。暗い中じゃ危ないですし、今度は若い人たちに登らせてやってくださいな」

 妙に艶がかったような口調だった。慮る言葉のわりにベンチから立ち上がる様子はなく、陽斗くんの盾になっているようにも見えた。イメージとして廓言葉のアイロニーを思わせる含み具体で、わずかに警戒の色が見て取れる。彼女のこの演目が意味するところはなんだろうか。老人は、そんな彼女の態度に目を見張った。

「…これは驚いた。雰囲気だけじゃなく口調まで似か寄っているとは。ふむふむ。これは興味深い。ものはついでなのだが、こちらでワシも一服させてはくれないか?少しだけ話させてほしい。お嬢さんは、本当にあの人によく似ている」

 どうやら西野さんの演目は無事、目の前にいる観客の心をつかんでしまったようだった。老人は羽織の袋から「わかば」と銘打たれたタバコのケースを取り出していた。老人の目にぼくの姿は映っていないようだったが、陽斗くんの存在には気をとめたようだった。老人は声をいくらか柔和にして、話しかける。
「おっと、こんなに小さい子がいたのか。それは悪いことをした」わかばのケースを羽織のポケットに再び隠した。少しだけ腰を屈めて陽斗くんに問いかける。
 「なぁに、ワシは悪いモンじゃない。ただの寂しがりな老人だ。ワシもちょっとお邪魔させてはくれないか?」
 陽斗くんは急に話かけられて驚いている様子だったが、西野さんの背中から姿を見せると、「うん、いいよ…」とうなずいた。その純粋さがまぶしかった。すると、陽斗くんがぼくに代わってくれたのように、ずっと疑問に思っていたことを口にした。

「…おじいちゃんの名前、もしかして、やまぶきけんぞう、っていう?」

 ぼくは内心ですこぶる緊張をした。老人が一瞬だけ狼狽する様子を示すと、コッコッという奇妙な音の混じった笑い声と共に答えた。
「ほぉ、ワシの名前を知っているのかいボウヤ。勤勉な子だね。ご両親の影響かい? だが、勧めるにしては、いささか若すぎる気もするがね。君くらいの子には退屈な本じゃなかったかい」

 やはり、山吹賢三本人であった。

ぼくの中に興奮と、それから大きな戸惑いの波がやってきた。河川敷の闇が急に明けたように思えた。しかし、せっかちな様子で尋ねる老人は、「ご両親」のところで、確かに西野さんとぼくの顔を交互に見ていた。ぼくたちが夫婦だと思われることが、どうにも居心地が悪く、興奮をひた隠しにしたまま訂正を急いだ。

「いえ、ぼくたちはこの子の両親ではないですよ。それに、彼女とぼくもそういった関係では…」

 老人がこちらに目を向けた。ぼくに向ける目はふたりへのものと違い、感情らしい感情が込められていないように思った。老人の中の疑問が投げかけられた。

「ふむ。君とお嬢さんは夫婦でもなく、この子は連れ子でもない。であれば君たちがここで何をしているのか、非常に興味深いことではあるな。とうに遅い時間だが、なぜこの子を家に帰してやらない?」

 口調は穏やかだったが、どうにも試すような視線を感じた気がした。言葉を紡ごうにも、口が縫い合わされたように発声できずにいた。

 突然、西野さんがベンチから立ち上がって席を空ける。陽斗くんも彼女と一緒に立って、老人の注目を奪った。

「立ち話もなんですから、座ってください。わたしたち、友達なんですよ。私も、お兄さんも、この子も、自分の意思でこの河川敷にきて、そうして出来た友達なんです。もしかしたらこのお話、小説のタネになるかもしれませんよ」

 いつぞや見た挑戦的な笑みを浮かべる彼女が居た。実際は暗がりでどんな表情か細部まではみれないが、彼女の放つ雰囲気はいつかのそれだった。陽斗くんもその後ろで大きく何度もうなずいている。対して山吹老人もコッコッと独特な音を鳴らしながら「おぉ、これは気立てのいいお嬢さんだ。では失礼して」とベンチにのそりと腰をかけた。

 正直なところ、内心ではホッとしていた。ぼくたちがさんざん無視してきた大人としての責任が取らされるのではないかと、気が気でなかった。彼女の機転で変に責められることもなく、落ち着いて話に持ち込めた。いや、そもそもこの老人も、はじめから断罪をするつもりはなく、純粋に興味を持っただけなのだろう。ある意味で、老人と彼女、このふたりのやりとりは必然だったのかもしれない。

 綱渡りのような心境のなか、ベンチには左から山吹さん、西野さん、陽斗くんと掛けた。ぼくはその正面に立って、ベンチから体をややそむける。
 
 生粋のストーリーテラーになった彼女の語り口が、河川敷に馴染んでいったこの前向きな老人の『後ろ歩き』について聞けるのはまだ先になりそうだなと、ふと考えていた。




つづく



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