【随筆】平等と性別
2018年10月29日のfacbook投稿を加筆転載したものです。
私は今まで色々とセクシャルマイノリティについてもんもんと考察し悩んできたけど、最近思ったことを書きます。
まず大事なところから書くと、私は性的な差別を考えたかったのではなく、個体的な差別等の不遇についてを考えていきたいんだなと改めて思いなおした、というお話です。
と、いうのも。
まず、私は今まで何度も書いているように、女性と男性って差があるから良いのであって男女差を無くすのが本当に平等なのか?と私は疑問に思ってきた。セクシャルマイノリティという集合体の中でのマジョリティ、性同一性障害者etc.って、男女差があるから発生する考え方の悩みであり、段階によって外科手術をするレベルの世間的に病気とされるアイデンティティーの問題であるからだ。
性差がこの世から無くなることによって、彼・彼女らは本当に問題から解放されるのだろうか?と不思議だということ。
なってみなきゃわからないからこれはどうにも私では思考ができない。
そんなことを私はずっと問い考え続けてきた。
そして次に、社会的に男女差を平等にするには両方の評価に下駄履かせるなり、何らかのハンディを負わせるなりで調整をせにゃならんで、それやると社会で生きてくの、かなり辛いと思うんだよねえ。お互いに。
無論、偏見とかハラスメントは絶対に良いことではないけれどそれは除いておいて。
だいたいが、男女以前に個体差だって大いにあるんだからさあ、平等って人によっても考え方が違くって、何を以て平等か、それが何かを具体的に示し定義づけしなきゃそりゃ素人だろうが物凄い論客だろうが、誰が論じても平行線になるだけだわな、としか思わないし、思えない。
男女共に下駄履かせたりハンディを、って先に書きましたけど、何故下駄はかせるかって言うと、人のデキるところを削るわけにはいかないからです。
何故ならそれは効率的に無駄な発想なわけで、勿体ないでしょ。で、それがデキない奴に下駄履かせた評価をしなきゃ目に見える平等にならないわけで。
それってお互いにしんどいよねって話をしたいわけです。
助け合いの精神というよりは、どっちも下駄履かないと数値的な意味では同じ高さになれないでしょ。
両方多少の無理が生じても何とか歩み寄らないといけないわけだ。
私はそう考えると、平等ってだいぶ窮屈で、平等である必要性がある場面とない場面とが生じるんじゃないかなって思うんだな。
私個人の話としては、私ひとを性差でバイアスかけて見てはいなくて、個人個人としてひとを見ているという理由から、性愛として好きになる対象が男だったり女だったりそのどちらでもなかったりするから今まで悩んだりしてきたわけなんだなと自己解決できた。
で、そんな風に色々と考えていて思ったんです。
社会全体の平等の話をあーでもないこーでもないってするよりも、目の前の困っている個人がいたら、その人1人を生きやすくさせてあげる話をもっとしていきたいなあって。そう思ったんです。
私はセクシャリティについてを問うていたわけではなかったことに、今更ながらやっと気付いたのです。
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