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【Essay】話す言葉、内なる葛藤。

留学生と何語で話すか、という問いがある。日本の大学に日本語を学びに来ている外国人留学生は、日本人の学生と日本語で話したいと思っている。そして留学生と関わりたい日本の学生は、留学生の言葉で話したいと思っている人も少なくない。そこで、何語で話すかという一つの葛藤が生まれる。そして「誰と」「何語で」話すかという問いは、すなわちそのまま本人の存在論的、ないしは実存的問いかけとなって行く。

自分の場合は、タイからの留学生と接しているときにそれをよく感じる。自分はタイ語で話したい。話したいと思っていなくても、(ゼミのタイ人の先生を例外に)タイ語で意思疎通ができる人とはタイ語で話すというのがもはや癖になっている。大学でタイ人の友人にばったり会ったとき、自分が最初にかける言葉は、もちろんタイ語。

–หวัดดี เป็นไงบ้าง สบายดีไหม(やあ!最近どう?元気?)

この決まり文句を発したときから、自分の中で「タイ語を話す自分」が眼を覚ます。それは「日本語を話す自分」と似て非なる自己。

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以前、スクムウィットの中心にあるS大学に短期留学をした際のことを書いたことがある。そこで出会ったMという友人について長々と書き留めた文章がこちら。

自分が大学1年時の際にS大学のプログラムで知り合い、突発したパンデミックを経て、自分の大学のオンライン授業における交流プログラムで再会したMと自分。この話には後日談がある。S大学のプログラムから2年後、Mは初めて来日し、交換留学生として自分のいる大学に来ることになったのだ。自分も半年後にチェンマイへの留学を控えていた、大学3年秋の話である。

留学自体は10月に始まっているのだが、コロナ禍で日本政府が発給するビザや航空券が限られているため1ヶ月以上渡航できず。その際は渡航はできたものの、日本入国後の隔離のため空港近くのホテルに滞在していたという。日本に留学をしに来るという知らせをM本人から聞いたとき、自分は言葉では表現しきれないほどの嬉しさが胸にこみ上げていた。もちろん彼にまた会えるということも嬉しかったのだが、彼の夢がついに叶うということが何よりも嬉しかった。画面のこちら側で勝手に喜んでいる中、彼は自分と話をしたいと言っていた。僕自身が以前、拙いタイ語で彼に尋ねた質問に関して今更ながら回答したい、ということだった。2年前、自分が彼にした質問はこうだった。

「Mはいつも何語で考えているのか?」

Mはタイの深南部と呼ばれる地域に位置するパッタニー県出身のマレー・ムスリムだ。この地域では昔からパッタニー・マレーというマレー語の一方言が日常語として話されている。パッタニー・マレーでの日常世界とタイ語での社会空間の狭間で、あるいはその両方の中で生きてきたM。その事実自体が、当時19歳のあるモノリンガル青年に強い好奇心を抱かせた。

この質問に、彼が2年越しに出してくれた答えについては、これを読んでいる方の想像に任せたい。

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Mに対して僕は常にタイ語で話しかけていた。むしろ、彼に自分とは日本語で話させなかったと言った方が正しいのかもしれない。今考えると、かなり申し訳ないことをしたと思っている。待ち焦がれていた日本留学なのに、留学先の友人は日本語で話させてくれないのだから。そんなことは当時、全然考えてもいなかった。自分自身、チェンマイへの留学を2回も延期し、ようやくタイへ行ける目処がたった時期だった。タイ語でかつ対面で話せる友人が、喉から手が出るほど欲しかったのだ。

ある先輩曰く、「ランプーはいい連れを見つけましたね」とのこと。自分のことしか考えていなかった僕の「連れ」になってしまったMに、この文章に代えて謝罪を示したいものである。

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そして今、自分は同じ問いにぶつかっている。タイからの留学生とは何語で話せばいいのだろう…?

チェンマイでは社会科学部に留学していたため、日本語専攻の学生とはほとんど関わりがなかった。自分と付き合うタイ人の中に日本語を話せる人はほとんどいなかったものだから、「何語で話せばいいのか?」という問いはあまり生まれなかった。自分は現地では外国人だったため、わざわざ拙い英語で話しかけてくれる学生もいた。僕はいつものように落ち着いてタイ語で返す。すると、会話は全てタイ語になる。もちろん、英語で話すこともできた。

自分はどこまでもタイ語で話すことが好きだった。声調が豊かなタイ語の響きが好きで、母音の長短が生み出す独特のリズムが好きで、節を後ろに無数につけていく言葉の運び方が好きで(翻訳時と学術文献購読時を除く)。何より、相手の母語で話す方が、相手はより深い話をしてくれる。より深い仲になれるのだ。

そして、自分はタイ語で話している自分が好きだ。誰かと向かい合いながらタイ語で話していとき、日本語で話しているときとは全く異なる秩序が自分の中を満たしている。誰かと「何語で」話すかによって、自己は決まっていく。

日本では、自分の大学では、事情が違う。今、自分と向き合っているタイ人の友人は、日本語を学ぶために留学に来ている。日本人と日本語で話したくて、今ここにいる。チェンマイにいたときの自分のように。また1年も経っていないのに、懐かしさすら込み上げてくるのだから。

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時に、自分が留学に来ているタイの友人(その多くは新しくできた友人でもある)と自分がタイ語で付き合っていく余地があるのか、理屈っぽく考えてしまうことがある。タイ人留学生は日本語で話したい。自分はそれは最大限、尊重したい。それでも自分はタイ語で話したい。タイ人の友人だって、タイ語で誰かと話したい時があるはずだ。母語で話せる相手がいるというのは安心材料だ。でも、彼らがタイ語で話す相手なら他にもたくさんいるはずだ。もう日本の大学において、タイ人留学生は珍しい存在ではない。そして、ビデオ通話でもすればタイにいる友人にだって顔を見ながら話をすることはできるだろう。自分の拙いタイ語で話してもらえる–少なくとも、それが必要とされている-余地は、もはやどこにも存在しないのかもしれない。

理屈で考えると、なかなかに惨い(!?)。悲観主義にも程はあるけれども、タイ語で話すときの自分を捨てなくてはならないのだから。タイ人と話しているときに、タイ語で話す自分が見出せないのは、どこか寂しいものがある。

そうとは言え、研究室に来るタイ人の友人が日本語で話し、自分はタイ語で話している。お互い母語ではない言葉で、あちこち母語で補いながら、話している。そんなひと時が、チェンマイの温かい日差しが恋しい日々の、幸せな時間。

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