【Essay】リズム:何語で話すか?
日本で通っている大学には、タイから来た二人の先生がいる。一人は女性、一人は男性。正真正銘のタイ人だが、日本の大学院で学んでいたこともあり、二人とも日本語を流暢に話す。話すだけではない。日本語の本も翻訳するし、日本語で論文を書くし、何よりも日本語でタイ語を教えている。僕はこの二人に4年間もタイ語を学んできた。
ただ、どちらの先生ともタイ語で話をするのかというと、そうでもない。女性の先生–ここではA先生としておこう–とはタイ語で話すのだが、男性の先生–B先生−とは日本語で話すのだ。以前から、自分でも不思議に思っていた。なぜA先生とはタイ語で話し、B先生とは日本語で話すのかと。何気ない世間話をするときもそうだし、勉強や進路の相談をするときもそうなのだ。
その答えは単純だと、最初は思っていた。廊下でばったり会ったとき、A先生は「เป็นไงบ้าง(元気ですか)」と声をかけてくれるし、B先生だったら「最近、どうですか」と声をかけてくれる。話し始める言葉がタイ語なら、お互いそのままタイ語で話すだろうし、話し初めが日本語なら、そのまま日本語で話すものだろう。ただそれだけのことだと思っていた。
しかし、B先生とタイ語で話してみると、どこか不自然なのだ。それはB先生の日本語が不自然なわけではなく、かといって自分のタイ語が下手というわけでもなさそうだ。実際、B先生とはメールなどではタイ語でやりとりをするし、タイ語の授業中であれば、もちろんタイ語で意思疎通を図っている。ではこの不自然さは何なのだろう。その答えも、今から考えれば単純だった。単純だけれども、言葉にするのは難しい。強いて言うなれば、会話の「リズム」である。
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人と会話をするとき、我々は自然と相手のリズムを把握しようとする。相手が話しているとき、自身はその話を聴こうとする。聴くとはどういうことか。相手が話す内容を理解しようとすることであり、それはつまり相手の言葉遣いや声の調子、速さ、タイミングなどなど、ありとあらゆる情報を把握しようとする営みである。音や言葉だけではない。話すときの相手の姿勢、表情、身振りや手振り、その全てを感じ取ることによって、相手の話したいことを「聴く」という営みが成立する。この相手が発する言葉遣いであったり、話し方であったりを、僕はここで「リズム」と呼んでいる。
この「聴く」という営みを経て、初めて自分の応答が行われる。自分が話すときも、人は自然と相手の話すリズムに自分自身を合わせようとする。それをお互いが行なっている。お互いが相手の話し方を感じ取り、自分の話し方を調整する。繰り返していくと、両者の間に、両者の間にしか成り立たない「リズム」は出現する。「リズム」が成り立って初めて、その会話は「意思疎通(communication)」と呼べるやり取りとなる。「リズム」は両者の会話を重ねるたびに、強く、濃くなっていく。「リズム」がお互いにとって無理のない、ちょうどいいものになったとき、お互いにとって心地良い人間関係が始まるのだ。
「リズム」の存在は簡単に知ることができる。例えば、学校の先生と話すときの自分と、学校の友人と話すときの自分は、本当に同じ話し方をしているだろうか。自分の実の親と話すときはどうだろうか。全く違うものだろう。自分の話し方は、話す相手によって異なっている。「リズム」も同様だ。あなたが持っている関係の数ほど、相手との間にあるより心地よい「リズム」も多様なのだ。
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なぜA先生とはタイ語で話し、B先生とは日本語で話すのか。それが、我々にとってより良い「リズム」だからだ。A先生とは、タイ語で話している方が心地よいし、B先生とは日本語で話している方が心地よい。それは、今までの会話の中で形成された「リズム」なのだ。振り返ってみれば、B先生とは大学入学前からのお付き合いである。当然、当時の自分はタイ語なんて話せない。日本語で話してきた。話題も多岐にわたる。何気ない世間話から進路相談まで、日本語で話してきた。深い話をしてきた仲だと勝手に思っている。一方で、A先生とは大学入学後からのお付き合いだ。会話も最初からタイ語だったし、最初の頃はタイ語であれ日本語であれ、深い話はあまりしていなかった。もちろん、今であれば深い話もするのではあるが、話すときの「リズム」は、簡単なタイ語で話していた1年生の頃とあまり変わらない。タイ語で話すというのがより良い「リズム」なのだ。
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先生たちの場合は、もう何語で話すのかは分かりきっている。でも、かつて英語で話していたタイの友人の場合はどうなのだろうか。僕は高校生の頃、タイの友人ができた。もちろん、彼らとは英語で話していたのだが、彼らと彼らの言葉で話したくて、彼らが生まれ育った国の文化を知りたくて、タイ語を専攻した。何に、僕は彼らとあまりタイ語で話していない。当然といえば当然だった。僕がタイ語を学び始めたくらいの時期、彼らは自分たちの夢を叶えに世界各地に留学している。アメリカ、カナダ、イギリス、日本。お互い新しい友人もでき、何よりコロナが自分たちを完全に遠ざけた。
今、この瞬間、受話器をとり、その友人に電話をかけてみるとする。彼なり彼女なりの口から発せられるのは何語なんだろう。僕はそれに何語で応答するのだろう。以前であれば英語でどうでもいい話をし、英語でどうでも良くなくない話もし、とにかく英語で話していた。英語が僕たちの「リズム」だった。もし僕がタイ語で話せば、彼らにとっては母国語だ。でも、タイ語で話す僕と、英語で話していた僕は、彼らにとって同じなのだろうか。僕とタイ語で話す彼と、僕と英語で話していた彼とは、彼自身にとって同じなのだろうか。
二人の会話は、「リズム」は、これからの友情は、何語で紡がれるのだろう。
試してみたいけれども、その勇気はまだ湧いてこない。英語で紡がれた思い出には手をつげずに、そっとしておきたいなんて、思ってしまうこともある。
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