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#65「夢のかけら」は足下に~笠原一郎『ディズニーキャストざわざわ日記』より~|学校づくりのスパイス

 終身雇用システムの是非や働き方改革など、人が「仕事という生産活動にどう向き合うか」という問題が社会的にも教育的にもクローズアップされています。今回はこの問題について、笠原一郎氏による『ディズニーキャストざわざわ日記』(三五館シンシャ、2022年)を足がかりに考えたいと思います。
 
 氏は57歳のときに仕事を早期退職し、65歳で定年退職するまで約8年間、東京ディズニーランドのカストーディアルキャスト(清掃スタッフ)として勤務された方で、その経験をもとに記したエッセイが本書です。

笠原一郎『ディズニーキャストざわざわ日記』三五館シンシャ

ディズニーキャストのリアル

 本書には清掃スタッフの目線に映ったディズニーランドのリアルが、あくまでも自然体で描かれています。たとえば、氏の目の前で小学生くらいの男の子が嘔吐してしまったときの様子は次のように記されています。
 
 「『大丈夫』と声をかけ、足下に広がった嘔吐物の処理に取りかかった。ペーパータオルをかけ、嘔吐処理をしているとヨコにいた母親らしい女性が『吐いてすっきりしたでしょ。早く次のところに行くよ』と言うと、あわててその子の手を引いて去っていった。私は茫然と親子の後姿を見送った。(中略)気まずかったのか、本当に急いでいたのかはわからない。それにしても目の前で処理をしている人に何も言わずに立ち去るなんて。ムカムカしながら、作業を続ける」(24〜25頁)。
 
 ディズニーランドには揺れ動くアトラクションも多いので、嘔吐してしまう客も多いだろうということは容易に想像できます。また、その処理は誰かがしなければならないことは、考えてみれば当然です。そしてそれを担っているのが清掃スタッフというわけです。
 
 もちろん本書に記されているのは、そうした負の側面ばかりではありません。「もうすぐ始まるパレードを見ようと思っているのですが、どこかよい場所はありますか?」と問われたときのゲストとのやりとりの様子が次のように記されています。
 
 「『パレードの列までは少し距離がありますが、さえぎるものがないのでこのあたりからだとよく見えますよ』私は日々の業務で見いだした、シンデレラ城裏のトゥモローランドに近いマル秘スポットを伝えた。パレードが終わって少し経ったときだった。掃除をしていると、その家族連れが駆け寄ってきた。『さきほど教えてもらった場所から見ました。たしかに最高の場所でした。その御礼が言いたくて探していたんです。ありがとうございました!』ゲストに楽しい時間を提供できたという実感は、この仕事の喜びでもあった」(173頁)。
 
 本書の舞台となっているディズニーランドについては、スタッフの人材育成や顧客サービスなど、人を幸せにする職場として数多くの書籍が出版されています。定年退職後の職場としてはウハウハな毎日を過ごしていても不思議ではありません。
 
 一方で笠原氏は、東証一部上場企業(キリンビール)で支店長まで務められたそうです。そうした職歴を考えれば、わずかな時給で清掃スタッフとしてハードワークに耐えなければならないような仕事に憤慨して、すぐに離職しても無理はありません。
 
 ところが本書から見えてくる「夢の仕事」のリアルはそのどちらでもありません。日々の業務に不満を漏らしつつも、同時にささやかな喜びもある等身大の毎日です。

夢のかけらは足下に

 話はそれますが、アリのコロニーのなかには全く働いていないアリが3割程度はいて、この働かないアリを取り除くと、残りのアリのうち、やはり3割程度は働かなくなる (長谷川英祐『働かないアリに意義がある』山と溪谷社、2021年)という話をこの連載でも以前紹介したことがあります。
 
 仕事の満足についても似たようなところがあるのではないでしょうか。仕事環境がより恵まれた状態に変化した場合には一時的には満足感が増加するでしょうが、次第に慣れてそれが当たり前となり、逆に些細な問題が目につくようになってきます。また、何かの理由で仕事環境がよりシビアなものに変化すると、今度は仕事の合間の息抜きなど、ちょっとしたことにも幸せを感じることができるようになるはずです。
 
 年収と幸福感の関係などの場合についても指摘されるところですが、人は誰しも自分のなかで、幸福と不幸等の感情の相対的なバランスをとるようにできています
 
 この「三五館シンシャ」の日記シリーズには「保育士」や「メーター検針員」、「コンビニオーナー」や「メガバンク銀行員」などのバリエーションがあり、書店でパラパラとめくってみましたが、どの職種も天国でもなければ地獄でもなさそうです。
 
 実は大学の教員の仕事も事情は同様で、傍からは華やかに見えるかもしれませんが、日常の仕事の大部分は文献検討や、講義準備、大学運営や学会の委員会活動等の地味な職務に追われています。筆者もいつか『大学教員バタバタ日記』など書いてみたいものです。
 
 さて、児童・生徒のキャリア教育についてであれ、教師自身の仕事についてであれ、この一種楽天的な見通しを持っておくことは武器になるのではないかと筆者は考えています。
 
 今後は仕事の内容や雇用形態はもとより、「職業」という考え方自体も流動化していくことが予想されます。そんな時代にあっても仕事の幸福は、労働システムや職務内容そのものだけではなく、個々人の環境との向き合い方に多分に依存しているのです。そして人と仕事との関係は、(離職や転職を含め)工夫して変えていくことができます。
 
 ディズニーランドのステージの上にはポップコーンのかけらなどが散乱することが多く、ほうきがけしているときに、ゲストからよく「何をしているんですか?」と聞かれるそうです。そんなとき笠原氏はしばしば「夢のかけらを集めています」と応えているそうです。
 
 もしかしたら、人生の質をより大きく左右するのは、夢の実現よりも、平凡な日々のなかに自ら見つけていく「夢のかけら」の方なのかもしれません。

【Tips】
下のリンク先では、本書の出版に至る経緯が書かれています。

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

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【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。

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