#37「泥臭い知性」の時代~養老孟司『AIの壁 人間の知性を問いなおす』より~|学校づくりのスパイス
今回と次回はAIの進化と人間の知の働きの違いについて考えてみようと思います。まず今回は解剖学者の養老孟司氏の『AIの壁――人間の知性を問いなおす』(PHP研究所、2020年)を取り上げます。
この本は棋士の羽生善治氏、経済学者の井上智洋氏、AIを倫理や美の問題の観点から論じてきた哲学者の岡本裕一朗氏、「ロボットは東大に入れるか」プロジェクトを推進してきた数学者の新井紀子氏といった、AIと人間の知性との関係に関心を持って来られた方々と養老氏との対談集ですが、本書を手がかりに、AIには何ができて何ができないのかという点について探ります。
AI・脳・身体
本書に限らず、養老氏の一連の著作に通底するスタンスは、脳の仕組みは基本的にコンピュータと大きくは違わないというものです。入力信号があってそれを処理して運動に関する信号として出力をするという点では、AIも人間の脳も基本的に同じであるというのです。
では人間は近い将来AIに取って代わられる運命にあると養老氏は考えているのかというとそうではありません。人間の思考は脳だけで完結するものではなく、身体を通じて外の世界とつながっているからです。
このような視点で、教育という営みをみると浮上してくるのが五感の重要性です。「今の子どもに準備しなきゃならないのは、答えとしての『出力』ではなく、いかにいろんなプロセスを経験させるかという『入力』の方なんですよね。まず、五感を鍛えろと」(46頁)。
こうした養老氏のスタンスに対して対談のなかで羽生氏も「実社会の知見を広めるとか、多彩な経験を積むとか、それこそ五感を働かせる機会を増やすとか。そういうところが大事になるのではないか」(49頁)と応じます。
井上氏との議論のなかでは、人間が枠組みを与えなければAIは機能することができず、「AI社会の脅威を論ずるなら、まずはコンピュータのモチベーションが聞きたい」(109頁)という養老氏の投げかけに対して、井上氏は「人工知能と人間の意志や欲望の違いは、人間はまず、今のAIとは違って多様な欲望を持っているという点。それから、欲望自体が変化するということなんですよね」(110頁)と指摘します。
岡本氏との対談では、人間の幸福が客観的条件と主観的感性の相互作用により知覚されるものであることが話題となり、人間は病やまいに倒れて「むしろ幸せ」と感じる(153頁)ことがあるように、人間の意思どおりにいかないということが、人の幸福にとって積極的な意味を持っていることが指摘されています。
新井氏との対談では、“今の社会では何にでも答えを欲しがる”という養老氏の指摘に対し新井氏は「これができた、あれができた、ということしか学校では学ばないんです。そして、その単元で、できるべきことができた生徒が優秀なんです。でも、できる話はつまらないでしょう。公式を覚えるだけですから。できないことの方が圧倒的に多いし、面白い」(206頁)と応じています。
「泥臭い知性」の時代
2021年1月に中央教育審議会で取りまとめられた「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して(答申)」をはじめとして、今日の教育論議に欠かすことのできないのが、今後の社会における人間とAIの「棲み分け」を前提に、子どもにとってどのような力を発達させておくことがもっとも彼らの幸福(well-being)に資する可能性が高いか、という論点です。
本書では超スマート社会に必要となる知的能力のあり方についての論点がさまざまなところから投げかけられていますが、そこで話題にあがってくるのは「五感を通した経験」「人の欲望とその変化」「思いどおりいかない幸運」「分からないことの意味」といった、あまり「スマート」とはいえない……どちらかというと泥臭いキーワードです。
本書を通して見えてくるのは、こうした泥臭い知のカタチこそが、超スマート社会において有用性や希少価値をもつことになる可能性です。
養老氏は次のように述べています。「『ああすればこうなる』というふうに原因と結果がきれいに揃う思考だけで物事を考えていると――僕が前から言っている『脳化社会』がそうなんだけど――そういう世界観の中にいたら、人間はコンピュータには、かなわないんですよね。だから人の仕事がコンピュータに置き換えられるとか、AIに仕事を奪われるとかいう話になる。だけど僕から言わせれば、そういう原因と結果が必ずきれいに揃うという世界観で仕事をしている方が悪いんだよ(笑)」(18~19頁)。
ここで氏の言う「脳化社会」とは、都市を典型とする人間が意識的につくり出した社会のことです。意思を明確化してビジョンをつくり、自然や社会の姿をデザインして変えてていくという点では、公教育で強調されてきた主体性も、氏の言う「脳化社会」の一つの姿にほかなりません。
一方で脳のつくり出した意識の外にある存在には、われわれの身体や自然などがあげられます。氏は「AIが、理性中心社会からの脱却のために、いいターニングポイントを作ってくれればいいんですね。(中略)AI化で、野に遊び、田畑を耕しという、人間本来の暮らしに戻れる余白ができる」(59頁)と、人間の特権と思われていた「理性」というものを一度は相対化してみる必要を訴えています。
では、逆にAIには真似することのできない人間(や生物)に固有の知とは、一体どのような性質のものと考えられるのでしょうか?
実は本書のなかでも引用されている理学者の郡司ペギオ幸夫氏は、「天然知性」という概念を使って、この人間や生物に特有の知のあり方に一つの輪郭を与えています。次回はこの本を取り上げてみたいと思います。
(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)