見出し画像

#31 不寛容社会に抗う力~帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ』より~|学校づくりのスパイス

 「日本はなぜ、これほどまでに人の過ちや欠点を責め立てるケチくさい社会になってしまったのか?」――これは筆者がマスコミの芸能人報道や失言追及、不祥事のバッシング等を目にするたびにいつも感じていることです。

 もちろん筆者も含め、誰もが自分の考えていることはまともだと思っているし、人と衝突すれば相手を批判することもあります。けれども、自分と異なる考えを持つ者との対話の意思のないところに成立しているような「正義」は、人を傷つけるだけで何もよいことはありません。「自粛警察」はその典型です。

 こうした不寛容社会に対して教育はどのように応じていったらよいのか? 今回は精神科医であり、小説家でもある帚木蓬生氏の『ネガティブ・ケイパビリティ――答えの出ない事態に耐える力』(朝日新聞出版、2017年)にヒントを得て考えてみたいと思います。

帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ――答えの出ない事態に耐える力』朝日新聞出版

「分からない」に向かう力

 タイトルの「ネガティブ・ケイパビリティ」は19世紀の詩人キーツが生み出した概念であるそうです。直訳すると「負の才能」とでもなるでしょうか。キーツはシェイクスピアを読みふけり、そこに対象に同一化する受動的な力の存在を見出します。このキーツの言葉に着目したイギリスの精神科医ビオンが、1970年刊の『注意と解釈』という書籍の中でキーツの言葉を引用して精神科医の持つべき力として再定義したそうです。

 「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、いったいどんな能力でしょうか? 本文の中では副題の表現をもう少し噛み砕いてこれを次のように表現しています。「目の前の事象に、拙速に理解の帳尻を合わせず、宙ぶらりんの解決できない状況を、不思議だと思う気持ちを忘れずに、持ちこたえていく力」(84頁)。

 帚木氏によれば、ヒトにかぎらず脳という器官は「分かりたがる」性質を持つと言います。記憶を頼りに情報を記号化して処理するのが脳であり、これにより人間は情報の混乱から逃れることができると指摘します。そして「『分かる』ための究極の形がマニュアル化」(8頁)であり、事態への対応を画一化することで不安から逃れるのです。

 けれども実は「分からない」状態でいられる力こそが、人が幸福に生きていくのには欠かせないものである、ということをさまざまな例をあげながら帚木氏は論じます。終末期医療や精神科の診療で患者に寄り添う際の医療のあり方、人の葛藤の描く文学作品の創造、エラスムスに見られる宗教対立における妥協点の見出し方、ドイツのメルケル首相の避難民への対応のあり方などを引きながら、すぐには解決できない、さまざまな矛盾や葛藤を抱えながらも、それとともに生きる力の必要性を氏は例証して見せています。

 「ネガティブ・ケイパビリティ」とは分かりたがる脳の暴走に歯止めをかけて、分からないこととつき合いながら生きる力です。清濁併せ呑みながらもお腹を壊さないでいられるような力と言ってもいいかもしれません。不寛容社会の背景には、分かりやすさに安住して分からないことは切り捨ててしまう社会風潮があるのではないでしょうか?

学校教育と「ネガティブ・ケイパビリティ」

 本書では教育についても一章が設けられ論じられていますが、そこで現在の問題解決に傾斜した学校教育のあり方を氏は批判します。

 「問題解決が余りに強調されると、まず問題設定のときに、問題そのものを平易化してしまう傾向が生まれます。単純な問題なら解決も早いからです。このときの問題は、複雑さをそぎ落としているので、現実の世界から遊離したものになりがちです。(中略)教育とは、本来、もっと未知なるものへの畏怖を伴うものであるべきでしょう。この世で知られていることより、知られていないことの方が多いはずだからです」(186~187頁)。

 筆者の立場からすれば「現在の学校の置かれた環境では……」と言い訳をしたくもなりますが、確かに学習指導要領の「何ができるようになるか」を強調する方向は、下手をすると「できないこと」を子どもの生きる世界から遠ざけてしまうリスクがあります。

 一方、OECDの推進する〝Education 2030プロジェクト〟では「新たな価値を創造する力」「責任ある行動をとる力」と並んで「対立やジレンマを克服する力」がコンピテンシーとして強調されています。今後の激しく変動することが予想される世界では、すぐには理解できず解決の道筋が見えない課題ともつき合っていく力が必要なのではないでしょうか。

 さて、「ネガティブ・ケイパビリティ」をどのように高めることができるのかについては本書には直接的には記されていません。けれどもそれが生身の人間の持つ能力である以上、頭や筋肉と同様に、使うことで鍛えられると考えることは不合理ではないはずです。

 たとえば筆者は、おもしろい資料や著作を発見しても、すぐには使おうとはせずに、しばらくは寝かせておくようにしています。すぐに飲み込めないようなものは、なおさらそうです。気になったところに付箋を貼ることはありますが、整理し過ぎないようにノートはとりません。

 そのようにして自分の中に吸収しきれない異物を残しておくと、何かの拍子に浮かび上がってきたり、まったく異なった課題とつながって理解できるようになったりすることがままあります。この方法は新たな研究を構想したり、アイデアを要求される原稿を執筆したりするときにとても有効です。実はこの連載原稿もたいていはそうして書いています。

 これはあくまでも一つの例ですが、教員その他の学校関係者が社会の複雑さや矛盾から目をそらさず「ネガティブ・ケイパビリティ」を意識するならば、対立や葛藤、ジレンマや不可能性を教育活動のなかに取り込んでいく工夫は随所で可能であるはずです。

 本書にはこんな一節があります。「何もできそうもないところでも、何かをしていれば何とかなる。何もしなくとも、持ちこたえていけば何とかなる」(119頁)。素敵な言葉ではないでしょうか?

【Tips】
▼帚木氏は森田療法に通じているようですが、とても柔和なお人柄がよく出ています。

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?