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#22「禁断の問い」に向き合うとき~ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』より~|学校づくりのスパイス

 今回取り上げる著作はユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス――テクノロジーとサピエンスの未来』(河出書房新社、2018年)です。以前取り上げた同氏の『サピエンス全史』は人類の過去を扱った作品ですが、今回は歴史学的な理解を基盤に人間の未来を描いてみせた刺激的な作品です。

 タイトルを見て「ホモ・デウス」って何だ?と思った人も多いと思いますが、これは氏の造語で、神格化された人間のことです。氏は今後「人は神を目指すようになる」と予見します。なぜそのように考えられるのでしょうか? 詳細は書籍に直接当たっていただくとして、本書の主張をごくかいつまんで跡づけてみましょう。

神を目指す人類 

 本書の冒頭は朗報に始まります。人間が長年戦い続けてきた飢餓、疫病、戦争を人類は克服しつつあるというのです。もちろんこれらの災難により過去には多くの人間の命が奪われ、現在もなお多くの人に苦悩をもたらしている事実は認めたうえで、それでも徐々に脅威は薄れていることを例証しています。

 ネット上の記事などを見ていると、本書の発売以降に世界を揺るがしたコロナ禍を見ると、ハラリ氏の予見は外れたという見方もありますが、筆者はこれは的外れな指摘であると思います。2021年11月現在、コロナによる死者は500万人あまりを数えますが、それでも世界の人口から見たならば0.1%未満です。14世紀には全ヨーロッパで猛威をふるい、当時のヨーロッパの人口の3分の1から3分の2を失わせたといわれるペストとは比べるべくもありません。

 では、飢餓、疫病、戦争といった試練を克服することによって人々が安心して暮らせる毎日がもたらされるかというと、そうではありません。「何かを成し遂げたときに人間の心が見せるもっともありふれた反応は、充足ではなくさらなる渇望だ」(上巻32頁)と述べています。

 ではその渇望はどこに向かうのか? 氏は人類の渇望の行き先は次の3点であるとしています。一つ目は老化と死そのものの克服、二つ目は人々自身で感じる幸福感、そしてこれら二つの勢いを得て、三つ目に人間は超人化を望むようになり、「21世紀には、人類の第三の大プロジェクトは、創造と破壊を行う神のような力を獲得し、ホモ・サピエンスをホモ・デウスへとアップグレードするものになるだろう」(同64頁)と予見します。

 「健康で長生きして幸せで能力が高まるならば、けっこうなことじゃないか」と感じる人も多いはずですが、事はそう単純ではありません。こうした欲望に向かって人類が邁進するとき、いったい何が起こるか?という命題こそがこの本の主題です。 

 そしてそれは皮肉にも「人間至上主義革命」であるとされています。「人間至上主義革命」とは、「一人ひとりの人間が比類のない価値のある人間である」というヒューマニズムの徹底を意味するものではなく、反対にこの思想を捨てなければならなくなる、というものです。その骨子は次の3点にまとめられています(下巻132頁)。

①人間は経済的有用性と軍事的有用性を失い、そのため、経済と政治の制度は人間にあまり価値を付与しなくなる。
②経済と政治の制度は、集合的に見た場合の人間には依然として価値を見出すが、無類の個人としての人間には価値を認めなくなる。
③経済と政治の制度は、一部の人間にはそれぞれ無類の個人としての価値を見出すが、彼らは人口の大半ではなくアップグレードされた個人という新たなエリート層を構成することになる。 

 AI・ロボット・遺伝子操作等の技術革新により労働力や政治主体としての個々の人間の価値が低下する一方で、人類は新たな欲望と可能性を手にする。そしてそのときには、人々が一律にこの幸福を享受することにはならず、新たなエリート層が独占的にこの権利を手にすることになる、というのです。

ホモデウス


ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス――テクノロジーとサピエンスの未来』河出書房新社

禁断の問い

 冷静に考えるならば「長寿命への希求」「幸福(well-being)の追求」「卓越性の獲得」そして「合理的・合法的な階層化」……。これら一つひとつのパーツ自体は、すでに現代の社会システムや、そしてもちろん公教育の仕組みのなかにも分かちがたく組み込まれています。

 そして今日の公教育を支えるヒューマニズムが一種の現代的信仰であることもまた、否定することは困難です。

 けれども、たとえ信仰ではあっても、それによって実際に支えられてきたのが学校教育です。そしてこの信仰が暴かれるとき、その試練をどう乗り越えたらよいのか、という答えを私たちはまだ持ってはいないのではないでしょうか?

 筆者はこの本を読んでいて映画『教誨師』の一幕を思い出しました。俳優の大杉漣さんの最後の出演作となったこの映画の大半は、拘置所の面会室の中で交わされる6人の死刑囚と大杉さんの演じる佐伯という教誨師との会話だけで成り立っています。 

 映画のなかにこんな場面があります。死刑囚の一人である17人の人を殺めた高宮という青年に教誨師の佐伯は自分の罪と向き合うことを勧めますが、高宮は「その場の勢いで人を殺して後で後悔するバカとは違う」と開き直ります。それでも佐伯は青年を戒めようとします。

 以下、二人の会話です。
高宮:牧師さんベジタリアン?
佐伯:え? いえ、違いますが。
高宮:牛とか豚食べてんでしょ。どんな命だって生きる権利があるのに。
佐伯:それは確かにそうかもしれませんが。
高宮:じゃあなんでイルカはダメなの?
―――(中略)―――
佐伯:そうですね。イルカは知能が高いって言いますし……。
高宮:ほら牧師さんも僕と同じ考えだ。知能の低い豚や牛は殺してよくて知能の高いイルカはダメなんでしょ。俺もそう思ったから知能の低いやつを選んで殺したんだ!
佐伯:動物と人間は違いますよ。
高宮:どんな命だって生きる権利があるんじゃないの?
佐伯:屁理屈です。どんな人であろうと奪われていい命というのはないんです!
高宮:……じゃ死刑はどうなの?

 佐伯はその場では下を向いて何も言い返せなくなってしまいましたが、その後、苦悶の末に自分なりの答えにはたどりつきます。

 もし皆さんなら、こんな問いにはどのように答えるでしょうか?

【Tips】
▼本書のエッセンスを自身で語った動画はこちら。

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。


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