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#44「空白」の力~ピーター・レイノルズ『てん』より~|学校づくりのスパイス

 今回はピーター・レイノルズ『てん』(あすなろ書房、2004年)という絵本を手がかりに、子どもの成長と「空白」の意味について考えてみたいと思います。翻訳は同じく絵本作家の谷川俊太郎さんが手がけています。

「額縁」の効果

 この本の主人公は「ワシテ」という女の子です。ワシテは絵を描くのが苦手で絵画の時間に何も描けないでいます。

 そんなワシテに先生は「なにかしるしをつけてみて」と言葉をかけます。するとワシテはマーカーを紙に押しつけて「これで どう!」と応じます。先生は「さあ サインして」とワシテにサインを求めます。

 ところが次の週、その点を付けた紙が額縁に入れられて教室に飾られているのをワシテは目にします。

 展示を目にしたワシテは「ふーん! もっと いい てんだって わたしかけるわ!」と言って、色のついた点や大きな点、白抜きの点など、さまざまな点のデザインを創作し始めます。そしてついにはワシテの点のコレクションは学校の展覧会で評判になります。

 するとそこに小さな男の子がやってきてワシテを見上げ、自分はまっすぐに線も描けないことを告白します。それを聞いたワシテは男の子に白い紙を渡して線を描いてもらってこう告げます。「おねがい……サインして」と。

 この小さな話はさまざまな角度から読み解くことができますが、先生の働きかけのかたちとして、言葉でほめるのではなく、「額に入れて飾った」というところにこのストーリーの醍醐味があるのではないかと筆者は考えます。

 それはコメントをよせてほめるのとは違います。みなさんもちょっとその情景を想像してみてください……。

 画用紙に書かれた点を人が見るとき視線は黒い点の部分に集まります。ほめてみたところで点は点です。これに対して額に入れて眺めてみるならば、際立つのはむしろ空白の部分であるはずです。ワシテはきっとこの空白を感じることで、点がもつさまざまな可能性について想像力を働かせてみたのではないでしょうか?

 子どもの活動や作品をほめて元気づけながら動機づけることは大切でしょう。けれども、それは同時に子どもの思考や意欲を特定の方向に限定し狭めていくことでもあります。たとえば「この絵は本物そっくりだね」とほめれば、それは同時に子どもにとって「写実的な表現こそが価値あるもの」という評価が下されたことを意味し、以降は抽象的な表現を控えるようになるかもしれません。

 とすれば、できるだけ余計な色をつけずに子どものあり方を受け入れることができれば、子どもの成長の方向性はより自由になります。その究極のかたちが額縁によって「空白」を称えることだったのではないでしょうか? ちょっと大げさに聞こえるかもしれませんが、

 「人をして未知の領域へと誘う」のが空白の力です。

 この「空白」という考え方こそが、とくに今後さらに強調されていくことが想定される創造性の教育にとっては欠かすことのできない視点であり、また現在の教育論議のなかでも最も欠けているところなのではないかと筆者は考えています。

ピーター・レイノルズ作、谷川俊太郎訳『てん』あすなろ書房

「空白」という教育資源

 「教育」とは第一義的には社会的に価値づけられた方向に対象(児童・生徒)の変化を促していく働きかけにほかなりません。日本では学習指導要領によってその内容が定義されています。だから「問いに対して望まれる解答を出す」というところに、教育活動全体のかなりの部分が占有されることは、ある意味必然です。

 けれどもこのプロセスは今後どんどんAIに取って代わられていくでしょう。そうした今後の社会変化が意識されているからこそ、昨年まとめられた中教審答申の「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して」のなかでも、“「正解主義」や「同調圧力」への偏りからの脱却”が謳われています。

 しかしこのことは、そう容易いことではないと筆者は考えています。学校教育には評価がつきもので、評価のためには「望ましさの尺度」が必要となるからです。このこと自体は課題をオープンエンドにしたりルーブリックを使ったりしたところで変わりません。

 ではどうしたら、人は「正解主義」の呪縛から解放されうるのでしょうか? これを考えるときにこそ必要となるのが、この本の「空白」という発想であると筆者は考えています。

 この話のなかでワシテは、自分の描いた点を拡大して2次元にしてみたり、色という概念を持ち込んだり、対象と背景と入れ替えたりして、点の既成概念を解体して、新しい点の発想を生み出していきました。創造のプロセスにはこのように「既存の組み合わせから解き放たれる」というプロセスが不可欠です。その機会を生むのが「望ましさ」の圧力から自由になる時間・空間としての「空白」です。

 もっとも、空白をつくるということは、子どもの意思に任せて好きな活動をさせておけばよいというのとは違います。黙っていても、また考えないようにしていたとしても、私たちの心は何かを追ってしまいます。だからいい塩梅で空白をつくろうとする意図的な努力は、やはり必要なのではないかと筆者は考えています。スマホをはじめ私たちの脳が、空白の侵食を目論むメディアの脅威に常時さらされている今日であれば尚更のことです。

 近年の脳科学研究でも、ぼんやりした状態の脳が行っている神経活動であるデフォルト・モード・ネットワーク(DMN)の働きが「創造性」と深く関係していることが指摘されています。最近注目されているマインドフルネス瞑想なども、生活に空白を創る一つの試みであると言えるでしょう。

 せわしない日常をたまには括弧に入れて、額縁で囲われた「空白」をつくってみることは、子どもの学校生活においても、また私たち自身の生活においても、ときには必要なのではないでしょうか?

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。

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