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#34 動物で何が悪い⁉~ 栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』より~|学校づくりのスパイス

 今回はアナーキズムの研究者、栗原康氏の『死してなお踊れ――一遍上人伝』(河出書房新社、2017年)を取り上げます。「わたしはセックスが好きだ」で始まるこの本は、空想の赴くままに古事を描いてみせた歴史小説でも史実を客観的に綴つづったノンフィクションでもありません。同書は史実を手がかりに、筆者自ら一遍上人の世界に可能なかぎり入り込んでみて、主観的な世界からその生涯を描き出そうとした独特のスタイルの作品です。

躍動する仏教

 仏教というと、どこか静的なイメージがあります。座禅や瞑想にふけったり経文を唱えたりしながら執着を離れ、究極の心の平安である涅槃に至ることを目指す……門外漢である筆者の持つ仏教の印象はこんなところです。けれども、この本で描かれている一遍上人の踊り念仏の光景は、そうした「静かな仏教」とは対照的に動物的な姿をしています。

 「踊り念仏がすごいのは、この身体感覚をいったんぶちこわしているということだ。手をひらひらとまわせ、痙攣がおこるほど、あたまや肩をはげしくゆさぶり、おもいきり地面をけりとばして、これでもか、これでもかといわんばかりに、ピョンピョンとびはねる。しかも何日もぶっつづけて、体力の限界をこえておどりまくっているわけだから、人によっては失神してぶったおれたり、それこそ死んでしまったりするわけだ」(123頁)。

 興味深いのは一遍がこうした踊り念仏にたどり着いた心の遍歴です。それは当時勢力をもっていた既成の組織化された宗教や社会制度と対決し、仏教の戒律や規範も含めて、ひたすらに「捨てていく」プロセスであったようです。

 その想いを栗原氏は次のように解釈します。「とにかく人間社会というのは善悪優劣の尺度を立ち上げてしまうものだ。ほんとうはそんなもの、はじめから武力にたけていたり、金持ちだったり、あたまがよかったりする連中が、自分たちの都合のよいように勝手につくってしまっただけなのに、それにしたがって必死に生きていると、いつのまにかそのなかで評価されなくちゃいけないと思わされてしまうのだ。でも一遍はそれではダメだというのである。いちどこの社会の地位だの、名誉だの、ひとをはかりにかける物差しなんて捨ててしまおう。(中略)感謝なんてされなくてもいい、教団の役になんてたたなくてもいい、それで仏に救われなくてもいい。ただ、人にやってあげたいとおもったことをやってみる」(58~59頁)。

 では、それがなぜ「踊り念仏」という独特のかたちをとるようになっていったのでしょうか?

 その心は「念仏が念仏をもうすなり」という一遍の言葉に集約されるようです。「あたまで考えているだけじゃわかりにくいかもしれないが、じっさいにやってみるとすぐにわかる。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。ひたすら高速でとなえまくっていると、その声がじぶんなのか、そうじゃないのかもわからなくなってしまう」(80~81頁)。

 そして人数が多くなって踊りが加わると、その効果は倍増するのだといいます。たくさんの人々が念仏を唱えて踊り狂う「集団的沸騰」によって、社会秩序に定義された自分を捨てて我執を離れていく、というところに踊り念仏の本質があるようです。時の鎌倉幕府からは一遍上人の思想は危険視されたようですが、こんなロックな生き方をしている僧侶を目の当たりにしたら、当時の人々が心酔したであろうことは想像にかたくありません。

栗原康『死してなお踊れ――一遍上人伝』河出書房新社

動物としての人間と「教育」

 当たり前ですが、子どもも大人も、親や教員や児童・生徒である前に人間であり、人間である前に動物です。一方で教育という営みは、ある意味で人を動物的な状態から引き離そうとする試みにほかなりません。

 歴史学者のミシェル・フーコーは近代学校の誕生を監獄になぞらえて捉えていますが、規律訓練を通して産業社会の規範を身体化することが近代以降の学校の特徴です。だから学校という社会では一般に、登校時のあいさつにはじまり、朝礼や整列、時間厳守、挙手発言、服装に至るまで、一定の「型」に従って行動することが奨励される一方で、たとえば動物性の制御に失敗した教員には容赦のない非難が世間から浴びせられます。

 これは何も過去の話ではありません。かたちこそ違え、動物性否定の思想は現代の学校教育でも至るところに見つけることができます。一例を挙げましょう。

 教育基本法の1条には「人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として……」とありますが、教育基本法の制定にあたり「人格の完成」という表現が採用されたのは起草当時、文部大臣の座にあった田中耕太郎氏の影響によるものです。

 カトリックの思想的背景を持つ田中氏は「人格の完成」とは「自己の中にある動物的なものを克服して、神性に接近する使命を担っていることを内容とする」ことを意味するものであったことが、退任後に記された著書『教育基本法の理論』(有斐閣、1961年)のなかで開陳されています。そこには人間の動物性を否定する「原罪」の考え方が色濃く反映されています。

 産業社会の規範の身体化を「人格の完成」に読み替えて理想化することで、学校は今日の姿にまでうまく発展して来ることができました。けれども社会のあり方が大きく転換しつつある今日、この置き換えがいつまでも説得力を持ち続けるとはかぎりません。筆者も実はそうですが、教員も時にこうした学校の論理に疲れることもあるのではないでしょうか。

 私たちはセックスの賜としてこの世に生を受け、動物を殺めることで日々の食欲を満たし、糞尿を垂れ流しながら死んでいくことになるかもしれません。欲望は自然に生まれ、快楽に逃げたくもなるし、カッとなって怒ることもあるはずです。人として生きているかぎり、「動物的なものを克服」することなど、できるはずありません。

 動物としての人の姿を一度は受け入れてみることなしに、人を愛することは果たして可能なのでしょうか。生きることの美しさは動物性を克服した先にあるのではなく動物性のなかにこそある。筆者はこの考え方に共感します。皆さんはどうでしょうか?

(本稿は2018年度より雑誌『教職研修』誌上で連載された、同名の連載記事を一部加筆修正したものです。)

【著者経歴】
武井敦史(たけい・あつし)
 静岡大学教職大学院教授。仕事では主に現職教員のリーダーシップ開発に取り組む。博士(教育学)。専門は教育経営学。日本学術研究会特別研究員、兵庫教育大学准教授、米国サンディエゴ大学、リッチモンド大学客員研究員等を経て現職。著書に『「ならず者」が学校を変える――場を活かした学校づくりのすすめ』(教育開発研究所、2017年)、『地場教育――此処から未来へ』(静岡新聞社、2021年)ほか多数。月刊『教職研修』では2013年度より連載を継続中。

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