「 満ちと乾きを自覚する 」

いつでも愛溢れる人でありたいと思う。
隣にいてくれる大切な人に、色んな縁が重なって巡り合えた身近な人たちに、目一杯愛を伝えたい。いつでも私はGIVERでありたい。
 
私の軸にはそんな思いが強く根付く。
 
「機嫌がいいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、幸福は常に外に現れる。
歌わぬ詩人というものは、真の詩人でないように、
単に内面であるというような幸福は真のこうふくではないであろう。
幸福は表現的なものである。
鳥が歌うがごとく、おのずから外に現れて他の人も幸福にするものが真の幸福である。

 
これも手帖を新しくするたびに毎回何度も記している言葉。
本当に幸福であるということは、自分一人の中だけで成り立つものではなく、周りにも影響を及ぼし周りを巻き込むものだ。本当の幸せは自分だけで独り占めすることのできない大きなものだとこの詩が教えてくれた。
いつでも幸福でありたい。機嫌よく、丁寧で、親切で、寛大でありたい。本当にそう思う。
どうしたらいいのだろうか、考える。
 
そのために私は「余裕」が必要であると思う。大きな力があるのではないだろうか。
 
まず自分の心が満たされていないと他者を満たすことは不可だ。
それぞれの心に器があるとして、どれほど他者の器を満たしてあげたいと強く望んでも、自分の器の中が枯れていたら何も差し出せるものはない。
 
己の器を満たす術を心得ておく。
私は多くの条件を必要とせず、少なく小さな条件で満たされる心を有していたいと思う。
自分の最低限を常に問い、軽やかに最低限で満たされる自分でいること。
 
これは絶対に譲れないと強く思うこと以外は軽やかに手放し譲れる人でありたいと思っている。
何度も点検し考えていく。
私以上に必要としている人はいないのだろうか、誰かの夢を奪ってしまってはいないだろうか、そこまでして自分の手元に置いておきたいもの物事なのだろうか。
考えれば考えるほど、絶対に譲れないものってほとんどないような気がしてくる。
 
数年前、ヨガの資格を取るために一カ月石垣島に合宿に行った。
自分のスペースは一畳程度、軽やかな食事を1日2回、周りにはコンビニも何もない、ヨガ漬けの1カ月。その時、深く自分と向き合った。
 
当時、自分でも驚くほどに自分が満たされていることに気づいた。
ああこんなにも簡単に満たされるのかと驚いた。
まさに足るを知った。
 
あれも欲しいこれも欲しい、あれを持っていないから満たされない、と思っていたけれど、
生活を引いて引いて最低限にしたとき私の中で初めて「満ちる」を鮮明に感じた。
そして最後に最低限手元に残っているのは、いつも私の傍にあったものだった。
 
静かな一人の場所と時間。
美しく心ときめく言葉と思想を宿す、本。
圧倒される眩しい、自然。
軽やかな運動とヘルシーな食事。
 
それらはいつでも自分の日常に寄り添い続けていたものだった。
 
些細な事柄で満たされる心を持ち、心を満たす工夫を凝らした日々を自分に用意しておく。
 
自分を満たす術を自分自身できちんと理解しておくこと。
 
どれほど忙しい日々でもこまめに節を作り、一人の時間をつくること。
静かな場所に身を置くこと。
本を読み美しく素敵な言葉や思考に触れること。
太陽の光を浴び、風に吹かれ、自然に触れること。
スマホから距離を置くこと。
大好きな人にぎゅっとはぐしてもらうこと。
水分と野菜をたっぷりとること。
 
どんなことをすれば満たされるのか、満たされるとそのような感覚なのか。
欠き始めたとき心はどのような予兆を見せるのか、どうすれば最速で軌道修正できるのか。
 
心に乾きが訪れると、私は呼吸が上手くできなくなる感覚。
自分以外存在が必要以上に気になり始め、自己否定が始まってしまう。
そうなると危険のサイン。
 
自分で知っておく。
心乱され、揺れ、荒んだ時にもそれを静かに見守り俯瞰する自分を有しておく。
冷静に対処、コントロールできる自分でありたい。
 
自分を理解するためには大きく乱れることも大切な材料になる。
自分の知らない面なんて山ほどある。
初めての経験はとても怖いものだけど、新たな自分の一面に出会える一つのきっかけとなる。
変わらない環境で、安心できる居場所の中で、自己を深く理解していくのは限界があるのではないかと思う。
色々な環境、時には苦しみを伴う場所で身を置くことで新たな自己が顔を出すのではないだろうか。
 
自分の心の乾きを知ること。満ちを知ること。
心の状態を操ることはできなくても、状態を正しく把握できるよう訓練していたい。
いつでも満ちた心であれるように、そして、いつでも周りに溢せる人であるように。

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