ル・自転車で池袋にくるジオ(ウサギノヴィッチ)
どうも、ウサギノヴィッチです。
人は死の間際になってなにを考えるのか? 僕はきっとなにも考える隙もないまま死んでいくと思います。もし、健康に死んでいくとしたなら、なにを思うのだろうか? 今やっている同人活動のことは思い出すのだろうか? それよりも昔の嫌だった子供の頃も思い出すのだろうか? 未来のことだからわからない。でも、人は年を取り死に向かっていく。そして、それが本当に近づいたときに人はなにを思うのか? 今回読んだ作品で、僕は考えさせられた。
ル・クレジオの『孤独という名のホテル』を読んだ。年老いた女性が、あるホテルの一室で過去の豪華な日々を思い出し、死と面と向かう。
死はだれにでもやってくる逃げられないものだ。それをどう解釈するかだ。
過去に読んだ小説だと、ヘミングウェイの『殺し屋』だと、殺されることに対して覚悟を決めていて、逃げないでいること。モームの『サナトリウム』では、生と死が同居するサナトリウムで、死から逃れるように結婚にするカップル。
それぞれ死に対して価値があったし、考えがあった。
それでも、やっぱり死からは逃れることはできない。生きとしいけるものの宿命なのだ。
だから、もし、自分に死が近づいてきたらどうするべきなのだろうか?
なにを考えるのだろうか?
「終活」という言葉がある。自分が生きているうちに自分の人生であったことを片付ける、区切りを付ける活動のことだ。
もしかしたら、ニュアンスとしたら間違っているかもしれないが、自分が生きてきたことを振り返ることは間違えないだろう。
僕は怖くてできない。
まだ、そんな年じゃないからそんなことをやる必要はないからいいのかもしれないが、
やっぱり過去が怖いし、死という概念が怖い。
死は無だ。
何もなくなるという事だ。その先になにがあるのかわからないことが怖い。子供みたいなことをいうかもしれないが、それが恐ろしくてたまらない。
時々考える。
自分が死んだらどうなるか。
僕はあまり体が丈夫ではないので、長生きをしないと思っている。ましてや、最近は物騒なニュースが沢山ある。その事件事故に巻き込まれたら、どうなるのだろうか。
たとえば、僕をネットや同人活動でしか知らない人間からしてみれば、僕の死は伝わらない。人づてに「ウサギノヴィッチが死んだ」という情報が入るかもしれないが、それも結構遅くなってからだと思うし、サークルのメンバーにも、同じくらいのスピードで伝わると思う。
僕とメンバーを繋いでいるのは、スマートフォンだけであって、それが頻繁に連絡しているわけではないので、僕から連絡がないのはごく自然であり、それがただ長かったら少しおかしいかなと思う程度だと思うし、同人活動を引っ張って行ってるのになんにも連絡がないのは変だなと思うくらいだと思う。
話が逸れたが「死」というものは、身近なものに潜んでいながらも、遠くで必ず待っている厄介なものだ。
世間を楽しそうに笑顔で過ごしている人たちには、もしかしたら、今日の僕のノートは関係のないことない事なのかもしれないで、普通はそうなのかもしれない。
『サナトリウム』の回で書いたように、死は非現実的なものなのだ。
ただし、それは突然やってくる。そんな準備をしている人はいないと思うが、テレビやネットニュースを見ながら自分じゃなくてよかったと思うことを少しは思っている方が弱虫でいいのではないだろうか。
ただし、明日は我が身なのかもしれないが。
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