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イマイチハマらないパズルのピース(ウサギノヴィッチ)

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 小説を読んでいて、いまいち理解出来ないところがあって、そこを埋めようとしても時代背景だったり、その時の風習、習慣、考え方や思想というのにぶつかるときがあります。特に海外の小説には多いのではないのでしょうか。
 今回読んだ短編は、フォークナーの『納屋は燃える』という短編です。
 フォークナーなアメリカ人で作品の時代背景的に、黒人白人の問題を普通に出してきます。そのときの日常を知らないと言い切ってしまうのは、あれなのですが、でも、ニュアンスとして僕には伝わらないので、モヤモヤします。
 話は、納屋に放火した兄によって土地を追い出された家族、新しい土地でまた一から生活をするが、その兄が主人と反りが合わなくて結局は最後にはまた納屋を焼いてしまうという話だ。
 僕のあらすじは多分正確ではない。もっとドラマティック部分があるはずだ。にも拘わらず、僕がこういうことしか書けないとは、小説の世界に入れなかったからだろう。
 
 反りが合わない人に対して自分もいるが、その人とはコミュニケーションを閉ざしてしまっている。それを仕事でしまっているので、本当は良くないことなのは、わかっているのだが、やってしまっている。
 この人はタバコを吸う人で、自分もタバコを吸うのだが、喫煙所で会っても挨拶はしないし、目も合わせない。もう嫌われていると言っていいレベルなのかもしれない。
 僕は人見知りだし、と言っても今の仕事に就いてから四ヶ月が経とうとしてる、自分から積極的に話しかけるのはちと勇気がいる。だから、緊張状態になっている。
 
 向こうの考えていることが分からない。
 
 ということは、

 自分の考えていることが分からない
 
 という言葉に換言出来るのだが、とにかく、話しかけるのが怖い。「いい天気ですね」なんて言葉をかけるのもアホくさいし、喫煙所に窓なんてないし、だから、会話が出来ないという迷宮にハマっていくのである。
 でも、もし、万が一、会話が出来て話が合うようだったらめっけもんだし、会社の中の人間関係がスムーズになっていく。 
 僕はどうやらおしゃべりが好きなのかもしれない。会話をすることによって人に受け入れられ、自分のスペースを拡大していくということを、今の会社では成功しているようだ。
 
 話が逸れに逸れたが、話をちょっと別の方向に展開して、知らない時代背景等をどうやって自分と作者の中で了解し、意思疎通をしていくのか。
 なんだかフォークナーは上手くいかなかった。情報量が多いように感じたし、時代が自分の想像できる時代ではなかったと思う。
 以前、「キリスト教を信仰してい文学を読むのなら、キリスト教を勉強した方がいい」と極論に近いこと言われて、それを本気で取り組もうとしたときがあった。しかし、僕のお得意の勉強は嫌いですっていうのが発動して、上手くはいかなかった。
 僕の高校のときの歴史の専攻は世界史で南北戦争は知っている。ただ、そのときは文化がどうでこうでというのは、もちろん勉強外の話だ。だから、フォークナーの小説の世界観が上手く馴染めなかったというのが敗因だと思ってしまう。
 普段の外国の読書なら、「なり」でなんとかなってしまうところなのに、フォークナーの作品はそれが出来なかった。ここ数回出てきている僕のイマジネーションの乏しさが、それを露呈しているのではないだろうか。

 話が変わるが、最近のレビューは形が変わって来ているような気がする。
 前二回は僕と小説論についての話が続いた。今回も、若干その匂いを漂わせている。
 以前だったら、もっと僕が身近に感じたことを前口上で述べて作品の紹介をし、それを踏まえた上で、自分のことを語っていた。
 だが、最近は抽象的な話が多く、ライトなものではないような気がする。
 それでも、僕の小説に対する熱意というものは変わってない。
 これからも、書き方は変わっていくかもしれないが、小説への愛を語っていきたいと思います。
 よろしくお願いします。
 それでは。

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