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戦争のあとで(ウサギノヴィッチ)
どうも、ウサギノヴィッチです。
令和になってから数日経ちますが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?
今回読んだのは、小島信夫の『アメリカン・スクール』なのですが、いかにも昭和、戦後直後というような感じのお話で、元号が変わった今お話するのは、なんだか自分ではくすぐったような、でも、ある種今だからこそこの作品なのかなというのもあるかなと思っています。
あらすじは、戦後直後。アメリカン・スクールに学校見学にいく教師達の話です。そこは日本でありながら、異国のようで、教師達は窮屈な思いをさせられます。結局、その思いは最後まで晴らせずに最後まで異国の国に迷い混んだかのような哀れな状態なまま終わってしまいます。
この作品のネックになっているのは、日本人がアメリカ人に何かしらのコンプレックスみたいなものを抱いていることです。それが戦後日本を象徴している。一人の教師はアメリカ人に迎合する、一人は反発する、一人はアメリカを受け入れようとする。それは、戦後当時の日本の有り様だったのではないだろうか。
アメリカに支配されることに対して、反対するもの、それを活かして上に登ろうとするもの、受け入れるもの。
英語が日本の公用語になることを恐れていたのかもしれないが、結局は、そうならなかった事実もある。
僕が生まれてから戦争というものはなかった。だから、戦争の悲惨さを僕は知らない。ただ、フィクションの中で当時の状況を知ることはできる。だが、それは客観的な事実なだけで、本当の戦争の悲惨さというのは、体験してみないとわからないし、戦争を体験したいとは思っていない。
ふと思ったので、ここに書くが、坂口安吾の戦争に関する小説は、とてもドライに描かれている。(『白痴』の爆撃のシーンとか)この『アメリカン・スクール』も戦後のアメリカに占領下のことをドライに書いている。二つの作品に時代の差はあるが、戦争についてになるとどこかクールでドライに書かなければならないのかもしれない。大岡昇平の『野火』はめちゃくちゃウェットに戦争のことについて書かれているが、あれは現代との二項対立によって書かれているため、やっぱり、あの作品自体はドライなものになっている。
と、ここまで書いておきながら、僕は戦争小説はあまり好きではない。
なぜなら、アンチクライマックスだからだ。偏見かもしれないが、「日本は戦争に負ける」という前提を持って小説を読まなければならないというのが、気が重くてしょうがない。だから、戦争小説は進んで読みたくないし、読めない。
戦争が及ぼす悲惨さは、計り知れない。それは、創作の世界にも多大な影響を及ぼす。つくり手を矯正したりする。つまりは検閲だ。もし、また次の戦争が起こったとき、それは、ネットに漂う小説でさえ、削除されるだろう。つくり手はどんどん減っていき、それでも我を通す作家はアナーキーになる。戦争は、人の想像力を奪っていく。
そんなことにならないように僕たち平民は祈ることしかできないのがもどかしいのだが、それしか出来ない。あとは、選挙だが、それは個人の自由意志だ。僕がこのノートに書いたところで、どこの政党のだれに投票しろとは強制的にいうことはできない。
でも、僕はこのノートを読んでいる人が同じような考えであることを望んでいる。
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