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作家の言い訳と現状の楽しみ(ウサギノヴィッチ)

 昨日に引き続き「N.G.T」に載っている短編を紹介しようと思う。
 
 今日は『Dancing with Hyottoko』。この作品は、ウサギノヴィッチ。そう、僕が書いたものだ。
 あらすじは、高校生が学校を休んで不思議な体験をするという至ってシンプルな話だ。
 題材としての曲は「鉄風鋭くなって」だ。
 
 言い訳しか書けないが、このとき僕は絶不調にものが書けなかった。だから、この作品は歪なものになっている。
 改行は多いし、とにかく物語を転がすことに急いでるいるようなかんじだった。冗談だと思われているが泣きながら書いた。
 それに、僕の中では実りはなかった。
 人から「よかったです」と言われてもイマイチピンとこない。
 
 開き直ってしまうと、この作品にテーマというのは存在しない。ただ思いついたことを詰め込んだおもちゃ箱のような話だ。
 だからかもしれない、原動力みたいなのがないからそれほど思い入れがない。
 それと僕は曲の歌詞に引っ張られて作品を書いたので、主軸が曲全体になっているのかもしらない。
 今思い返しても、これ以上のものを思いつくことはできない。つまりはこれが最善ということになってしまうのかもしれない。でも、どっかで自分の小説書くためのボルテージが振り切れてない。絶不調というのもあるのかもしれないが、なんかもやもやする。
 これを読んでいる人はさらにもやもやするかもしれない。
 でも、『錯覚の春夏冬』が常態なら、これは異常なのだ。作風としては『錯覚』の方が異常なのだが、『Dancing』の方がウサギノヴィッチらしくないと言ったら分かりやすいかもしれない。
 それが小説を書くという原動力がないということになると言うのではないだろうか。
 
 これを書くときにはいくつか書きたいシーンみたいなイメージは存在していた。ただ、それを言語化することが出来なかった。出来たものが小説化されていると言っても過言ではない。
 僕の小説の書き方は、思いついたシーンを点として、その散らばった点を線で結びつけて行くやり方だ。時には大回りをすることもあるし、点を通過しないことだってある。
 昔はプロットというものが存在していたが、今は書かなくなった。代わりに設定資料集みたいなものをスマホのメモ帳に書いている。そこから書きたいものを抽出して、実際に書いていく。だれから教わったものではなく自分のやり方だ。昔、小説の教本に「小説は書きたくなるときがいずれ来るからそれまではじっと我慢だ」みたいなことを書いてたことを覚えている。
 今は本当は小説を書きたくてたまらないでも、我慢してネタを集めている時期だと思っている。それに今は公募もないからゆっくりやろうとも思ってる。
 前に勉強する読書は苦手だと書いたが、案外取っ掛かりがあれば読めるんだと思った。それはまだタネの状態なので、どうなるか分からない。早く書きたい気もするし、勉強もしたいと思っている。
 こんなにも読書が面白いと思えているのは、久しぶりだと思う。色んなジャンルの本を横断的に読んでそれをレビューしていく。それは、今までの僕では考えられなかった。でも、今は実際出来ていることに驚いている。自分ば小心者で人の書いた小説が作者の書いた通りの読み方ではないといけないと思っていた。しかし、自分の読み方があっていいのだとこのnoteで気づけた。しかも、真正面から「批評」とか肩肘張らずにレビューというか、ほとんど作品の内容を自分の中に取り込んで自分の事として書いている。読者の皆さんはどう思っているか分からないが、これはものすごく楽しい作業だ。
 それが一ミリでも伝わればいいと思っている。
 そして、僕のナンバガ小説は気が向いたら買って読んでください。

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