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容姿と性格と文体のギャップ(ウサギノヴィッチ)

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 毎日お付き合いありがとうございます。少しはみなさんの読書の糧になったりしているのかなとか、なにかしら心に残るものを書けているのかしらと思っています。
 
 読書というものは決して悪いことではない。本を読んで得た知識はきっといつかなにかしらの役には立つと思うし、有り体の言い方だが、読者の心を豊かにする。
 本好きに悪い人はいない。これも真なりだと思う。読書好きの悪いってどんな人間だろうかと想像してみますが、刑務所に入っているヤクザが落語の文庫を一生懸命に読んでいることしか考えられませんでした。
 
 下ネタの話になりますが、AVのタイトルでおふざけでパクリのタイトルを付けたものってある種の知性を感じます。この人は、この本や映画にインスパイアされてタイトルを付けたんたんだと感慨してしまいます。中身まで見ようとは思いませんが、見ていて「おぉ」と心の中で呟いてしまいます。繰り返しの文章になってしまいますが、この人は「知識」がある人だと思ってしまいます。今でこそパクリのタイトルは無くなって来てますが、90年代は多かったように記憶しています。
 
 高橋源一郎の「ミヤザワケンジ グレーテストヒッツ」の中にある『注文の多い料理店』では、読書をしないADが主人公で、監督からAVの世界観を掴むために本を読めといわれます。そこから本屋に走ります。最初はエッセイ本から始まり段々難しい本になっていく。本屋に行く動機も不順で、そこに可愛い店員さんがいるから。ただ、対応するのはいつもブスで煩わしいと思ってしまう。
 ある日仲良くなるチャンスがあってそれから.......。
 この話は小話みたいなものなのでオチまでは言えない。でも、ここまで書いてどこが『注文の多い料理店』なの? と思うかも
しれないがそれは大丈夫。最後まで読めば意味が分かる。
 この物語に登場するADは純粋だと思う。監督に本を読めと言われて本を読んで、最終的には監督の言っているイメージが掴めてしまうのだからら。
 読書はやっぱり強いものだと思った。
 
 ところで高橋源一郎という作家は僕にとっては謎の多い作家だ。あんな顔や容姿なのに、書いている小説は超過激で、読んでいる方がパワーが必要というか、免疫みたいなものが必要だと思う。六十八のおじいちゃんがAVについてかいたり、過激な下ネタを書いているのだ。それだけ現役なのかもしれないが、そんな人が文壇で驚異的なパワーで荒ぶっているというのはなんとも凄い世界だと思ってしまう。しかも、写真を見ると大人しそうな感じの小説を書きそう風貌なのに、あんなにも下品な小説を書いてしまうなんて、ギャップにも程がある。人は見かけによらないとはこのことだ。自然主義的な小説を書いていそうな、大人しそうな人っぽいし、喋り方もそんなに狂っているようなことはないのに、いざ原稿用紙に言葉を並べて見るとあぁなってしまうのかもしれない。つまり、小説には狂気を孕んでないと書けないのかもしれない。
 
 人には話し言葉によってキャラクターが決められるところがあるが、書き言葉でもキャラクターが決められるのかもしれない。それは「文体」という言葉に換言させられるが。その文体は人は真似ることはできることは出来ても、それはコピーであってオリジナルには勝てない。
 僕は人から「うさぎ節」と言われる文体で括られるが、それからはみ出たいと思ってしまう。それは自分が万能な人間でありたいと思っているからだし、「うさぎ節」という言葉をあまり良くは思っていない。揶揄されているように聞こえる。相手はそんなこと言ってないのだろうが。
 そして、僕の文体は、恥ずかしい話だが、どちらかと言えば、村上春樹が混じっているような気がすると自己分析する。それは小説を書き始めたころに読んでたときにもっとも影響受けたのが彼だからだ。
 芸術はマネから始まると言われるが、結局、スタートがなんであれ、小説を書く人は小説家の文体を真似て書き始める。まったくのオリジナルの文体で書き始めた小説家なんて聞いたことがない。それは天才か、小説をまったく知らない純粋な人だと思う。

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