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祈りとは愛だ!!

 どうも、ウサギノヴィッチです。
 
 いきなりですが、神様というのは存在するのでしょうか?
 我々、日本人は神様と仏様を一緒に拝んでいる人種です。さらにクリスマスがきたら、頼んでもいないのに、キリストの誕生日なんかも祝っちゃって、なんて太平楽な人たちなゆでしょうか。
 ただ、どこかに僕の嫉妬が混じっていますが、そういうことが言いたいのではなくて、結局、神様は信じた人の所にいるのではないかということが言いたいのです。
 これは宗教の勧誘とかではなくて、アニミズム的な発想です。神様はそこかしこにいて、なにかに宿り、祈った人を救うということです。
 
 今回読んだのは、舞城王太郎の『アンフーアンフー』という話です。
 妻の実家にあった。手作りのこけしを見つけて以来、子供が悪夢にうなされて、それを解決するには、子供のためのこけしを作らなければいけないのではないだろうかと話会う夫婦の話です。
 
 子供に起きている超現実的なことを解決するために神に救いを求めるということ。「祈り」は近年舞城は作品にとってのキーワードにになっている。人の痛みや苦しみを解決するのは、その人に寄り添い「祈る」こと。舞城作品においては、昔の作品にはなかった神秘性がそれによって神々しいさが出ている。ブコウスキーみたいなドライブがかかった文体はなりを潜めて、最近はだれにでも分かる優しい文体で、「祈り」を布教するようなことを振り返ってテーマに書いてる。
 
 人に寄り添うことというのは、非常に難しいことである。簡単に言ってしまえば、その人の分身や片割れになるという事だ。それを受け入れる人間もいるが、もちろん拒む人間もいる。常に痛みを一人で抱える人間だっている。それは強いと思っている人間かもしれないが、実際は脆いのかもしれない。寄り添うことを受け入れる人間は優しい。人の優しさを受け入れるほどの空間がそこにあるからだし、人に弱さを見せれる強さがあるからだ。
 
 そもそも、「優しい」とはなんなのか?
 おそらく、それは他人のすべてを受け入れることができることが究極にある。そして、それが「愛」だ。
 これは個人の見解なので、多分違うが、愛には、お互いがお互い寄り添うような形がある。もちろん、一人になるときもあるし、二人だけの孤独というのも存在する。また、二人は啀み合うこともある。
 二人は強いときもあれば脆いときもある。二人しかない感覚がある。つまり、世界観だ。それはだれにも邪魔ができないし、介入することができない。
 
 話がズレにズレてしまったが、神様というのは、目に見えないものである。その見えないものは、「祈り」によって、他者を救うことができるかもしれない。その「祈り」とは、他者に寄り添うことで成り立つもので、他人を受け入れることだ。それが深まることによって、「祈り」は「愛」に変わる。「愛」は万能なもので他人を救うことができる。
 
 舞城が言いたいこととは、違うかもしれないが、自分なりに解釈をしてみると、こうなった。
 結局、人は「愛」なんだという結論になった。
 もちろん間違っているかもしれない。でも、そう考えられるような気がする。
 僕は「愛」に憧れるから、「愛」のある小説を書いてしまう。それは一種の妄想だ。ただ、今回の作品を読んでなんとく、「愛」とは、「祈り」とは、舞城王太郎の作品とは、ということをわかった気がする。

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