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はじめまして/自己紹介

※本記事ははじめて私のアカウントを見てくださった方向けの記事です。(23年1月更新)

はじめまして、インタビュアーの中田 達大と申します。

インタビュアーと名乗って仕事をしている人はそんなに多くないと思います。なので、これを読んでくださってる方の頭に「??」が浮かんだかもしれません。

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そこで、インタビューを仕事にするまでの経緯も含めて、私がどんな人間なのかをここで自己紹介できればと思います!

後半は長くなりますが、よければ手前のプロフィールだけでも覗いていってください。フォローはどなたでも大歓迎です😆

プロフィール

1990年生まれ、愛知県出身、大学で仙台へ。学生時代は旅に夢中になる。1年間休学して世界一周(バックパッカー)の経験あり。大学院卒業後は本屋をつくりたいと東京の企業で5年間勤務(うち3年間は都内の直営店で念願の書店員を経験)。21年春に退職。同時期に栃木県・那須塩原に夫婦で移住。現在は個人事業主としてインタビューを中心に活動。妻と保護猫との3人暮らし。

こうやって見るとさらに「??」が浮かんでくる経歴かもしれません。

世界一周?
大学院卒業して本屋?
移住?
インタビュー?

そこでここからは、私の「これまで」の人生における分岐点を5つに絞り、なぜその選択をしたのか書いてみます。

書き終えて思うのは、それら分岐点は、一見全然違うようで、その実根底では共通しているものがあること。よろしければ、お付き合いください。

分岐点① 「雪のふる街へ行きたい」と18歳で地元を出る

地元、愛知県の母校では多くの同級生が地元の大学へ進学します。でも当時の自分はとにかく「地元を出たかった」。今思うと根拠なき焦燥感に近いのですが、

「こ の タ イ ミ ン グ で 出 な け れ ば 」

ずっとそう思ってました。

幸い両親も「一人暮らしを経験した方がいい」と後押ししてくれたので、あとはどこへ行くかです。

実はひそかな夢がありました。

「雪のふる街で暮らす」というものです。  

何をロマンチック風なことを、という声が聴こえてきそうですがw

理由は大したことありません。地元は雪があまり降らなかったので、たまに降る日は楽しい思い出しかないわけです。雪合戦に雪だるま。その楽しさを真に受けて、雪が降る街で暮らせばもっと楽しいに違いないと当時の僕は考えたのです(そう、アホです)。

進路相談でも「雪が降る街に住みたいので北海道の大学を目指します!」と言って担任をポカンとさせていました。

結果的には「仙台も雪降るよ」という担任の鶴の一声で、東京により近く交通の便もよい仙台の大学を受験することに。いずれにせよ、ほんとに「雪の降る街」軸で大学を選んでいきました。

そして運良く合格して、はれて仙台で一人暮らしを始めることになります。しかし、結局2年目にもなると、朝カーテンを開けて雪が降っているのを見ても、残念ながら何もときめかない人間に。かなしいものです。

そんなふうに偶然ともいえる展開で移り住んだ仙台は、山と川が近い、美しい街でした。いまもまた暮らしてみたいと思うほど大好きな街です。余談ですが、妻と出会ったのもこの街でした。

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分岐点② 一人旅デビューは世界一周

大学入学後は授業を受けたりサボったり、バイトに明け暮れたり、というモラトリアムという免罪符をかかげて時間を浪費するフツーの大学生活を送って、気づけば3年の月日が流れます。

このタイミングで2つ目の分岐点が訪れます。

それは、4年生に上がる前に1年間の休学をして単身で世界一周の旅へ出たことです。

もともと大学入学直後から計画していたので、3年越しのプラン。費用は、バイトして貯めたお金で半分、祖父が孫に残してくれたお金で半分。世界一周チケットという、航空券版の「青春18きっぷ」のようなものを使いました。このチケット、事前に地球を一周する経路のチケットを予約します。

例えば僕の場合は、

日本→ラオス→インド→ヨルダン→トルコ→イタリア→(陸路)→スペイン→アルゼンチン→(陸路)→ペルー→日本

という航路を組みました。これで40万円弱だったと記憶しています。お得ですよね。フライトの日時は変更可能なため、陸路で自由に進む余白を残しておけば、自由度も担保できます。

ときどき驚かれますが、単身でバックパッカーとして旅に出るのはこの世界一周の旅が初めてでした。一人旅デビューが世界一周というわけですね。

最初の1日だけ宿を取って、そのあとのことは全て未定。ゆえに直前になって怖くなってきて、出発前夜は布団のなかで震えたものです。

それでもなぜ出たかったのか。

このときも根拠はなく、直感的に「もっと広い世界を見たい」と思ったのです。振り返ると、「ここじゃないどこかへ」「今の自分じゃない自分へ」の憧れだったのかもしれません。

言ってみれば理由はそれだけ。
そして、旅は8ヶ月におよびました。

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自分の人生の手綱は、自分が握っている

という当たり前の事実に気づいたのは、22歳のときのこの旅のおかげでした。人より遅いかもしれませんが。

旅の途中では多くの「人」との出会いも。もともと私はシャイで根暗で、人付き合いもよくない人間。そんな私が、人との関係性の中で人生が展開していくことのおもしろさを知ったのも紛れもなくこの旅のおかげでした。

分岐点③ 本屋に憧れる。本屋で働く。

1年間の旅の反動なのか、帰国後は「もっと勉強したい!」と思い、大学院に進学します。

いや正直に言うと、今の自分で就職したとしても何も武器がないではないか…という言い訳を盾に、就活戦争に参加するのを2年間延長したかっただけだったのかもしれません。

大学院の過程で自分の好きなこと、何をしたいのかを本気で考えた末に「理系の仕事ではないな」と結論付けました。

そんなあるときに代官山にある蔦屋書店を訪れた際に

こんな本屋をつくりたい!

と思ったのです。

仕事場と家の往復のあいだに、さまざまな本があり、人との出会いがあり、挑戦する人の背中を押し、疲れた人を癒し、お互いに人と人が刺激をあたえ高めあえる場所をつくりたい、と。そんな本屋が自分の街にあったら最高ではないかと。

その後、運よく蔦屋書店を運営する会社に採用していただき、東京に引っ越しました(このタイミングで結婚しました)。

そして入社3年目で書店チームに配属となり、そこから3年間書店員として勉強の日々を送ります。この時期のことは長くなるので割愛しますが、一緒に働く人に恵まれた時間でした。

ただ、30歳になったら別の領域にチャレンジしたいと漠然と考えていました。同時期にコロナが街を襲い「食」のことを見直す機会がありました。

そこで「食」や「農」のことを自分は何も知らないなぁということにふと気づき、「知るためのアクションをとろう!」とほぼ直感的に決めます

そういったタイミングで書店の上司と飲みに。
そこでとあるアドバイスをもらいます。

それがまた自分の進む道を大きく変えていくきっかけとなります。

分岐点④ 500冊のZINEを自分のお金でつくる


「それを1冊のZINEにしてみたら?」

20年10月28日。当時の上司にそう言われました。

「農」に興味が湧いているのでまずは「農」に関わる人にアポを取って個人的にインタビューしたいと思っているんですよね、と僕が伝えたときの返答です。

ZINEとは自費出版で制作する冊子、雑誌のようなものだとイメージしてください。

それは、せっかく時間をもらうなら話してくれた人の応援の意味で出版物にした方がよくない?というアドバイスでした。

そのアドバイスを聞いたときに僕は直感的に「やろう」と思ったのです。そこからの経緯を「1冊ができるまで日記」として書き綴ってきたのが、このnoteのはじまりです。毎日更新してきましたが抜粋版は下記のマガジンに整理しました。

そして、本業が休みの週末にこつこつと制作を続けて、6ヶ月かけてなんとかZINEは完成します。

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コチラ☟で販売もしています。

タイトルの「Night Before」は「前夜」を意味しています。「農」の未来について取材しているうちに、いつしか僕自身の「出発前夜」に繋がっていったそのドキュメンタリーを交えて書いた1冊なので、このタイトルにしました。インタビューの魅力に気づくのもまさにこのZINEづくりがきっかけです。

そして、この1冊がまた不思議なところへ連れていきます。

分岐点⑤ 夫婦で友達0の那須へ移住

ZINEでは4組の方にインタビューさせていただきました。皆さん全員お会いしたことない方で僕が一方的に会いたいと思った方々です。

そのなかの1組に栃木県・那須町で農家をしている方がいました。このZINEをつくるときにはすでに「農」の世界に興味があり、可能性を感じていた僕は「とはいえ、いきなり農家さんのところで働くことは唐突すぎるなぁ」と考えていました。そのうち「この人!」と言う農家さんに出会えたら、そこから先のことはそのとき考えようと。

でもこのインタビューで「ここで働きたい」と思ってしまったのです(いきなり!)。

1ヶ月何度も考えました。妻とも話しあいました。最終的には「働かせてほしいです」という旨をお伝えします。
21年2月のことです。

そこからもいろいろありました。その後も何度も妻と話し合いましたし、不安にさせる夜も何度もありました。ほんとに迷惑をかけたなぁと思います。いろいろな人を振り回してしまいました。

結果的に、21年4月末に東京を離れて那須塩原に夫婦で移住しました。いまは2人で元気にやっています。

・・・

移住後も紆余曲折あり、いまは農家ではなく、個人事業主としてインタビューの可能性を追求する仕事にシフトしています。

ZINEづくりのときに感じたインタビューの魅力と価値、そして「聴く」という行為が自分は好きで、まだまだ世の中に不足していると感じたことも理由のひとつです。

↓自作のインタビューメディアもやっています。

振り返ると、渋谷のオフィスワーク、二子玉川の本屋、そして那須。会社員も個人事業主も、移住も、いろいろと経験しました。

それらは関係ないように見えて、僕の中では繋がっていて、いまぼくはインタビューの価値をもっと見つけて届けられるようにしたいと試行錯誤しいています。

インタビューはたのしいです。「聴く」ことの可能性は想像以上だと思います。

私はインタビュアーという仕事をちゃんと「食える仕事」となる道筋を発見して、聴くことが好きな人、得意な人が、それを仕事にできるようにしたいという目標があります。

その方が、聴くことの価値が世の中に広がるし、何より才能が活かされる仕事につける人が増えた方が、社会はきっとおもしろくなるから。

この場所で何ができるのか。改めてあらゆることを勉強しなおす毎日が始まっています。

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noteには何を書いているのか?

ちょっと長くなりましたが、以上が自己紹介です。

一貫性はありませんが、
こうやって振り返ってみると分岐点にはいつも「人」との「関係性」をもっと深めたり面白がりたいという自分がいるようにも思います

noteでは、インタビューを仕事にしていくチャレンジの記録、そこで感じたこと学んだことなどをリアルタイムでお伝えできればと思います。

心がけたいのは、読んだときに「明日からも頑張ろうかな」と思っていただけるような文章。

ただでさえ、生きづらくて窮屈で矛盾だらけで嫌になっちゃう世の中。

少なくとも今日1日くらいは、僕の好きな言葉に誠実でいれるように。

It is better to light a single candle than to curse the darkness.
暗闇を呪うくらいなら、小さな灯りをともそう

ここまで読んでいただきありがとうございました^^

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ある日のインタビュー風景


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☟インタビューを通じて大切な人の声を届けるサービスをしています。



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