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発信者としての目線で

独学をはじめて、

予想外にこれは変わったな、と思うことのひとつに、

何事も発信者としての目線で見るようになった、ということがある。

今まで、一受け取り手として与えられるままに受け取っていたものの中に発信者としての目線を加えて観察する視点が加えられた。

何事も発信者としてみると捉え方も見え方も幅が広がってくる。

インプットしている時も、無意識のうちに自然体でアウトプットを意識している。

自分なら、どうするかな、って。

インプットしているようで、実は隠れたアウトプットのような感じ。

ここの余白の取り方がうまいな、

この配色の組み合わせが好き。

あっ、わざとズラしてる、とか

おっ、逆に大胆に被せてきたな、とか。

正解を教えてくれる人がいると

理解も成長も、たしかに早いのかもしれない。

でも、正解の曖昧な世界で、

それはその人の導き出した正解を時短で受け取って

そのまま食べてるだけだと思う。

絶対的な原則や王道はブレないのかもしれないけど、

残りの大多数を占めるのは、自ら気づき、生み出す力ではないかな、と思う。

それぞれの持ってる感性のボールをどんな風に投げるか、みたいな。

自分で考えることを放棄して、人が与える答えをただただ与えられるままに受け取っている限り、いつか壁に打ち当たるだろうし、表現の幅にも限界が生まれると思う。

独学のいいところは、自分で気付こうする過程にあるのだ。

どうでもいいことなら、こんなに真剣になれない、というくらい向き合う時間も取らせてくれる。(というか取ってる)

そこに大事なものが隠されているとわたしは思っている。

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もっと、クリエイティブなことに携わっていきたい

自分の色を表現していきたい

じゃあ、それを夢で終わらせないために、

行動しよう、スキルアップしよう。

そんな思いではじめた勉強だったが

分かりやすく、”スキル”以外で、

思わぬ副産物がついた、という感じだった。

それから、人がつくったものを簡単にジャッジをしなくなった。

しなくなった、というか出来なくなった。

分別のある人になった、とかではなくて、

わたしが意見を言ったり、批判や評価をする時は

いちおうわたしなりのルールがある。

それは”自分が経験したことがあること”だけ。

求められた時に必要なら意見を言う、たったそれだけ。

逆に言わないのは、自分が経験したことがないこと。

だから、経験したことがない人に何を言われても

気にする必要なんてないんだ、ってこと。

たとえ何か言われても、

この人は、やったことがないから言えるんだって、

流しておけばいい。

傷つけるのも、傷つくのもお門違いだなと。

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尊敬する人がつくったものを見た時に、

何も学べることは作品やコンテンツとしての見えてる情報だけではない。

ここが切り替えのポイントになっているんだ、とか

あ〜、この人の間がいいな、とか

この人の言葉遣いが好きだな、とか

学べることが多くて、

逆にどこからが本音でどこからがテクニックなのか分からない瞬間もいい。

意図された予定調和なのか、

それとも偶然の奇跡が生み出した、自然体?

どっちなの、って。

そういうあやうさや曖昧さに惹かれてしまうのである。

うまい人ほどその境目が曖昧な気がする。

ストレートに凄い、さすがはプロの仕事だな、と思わせる裏側にひとさじのその人だけのエッセンスみたいなのが注がれている気がする。

だから、唯一無二なんだって。

その曖昧さ加減に余計にそそられて、

分かりやすく「すごいでしょ?」と言われるよりも、

何倍も凄みを感じる。

世界を少しだけ知れたような気になる。

これからも、小手先のテクニックだけを盗むんじゃなくて、

尊敬する人の大切にしている本質に触れていたい。

丁寧にひとつひとつ階段を登って自分の表現の幅を広げていきたい。

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