本書はずいぶん前に読んだのだが、最近になって網野善彦の『『忘れられた日本人』を読む』を読んで、本書を再読する必要を感じて手に取った。また、先日手元に届いた興福寺の寺誌『興福』203号で佐田尾信作氏が「民俗学者宮本常一と大和路」という連載を開始されていたのも本書を読み返す縁になった。私は素朴に自分というものに興味があり、それに関連して民俗とか民族とか言語とか、さらには人類史とかいうものに漠然と関心を払っているので、この手の本には自然に手が伸びる。
今の職場で毎週木曜日の昼休みにマイクロソフトのTeamsを使って勉強会をしている。以前にも書いたが、11時半から12時までの30分を15分ずつ二人が講師役で何事かを語るのである。そして、講義の後、出席者全員が講師に対しポジティブなフィードバックをTeamsのチャットに記入することになっている。無理に褒めるというのは馬鹿馬鹿しいようだが、いざ自分が褒めてもらうと気分が良いものだ。若手社員に自信をつけてもらうという趣旨もあってのことなので、そういう意味でも有効なことだと思う。
2月15日にその勉強会で私の番があり、タイの古陶の話をした。このnoteの2023年12月30日と2024年1月14日に書いた記事から抜粋要約した内容だ。今回が5回目なのだが、過去4回全て15分の尺に収まらずに話が尻切れになった反省を踏まえ、今回は発掘陶器という無機物が権力というドロドロの有機と深く関わっているということだけに的を絞った。しかし、端折りすぎて10分で終わりそうになったので、古陶に関連してアユタヤ朝時代のタイと日本との関係を付け足したら見事に蛇足になってしまった。うまくいかないものである。
いわゆる歴史というものは、極論すれば、今ある権力に都合の良い物語である。歴史に限らず「科学」とか「理論」といった一見客観性を備えているかのようなものも、どれほど「客観的」なのか怪しいものばかりだ、と私は思っている。そもそも「客観」とはある種の幻想であるとすら思う。そういう観点から、市井の人々が何を思い何を語ったのか、というところに自然に興味が湧くのである。
本書も宮本の聞き書きをまとめたものだが、取材相手や宮本自身の創作も全く無いわけではないだろう。生きものとして己の存在を正当化しようとするのは当然で、そこに自身の価値観に整合するように眼前の現象を読み換えることもあるだろう。それにしても、本書を読んで心洗われる思いがした。人の暮らしの在りようは本来こういうものだと思う。私が駄文を連ねるより、引用を並べたほうがいいと思い、長くなるが備忘録として記す。