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ジャレド・ダイアモンド著 倉骨彰 訳 『銃・病原菌・鉄(上下)』 草思社文庫

6月の最後の木曜日に職場の勉強会でホモサピエンスの移動と言語の多様性について話をしたところ、勉強会が終わって私の席に来て雑談をした人がいた。それは数分間のことだったのだが、その後、彼から2冊の本のリンクを貼ったメールが届いた。この本と『サピエンス全史』だった。どちらも話題になったので、そういう本があることは知っていたが、読んだことはなかった。せっかくなので、手に取ったのが本書だ。

原書の発行は、1997年なので、内容の性質上これを今そのまま読むわけにはいかないが、面白かった。歴史を語る場合、語り手がどのような文化圏に属するのかということは、どうしても明らかにしておかなければならない。歴史に客観性というものはなく、それぞれの文化の中で、それぞれの文化の正当性を語るのに都合の良い出来事を、それぞれの文化の文脈の中で繋ぎ合わせたものが所謂「歴史」であるからだ。

著者のジャレド・ダイアモンド(Jared Diamond)は1937年に米国マサチューセッツ州ボストンに生まれ、1958年にハーバード大学で生物学の学士号を取得後、1961年にケンブリッジ大学で生理学の博士号を取得した、とある。両親はベッサラビア出身のユダヤ系で、ベッサラビアは現在のモルドバ共和国にほぼ重なる地域だ。欧米白人文化圏に属する人である。本書の大前提として、世界は欧米文化圏を中核として動いており、その歴史的な流れから外れた文化圏がなぜ滅んでしまったのか、ということをアメリカという現代世界の中軸から見ている、という視点がある。

 私の住んでいるカリフォルニア州は、移民の受け入れ、差別撤廃措置の導入、多言語義務教育の実践、人種問題への対応といった、賛否両論の多い政策にいち早く取り組んだことでかつては名を馳せ、現在では、そうした政策からいち早く撤退しつつあることで名を馳せている。私の息子は、ロサンゼルス市の公立学校に通っている。そして、その学校の教室で学んでいる子供たちの千差万別の顔かたちは、カリフォルニア州をにぎわしている抽象的な政策論争の具象的体現である。それらの子供たちの家庭では、のべ八〇以上の言語が話されている。そして、英語を話す白人家庭の子供は少数派である。私の息子の遊び友だちは、どの子供をとっても、両親や祖父母の少なくとも一人が移民の出である。私の息子の場合は、四人の祖父母のうち、三人が移民の出である。しかし、アメリカ合衆国への移民は、この国の多様性をもとの状態に戻しているにすぎない。というのも、ヨーロッパ人が移り住んでくる前、この土地には何千年にもわたって、何百という部族のアメリカ先住民が、何百という言語を使いながら暮らしていたからである。この土地が、一つの政府によって統治されるようになったのは、たかだかここ一〇〇年のことにすぎない。

下巻 209-210頁

上の引用の最後の部分の「ただかだここ一〇〇年のことにすぎない」は「二〇〇年」の誤植であろうが、いずれにせよ、そう古いことではない。原書を読んでいないので詳しいことはわからないが、上の引用の中で「移民」という言葉の使われ方に矛盾があることが気になる。冒頭の一文での「移民の受け入れ」の主体は誰なのか。引用の最後の方で「ヨーロッパ人が移り住んでくる前」と書いているので、「ヨーロッパ人」も移民であるとの認識はあるようだが、冒頭の文の「移民」は近年になって問題となっているヨーロッパ人以外の移民を指しているように見える。また、「千差万別の顔かたち」は人種的な形質上の差異を指しているように思われる。

以前、チェダーマンのことを書いたが、そこで明らかなのは皮膚の色のような形質的な差異は社会構造を規定するものではなく、社会が先にあって、その構成の為の便宜として形質的な差異が利用されるということだ。

本書(1997年発行)にチェダーマン(2018年1月発表)のことは出てこないが、本書執筆前にチェダーマンのことが発表されていたとしたら、果たして本書の書きようは変わったであろうか。欧州の人々も元は褐色の皮膚だったというのは、ある種の人々にとっては衝撃的かもしれないが、人類がアフリカ大陸で生まれたのだから、デフォルトが白でないのは当然だ。結局のところ、本書のタイトルが示唆する通り、現実は銃に象徴される工業の有無や発展の程度、病原菌に象徴される微視的レベルを含めての生態系、鉄に象徴される資源利用などの組み合わせ取り合わせの偶然に拠るのだと思う。そうであれば、現在の世界構成・構造も儚いもので、何かの弾みであっけなく大転換するのだろう。

今、その「弾み」ではないかと思われる感染症の流行や戦争が間近に見られるが、たぶん、そういうあからさまな「弾み」風の事象は日常の振幅の一部に過ぎない気がする。限界的な一手によって世界がガラリと転換するオセロの大逆転のようなことを繰り返すことによって世界はここまで時を紡いできたのではなかったか。もう何度も書いたことなので、ここで改めて書かないが、生物としての我々人間の在りようと、現実の暮らしのそれとの齟齬が拡大する方向に物事が動いていることは確かだろう。その上、その齟齬の拡大を我々の多くは「進歩」だと思い込んで積極的に生活の中に取り入れようとしている節がある。

尤も、人一人の暮らしとか人生としては、世間の思い込みに乗った方が、つまらぬことをあれこれ考えるよりも遥かに安楽だ。「赤信号みんなで渡ればこわくない」とはよく言ったもので、全くその通りだなと今頃になって納得している。

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熊本熊
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