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青花の会 茶話会 永田玄+オオヤミノル

友だちがいないのに友の会風のものには多数参加している。12月22日金曜日の夕方、仕事帰りに青花の会の茶話会に出席した。

人の交際に用いられる飲食で圧倒的に多いのが酒だそうだ。次がコーヒーらしい。日本で暮らしていると身近なのは茶だが、世界的にはコーヒーだというのである。コーヒーは子供の頃から好きで、さまざまな道具をあれこれ試したり、焙煎職人の御自宅に定期的にお邪魔していろいろ教えていただいたり、それなりに探究もした。行きついた先は、信頼する焙煎屋で豆を買い、飲む都度やや細かめに挽いて、気に入ったメーカーのペーパーフィルターを使い、鉄瓶で沸かした水道水の湯を手で落とすというものだ。これを毎朝やっている。味という点からすれば、ネルのフィルターを使いたいところだが、一日一杯コーヒーを飲むためにネルのフィルターをその都度洗ってどうこうというのは過剰な手間のように感じてペーパーフィルターを使い捨てている。コーヒーのことについては以前にもnoteに書いた。

オオヤコーヒーはかなり有名なのだが、これまで縁がなかった。今回はそのオオヤミノルさんが直々に淹れるコーヒーをいただけるとのことなので参加することにした。タイの古陶にも興味はあるのだが、今回は陶器よりもコーヒーへの関心が参加の動機だ。しかし、茶話会そのものの主題は永田さんのタイ古陶の話だ。そういう心持ちで参加した所為もあるかもしれないが、比較的関心が薄い方のタイ古陶の話が期待値を遥かに超える面白さで、話に圧倒されてしまった。永田さんが会場に持参した古陶の実物も手に取ってみることができたし、コーヒーはその古陶の器でいただくというなかなか稀有な体験もできた。

永田さんとタイの古陶との出会いは偶然の巡り合わせのようなものだそうで、そのことはもちろん面白かったが、印象に残ったのは「美術」の思わぬ一面の話だった。永田さんはタイの古陶に惚れ込み、自身のコレクションの図録を自費出版し、さらにタイに古陶の美術館を建てようとしたのだそうだ。用地を確保し、建物の設計図も準備し、必要な資金を現金で用意してアルミホイルで包んでスーツケースに入れてタイへ乗り込んだ。そこで現地のアドバイザー役の人から待ったがかかったのだという。結局、永田さんは美術館建設を断念して、用意した3,700万円をそのまま日本へ持ち帰った。その美術館に陳列するつもりだった品々の一部が、現在、長崎県美術館展示されている。

なぜ古陶の美術館建設を断念せざるを得なかったのか。それは歴史というものと関係がある。タイは比較的安定した国家との印象がある。それは19世紀から20世紀前半にかけての帝国主義の時代にも独立を維持し、現在でもASEANの中核国として東南アジアの要となっているという状況に拠るところが大きい。しかし、マレーシア、カンボジア、ラオス、ミャンマーと陸上の国境を持ち、国内を貫通するメコン川は中国雲南省に通じている。そういう地政学上の環境下にある国が「国」として「安定」を維持するということがあるはずはないのである。このあたりの感覚が辺境の島国で生まれ育った人間にはわからない。

人類の歴史は移動の歴史でもある。ホモ・サピエンスは20万年前にアフリカ大陸で生まれ、大陸内部で生命を紡ぎながら移動し続け、6万年前あたりにはアフリカ大陸を出て世界へと拡散し、現在もなお流動を続けている。人類史上の或る時点で農耕を始めたことから、土地への定着を余儀なくされるようになったものの、地球の自然環境も変化を続けているため、長期的には農耕即ち定住とはならない。自然の変化と地政学上の変化や政治経済の変化などが相俟って、今なお荒地が耕地になったり耕地が荒地になったりという変化は当たり前に続いている。

タイにはその昔日本人町があった、と学校の歴史の時間に習った。それがどのようなものか知らないが、17世紀後半から18世紀にかけて存在したらしい。日本は鎖国の時代だ。おそらく、それ以前に朱印船交易のための出先機関のようなものとして設立されたものが「町」として拡大したのだろう。彼の地ではアユタヤ王朝の時代で、隣国ビルマからの軍事的圧力に苦慮していたらしい。そのアユタヤ王朝にしてみれば、対抗する軍事力が欲しい。当初はポルトガル人傭兵に期待したらしいが、ビルマの方もポルトガル人傭兵を用い、傭兵同士は同士討ちを忌避して軍事力としては機能しなかったのだという。そこでポルトガル人に代わる傭兵として日本人に期待がかかった、らしい。というのは、当時の日本は戦国時代末期から江戸初期であり、主君を失った浪人が逃亡先としてはるばるアユタヤまでやって来たというのである。何しろ戦国の武士なので実戦経験が豊富な上にそこそこの教養もあり、現地での信任も厚かったという。実際、関ヶ原と大坂夏冬の陣の後に日本人町の人口が急増したという記録もあるようだ。個人的にはこの日本人町が気になっていて、以前、出張のついでに訪れたことがある。宿泊先のホテルから炎天下を歩いて1時間超かかったが、それは途中の寺院で横臥する仏像を眺めたり、野良犬に追いかけられたり、といった所為なのか、そもそもそれくらいの距離だったのか、今となっては記憶がない。その時のことは以前にnoteに書いた。今は資料館のようなものがあるらしいが、当時は石碑だけが立つただの公園だった(暑かったので資料館の存在に気づかないくらい疲弊していたのかもしれないが)。

それで何が言いたいかというと、王朝は変遷するのである。つまり、現在の政権は当然にその正当性を主張したい。それには自国の歴史という文脈の中での位置付けを明確にする必要がある。歴史はその時々の権力がその存在の必然を語る物語でもある。そこに、他所の国の人が唐突に「これがナントカ王朝時代にドコソコで作られた皿です」などと現物を並べて勝手に「歴史」を語ることは、その国の国史に対する挑戦と見做される可能性があるということなのだ。要するに反政府運動だというのである。

「へぇー」と思った。それまでそんなことを考えたこともなかった。何の考えもなく、ホモ・サピエンスが20万年前にアフリカで誕生し、、、などと書いているが、そんなことを語られたらマズイ国、権力、社会、団体、人は世界にいくらもいるのだ。今更「はぁー」と思うのである。翻って身の回りでは、わずかばかりの金で政治家がどうしたこうしたとか、クリスマスケーキが潰れたとか、しょーもないことばかりで、まことに平和なことである。たぶん、それはとてもありがたいことだと思うのである。

会場でいただいたよりも、帰ってから自分で淹れた方が旨いと思った

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