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蛇足 『老人力 全一冊』

生まれた年が気になる。どのような時代を生きたかということは人となりの形成に否応無く大きな影響を与える。赤瀬川原平は私の両親と同い年だ。それだけでも興味を引く。まして本書の執筆は赤瀬川が還暦の頃だ。つまり、自分の親世代が自分の今くらいの年齢の頃に書いたものである。もちろん、「世代」と一括りにできるほど人の考え方というものは単純ではない。人の数と同じだけのものの見方や考え方がある。しかし、同じ時代を生きているとか、同じ年数の齢を重ねた、というような背景を揃えてみると、やはりその集団のカラーのようなものが出てくると思う。

本書は1998年に発行された『老人力』と翌年に発行された『老人力2』を文庫一冊にまとめ2001年に発行されたものだ。1998年といえば自分は36歳で、何となく当たり前に未来があるとは思っていただろうが、勤務先は経営悪化で外資に身売りすることになって、最初の転職をした年だ。いわゆる「バブル」景気から約10年を経て、経済潮流の変化に耐えかねて「大企業」と呼ばれていた会社の廃業や倒産が結構な規模で発生していた頃でもある。例を挙げれば以下のようなものがある。

1997年1月19日 京樽 会社更生法適用申請
1997年9月18日 ヤオハン・ジャパン 会社更生法適用申請 国内の上場スーパーとして初の倒産
1997年11月3日 三洋証券 会社更生法適用申請 証券会社として戦後初の倒産
1997年11月15日 北海道拓殖銀行 臨時取締役会で営業継続断念を決定 政府による「護送船団方式」の金融行政の実質的放棄
1997年11月24日 山一證券 自主廃業
1997年12月18日 東食 会社更生法適用申請 東証1部上場の大手商社で戦後初の倒産
1998年3月 アサヒコーポレーション 会社更生法適用申請
1998年8月10日 三田工業 会社更生法適用申請 申請時点では製造業として戦後最大の規模の倒産(負債総額2056億7800万円)
1998年9月23日 日本リース 会社更生法適用申請 負債額約2兆3000億円は当時の日本最高額
1999年6月23日 有村産業 会社更生法適用申請 沖縄県では当時史上最悪の経営破綻

こうして並べてみると、エライ時代だったと思う。それでも、今と比べると遥かに牧歌的で、どうせ会社が無くなるなら、と、実体としては観光旅行のような出張を計画して稟議を回したら難なく認められて、1998年の春だったと記憶しているが、タイとマレーシアへ行ってきた。一応、工場見学という名目だった。アユタヤにあるニコンとキヤノンの工場にお邪魔して、クアラルンプールに寄ってミノルタの工場を見学してきた。

今となっては記憶があやふやだが、はっきりしているのは工場見学は1日1件。アユタヤといえばその昔に日本人町があったところでもあるので、その跡も見て来た。アユタヤだけで3泊4日か4泊5日。宿はニコンで出張者が利用するというホテルを同社広報部経由で取ってもらった。アユタヤからクアラルンプールに移動して、翌日にミノルタの工場にお邪魔し、その翌日に帰国した。

キヤノンでは工場の食堂で鮭フライ定食をご馳走になり、クアラルンプールではミノルタで晩御飯とカラオケの接待を頂いた。また、ミノルタでは、当時クアラルンプール唯一のプラネタリウムに機器を納入しており、そのプラネタリウムにも案内していただいた。慣習として工場見学には手土産を持参するのだが、当然、虎屋の羊羹だ。本来なら、見学して、それにさらに取材や調査を加えて何がしかのレポートを書くことになっていたのだが、何しろ勤務先の身売りが決まっていたので、そんなレポート書く気も起こらず、ただ行ってきただけだった。細かいことは覚えていないし、覚えていてもこういうところに書くことはできないが、とても楽しかった。

先述したような時期だった所為もあったかもしれないが、ミノルタの現法社長が「日本に戻ってもポストが無いんですよ」と呟くように語ったことが妙に印象に残った。実際、ミノルタは2003年にコニカと合併し、2006年3月にカメラ事業から撤退。「α」ブランドを含むデジタル一眼レフカメラ事業はソニーに譲渡された。ミノルタ製品のアフターサービス事業は2011年にケンコー・トキナーに継承された。

断っておかないといけないが、本当に遊びで工場見学に出かけたのではなく、この後、転職先でもこれらの会社との関係は続いた。あくまでも業務の一環であることは特に強調しておきたい。誰もそんなことは気にしていないとは思うが、念の為。

1998年の夏には最初の転職をする。そのあたりのざっくりとしたところは以前にこのnoteにも書いた。

以上、正真正銘の蛇足。

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