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青花の会 講座 「古道具坂田と私 1」 中村好文

11月12日午後、青花の会の講座を聴く。会員になったのは『工芸青花』の4号からなので、ずいぶん長いのだが、講座に参加したのはこれが2回目か3回目くらいだろうか。青花の会というのは新潮社が運営する骨董愛好家を対象とする緩い会員組織のようなもの、と理解している。私は会員ではあるが、骨董を買う経済的余裕もないし、仮に買ったところで公団住宅には収まる物理的余裕もない。何となくそういうものを眺めるのが好きなので、こういう雑誌をパラパラとめくってみたり、稀にこういうイベントに出かけてみたりする。

古道具坂田にはとうとう行かなかった。でも、as it isには3度ほど出かけた。最初は一人で、2回目は娘と、3回目は以前の職場の同僚と。記憶は定かでないが、3回とも自分たち以外に客が無かった気がする。その所為もあって、なんだかとても落ち着いて満ち足りた気分を味わせていただいた。

中村好文は建築家。若い頃、吉村順三の事務所に勤めており、その近所にあった古道具坂田に出入りするようになったのだそうだ。今回の講演は中村が語る古道具坂田あるは坂田和實というようなものだった。講演のスライドでは中村が坂田で買った品々が素材別(木、紙、鉄、銀、銅、陶、石、布、プラスチック)に映し出されたが、その中のいくつかは、坂田の『ひとりよがりのものさし』に挟まれていた坂田と中村との対談「物が美しく見える場所」に使われているものだ。

同書は坂田が『芸術新潮』に連載した写真付きエッセイを一冊にまとめたものである。手元の記録を調べてみたら、私が書籍版『ひとりよがりのものさし』を読んだのは2008年4月だった。当時、ロンドンで暮らしていて、わざわざ日本から取り寄せて読んだらしい。一体、どのような経緯でこの本や坂田のことを知ったのか、今となってはただ謎だ。

ただ、同書を余程気に入ったようで、それからしばらくは手帳に「道具屋になりたい」というようなことをよく書いている。しかし、それは結局、思っただけで終わった。そのあたりのことも含めて昨年7月にこのnoteに書いた。

中村は坂田の私設美術館 as it is の設計者でもあるので、その話もあった。坂田から中村に発注するに際し、細かな注文は無かったが、佐渡の土壁の写真とドゴン族の民芸品の写真集を見せられたそうだ。今和次郎の本も見せられたという。そこには土地のもので作ったものの美しさのようなことが書かれていた。たまたま、as it isの用地の土を地元の佐官職人に見てもらったら、壁土になるというので、外壁はその土地の土を使った土壁にしたのだそうだ。内部は「農家の納屋のような空間」にしたかったのだという。アフリカのものを扱うようになって、それが持つ力強さを表現できる空間の必要性を感じていたらしい。目白の店はそれらの物には少し手狭だったのだという。

講演の中でも言及されていたが、坂田は物と空間との関係性を重視した。2012年3月に坂田が日本民藝館で講演をしている。それを聴講した時のメモを眺めてみたのだが、そこにも同じことが書かれている。

他に今日の講演で勉強になったのは、道具とそれを使う空間の取り合わせのことだ。つまり、モノというのはそれが単独で存在するのではなく、どのような場所で使われるのかという取り合わせのなかで存在するということなのである。たびたびこのブログのなかで、私は人間の在り様について関係性のなかでのみ存在すると書いている。モノは人が使うのだから、なるほど関係性のなかに存在するものだ。聞いてみれば当然のことなのだが、人とモノを無意識のうちに別扱いしていたので、今日のこの話で目から鱗が落ちる思いがした。さらになるほどと思ったのは、取り合わせという点から考えると茶道具は茶室の在り様が定着しているので、この先もその在り様に大きな変化はないだろうが、民藝は民家の姿が大きく変化しているので、この先が危惧される、ということだ。民家との取り合わせ以前に、普段使いであるはずの民藝品が普段使うのが憚られるような価格になっていることがそもそも存在の限界を示していると思うのだが、値段を克服したとしても、例えばマンションや規格化された住宅メーカーの建物のなかでしっくりと馴染むことができるだろうか、という問いかけは正鵠を射ていると思う。モノと空間の取り合わせ、というのは単にものだけのことではなく、人間同士の関係にも敷衍して考えることができる。

2012年3月3日付の自分の手帳

このことと多分関係すると思うのだが、中村は「坂田さんは親しくなってもベタベタしない人」と語っている。ふと、先日読んだ長谷川櫂の『和の思想 日本人の創造力』にあった「間の文化」を思い出した。

講演の中で、『芸術新潮』の企画で、坂田のパリでの買い出しへの同行記事のことも話題になっていたので、それが掲載されている2009年4月号を引っ張り出して目を通した。そこに坂田はこんなことを書いている。

 私達日本人が、利休以来400年間続けてきた物選びの方法は、茶室や民家といった建築空間にピッタリとおさまるものを、日用工芸品のなかから選び出して配置すること。つまり、見立てと取り合わせでした。そこでは、西洋の人達が重視した、作り手の自己表現の強さはむしろ静寂、調和を乱すものとして、できるだけ取り除かれてきました。乾燥した空気と強い日差しのなかで堅牢な石の家に住む人達と、木と土と紙のペラペラな家に住み、障子を通した柔らかな光のなかで物を見てきた者の基準がこうも違うのは、当然なのかも知れません。
 このところ西洋の人達も、世界中に広まった自分達の美の基準が、果たして本当に普遍的なものかどうか悩む時代となりました。それは私達が明治の初め、西洋人に価値観を揺さぶられたのに似ています。彼らは今、揺さぶられることを望んでいます。今度はこちらから、日本人の美意識とは何かを発信する時だと思うのです。

坂田和實「ゆさぶる」 『芸術新潮』2009年4月 24-25頁

力強いと思う。道具屋というのはこれくらいの強い志がないと務まらないのだと、改めて思う。そして、自分がいっとき憧れてはみたものの、結局は賃労働者から足を洗えなかったことが素直に了解できる。私如き軟弱小市民に自らの足で立って生きるなどということは無理なのである。志の問題もあるが、賃労働というものは、その気楽さを味わうと抜け出すことができなくなるのだ。賃労働は、なんだかんだ言っても、詰まるところは身売りなので、何をしようがしまいが、何を考えようが考えまいが、決まった労働時間単位に対して決まった報酬を得ることができる。自営となるとそうはいかない。やはり、自分は賃労働者、しかも万年ヒラ、だからこそ今まで安穏と生きていられたのだ。心底そう思うのである。

実は、この特集記事のことが頭に残っていて、2014年9月にパリに出かけた。クリニャンクールの蚤の市も見てみようと、宿もそこから地下鉄で3駅のところ(Château Rouge)に取った。これだけで、パリをよく知っている人なら「アホちゃうか」と思うかも知れない。なかなかスリリングな場所だったが、何がどうスリリングであるかについては別の機会に書くかもしれない。しかし、幸いにも何事もなく無事に楽しんで帰ってくることができた。

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