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全身麻酔 第629話・10.13

「この感覚がないのって。やっぱり気持ち悪いわ」美里は歯医者から戻ってきた。歯の治療で受けた麻酔で、左側に感覚のマヒが残っている。
「でも麻酔がないとさ、歯の治療では神経に来ると痛いってもんじゃないわ。麻酔していてもそう感じることがあるんだし」双子の里美は、顔をゆがめている美里を見て笑う。

「でもこれって部分麻酔よね。これで嫌なんだから、もし、全身麻酔なんてしないといけなくなったら、とてもじゃないけど無理っぽい」
「全身麻酔は、意識が完全に飛ぶから意外にあっという間に終わるとか聞いたことあるわ。本当かしらね」里美は、テーブルに冷たい紅茶を持ってきた。
「ありがとう。そう熱い飲み物は感覚がマヒしているから、麻酔が切れるまでやめた方がいいって言われているの」といいながら美里は紅茶を飲む。この際には、麻酔をしていない方に行くように意識して飲んでいる。
 だから顔を麻酔のない右側を下に向けて飲むから、里美はそれを見て笑いをこらえる。生唾を飲み込むように大きく下を向くと、ふとあることを思い出す。

「そうだ、美里、初めて全身麻酔で手術をした人って知っている?」「何よ、唐突に」
「美里を見て今思い出したの」「里美は他人事と思って」
「実は意外なんだけど、初めてした人って江戸時代の日本人なんだって」「え? 西洋人じゃないの」里美はうなづくと、そのエピソードを語りだす。

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「加恵、じっとしていなさい」「いえ、目が見えずともこうやって手を使えば、感覚で、それよりもあなたの開発する薬の完成こそが」そういって加恵は自力で立ち上がり、壁伝いに隣の部屋に行く。
 19世紀初頭の日本の紀州地方、外科医の華岡青洲(はなおか せいしゅう)は、今まで誰もできなかったある薬の研究の最終調整をしていた。それは全身麻酔の薬である。彼は外科医として治療を行っていた。彼は、京に滞在し最新の医学書や医療機器を集めながら、当時の最先端の治療を行っている。
 そしていわゆる蘭学、つまり西洋からの文献からの情報もあり、その中には乳がんの治療についての記述があった。ただこの乳がんを完全に治すには、相当体を傷つけて悪い部分をとる必要があり、ここまで大きく切ると患者の苦痛が並大抵ではない。だからその痛みを解決する麻酔法を完成させなければいけないと書いている。

 そして青洲は、乳がんの治療に耐えられるような全身麻酔薬の開発を始めた。
 チョウセンアサガオ、トリカブトといった毒のある植物6種類を主成分とした薬草を使うと、麻酔効果があることを突き止めた青洲。早速動物実験を繰り返し行った。対象となった動物はネズミやウサギ、イヌなど。ただ毒性が高いためひとつ間違えると死につながる。
 動物実験を繰り返した後、いよいよ人体実験。ここで実母と妻の加恵が、実験台に名乗りを出てくれた。青洲は彼女たちに投与を行ったが、これが大きなしっぺ返しとなる。実母は死に、加恵は失明してしまう。
 そのような犠牲があったが、いよいよ全身麻酔薬完成のめどが立った。

「加恵! ついにできたぞ。これは通仙散と名付けよう」青洲はうれしそうに隣にいた加恵の肩を叩いて薬の完成を喜んだ。
 こうして青洲は、世界最初の全身麻酔薬を完成させた。

 この結果を受け1802年に紀州藩主より、無事の身分と帯刀が許された青洲。その2年後の文化元年10月13日に、初めての全身麻酔による乳がんの摘出手術に成功した。
 ちなみにこの通仙散は、お湯に煎じて飲むと2時間から4時間ほどで麻酔の効果が表れたが、もともとの薬草の毒性が高めのため相当扱いが大変だったという。そのためあくまで青洲は秘伝という扱いにした。

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「よくそんなの知ってるわね。あ、麻酔が切れてきつつある!」美里は顎を動かしながら、感覚が戻ってきていることを喜んでいた。

「たまたま、先週だったかな。ピンクリボン運動のことを調べる機会があって、乳がんのことをいろいろ見ていたときに発見したの。乳がんの手術を江戸時代にしていたのには驚いたわ」話し終えて疲れたのか、里美は暖かい紅茶を飲んでいる。
「乳がんか。私たちも注意しないとね」紅茶を飲み干す美里。
「そうよ、全身麻酔しないといけなくなるまでに、早期発見ね」と里美も笑った。


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シリーズ 日々掌編短編小説 629/1000

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