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呂 第941話・8.23

「うーんと大体3時間かしらね」列車の中にいる女は時計を見た。時刻は午前11時。女は今ひとりで2泊3日の岐阜旅行に来ている。昨日は飛騨高山で1泊し、今日は下呂温泉で2泊する予定であった。
「ひとり旅もあとわずかね」女が言うように、下呂温泉のとある旅館では夫と待ち合わせをしている。つまり夫の仕事の関係で、最初の1日半だけ女ひとりで旅をしていたわけだ。ちなみに夫は直接下呂温泉に向かい、夕方旅館で落ち合おうということになっている。

 ところが女が不思議なことにあと3時間と言っていた。高山から下呂まで実際に列車の乗ると各駅停車でも1時間程度で到着できる。にもかかわらず3時間などと言ったのには訳があった。
「お、次ね」女がつぶやいた先、その駅の名は上呂駅である。
「ここから下呂まで歩いて3時間。夕方までにつけばいいから」

 女はマラソンランナーである。別に選手として大きな大会に出ているのではなくいわゆる市民ランナー。それも学生時代ではなく社会人になってからダイエットがしたくて始めたマラソンであった。タイムはそれほど早くないが、制限時間があるような市民マラソンでも途中で引っかからずに完走できるくらいの能力は持っている。
「あの人がいたら絶対にできんからね」女がつぶやいた通り、夫は走らない。マラソン大会に一緒に来ても走らず応援専門である。

 というわけで上呂駅から下呂まで走ろうというのだ。ちなみに3時間というのは、あらかじめスマホで歩いた場合の時間だから、走れば恐らくもっと早く下呂に到着するだろう。距離は13キロほどだから恐らく2時間を切るはずだ。だけど途中で休憩もするから余裕をもって3時間と考えた。
 また今回のコースはちょうど飛騨川が上呂方面から下呂方面に向かって流れており、全体的には緩やかな下りである。女の頭の中ではすでに走っている状況を思い描いていた。
 やがて列車は上呂駅に到着しようとしている。女がこのようなことをするのは走るためでもあるが、それ以上に下呂の北側に上呂という駅、さらに途中には駅名ではないが中呂という地名があることもわかった。

 女は下呂温泉に行く前にこのふたつの「呂」を見ておきたかったのだ。こうして列車は上呂駅に予定通り到着する。速度がゆっくりとなり駅のホームに停車した。女はここで下車。女はすでにランナーの格好になっている。荷物も最小限度のものしか持ってきておらず、専用のリュックを担いでいた。

「さてと、走りましょうか?」列車が先に下呂駅に向かって動き出していく様子を見届けると、女はホームを降りる。駅を出て少し歩くと上呂の交差点があった。そこから南方向に国道41号線が続いている。ここまでは走るためのウォーミングアップのように体を動かしていた女は、国道に入った途端本格的な一歩を踏み出す。

 アップダウンもそれほど激しくなく、道もほぼ一直線。ただマラソン大会ではないから車は普通に走るし、一緒に走っている選手がいるわけではない。だが普段から練習で走る女にとってはいつものこと。今回はスピードを出すというより、上呂から中呂、そして下呂までの風景を楽しむために走っているから、いつもよりは気軽なもの。走りながらいつも視界に入ってくるのは左右ともに緑に覆われて延々と続いている山々だ。

「一度くらいは川を渡ってみようかな」女は走りながらそう考えた。本来ならまっすぐ行けば近いが、途中で飛騨川に架かる飛騨川大橋を渡る。「ちょっと休憩かな」女は橋を渡り始めると速度を落とし歩き出す。橋の真ん中あたりで女は立ち止まり川を眺めた。飛騨川の水は一定のペースで下呂方面に流れていく。

 女はそのまま橋を渡り切り、次の橋までの間は国道ではない道を走る。舗装はされているが、両側に田畑が見える道は国道と違い車の数が少ないからより走りやすい。ただごくまれに車が来るのでその時だけは警戒した。
 朝霧橋を渡り再び国道に戻った女。ここは飛騨萩原駅の近くだ。次の休憩を兼ねて、駅近くにある萩原諏訪城跡の看板に架かれている、説明だけを立ち止まって見るとまた走り出す。

 女はひたすら走る、国道257号線棟合流したあたりを過ぎると、下呂市萩原町中呂という場所に来た。ある意味女が見ておきたかった場所だが、何もなさそう。ただ唯一中呂郵便局というものだけが見えた。「ここが中呂ね」女は郵便局の前を走って通過。もうひとつ中呂には禅昌寺駅というのがあった。この駅を過ぎるといよいよ温泉のある下呂駅だ。
 女はここで少しペースを上げた。女にとってはそれほど苦難な距離ではない。だが中呂という場所を見たのであとは下呂に向かって走るのみ。少しペースが上がったためか、正面にに見える風景が視界的に後ろに流れる速度も上がっている。

 ついに下呂温泉北口というところまできた。国道はここからトンネルに入るが、右側には温泉地に向かう道があるので女はそこに向かって走る。こうして温泉街を走りながら、一応下呂駅を目指す。厳密には途中で宿泊すべき旅館があったが、時間もあったし、一応気持ちの上でそうしたかったのだ。
「ふう、下呂駅に到着。やっぱり予定より早かったか」女は時計を見る。2時間20分くらいかけて上呂駅から走ってきたようだ。

ーーーーーー
「走った後の温泉は気持ちいいわ」旅館にチェックインし、夫が来るまでに先に温泉に入った女。いつも走っているとはいえ、やはり足を酷使したことは間違いない。温泉の湯に入ったことで足が疲れていたことが感じられた。こうして全身に湯の温かさが伝わってくる。
「さて、あの人が着たらおいしいもの食べないとね」女は夫が早く下呂に来ないかと、湯に入りながら待ちわびた。 


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