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今月今夜の月を見ながら食べるおむすび

「でもこりゃ、どう見ても悪い奴だ」「蹴るなんて銅像だけを見るとまるで女性への虐待ね」
 すっかり日も明けた熱海の海岸。前泊した酒田洋平・鶴岡春香の同棲カップルは、貫一お宮の像の前に来ていた。

 前日に春香の仕事の関係で三島に来た。仕事が休みの洋平もついてきたが、せっかくだからとちょいと足を延ばして熱海のホテルにて一泊。そしてチェックアウト後、熱海の海岸にある貫一お宮の像まで来ていた。

 だが、彼らはここに来たのは今日2回目である。1回目はまだ日が昇る前。

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「夏至の前後なら、もう日が開けているのにな」
「眠いわ。フゥアアア」 早朝5時過ぎまだ日が暗いうちにふたりは、ホテルを出て熱海の海岸に向かう。ウォーキングをするために朝活を行うことにした。

「でもやっぱり熱海はいいわ。昨日の温泉も良かったけど。すぐ近くにビーチがあって、遠くから波の音が聞こえるのね」
「だけど寒い! 何でこんな暗闇の時間からくるんだ。熱海の海岸なら日が出てからのほうが、風景が絶対によさそうなのに」洋平はときおり白い息を出して不満が溜まる。寒さのためかとにかく機嫌が悪い。

「でも、今日は1月17日。どうしても早朝の暗いうちに来たかったの。ふぁああ、眠い」眠そうな春香は、あくびを繰り返す。でも彼女にはそれなりのこだわりがあるようだ。

「1月17日の早朝って!」洋平は突然何かを思い出す。「阪神淡路大震災があったときだ」「え、ああ! あ~ああ、そ、それもあった。あちゃー! でもそっちじゃないんだけど」
「まあこれは俺の生まれた年に起きたから詳しい記憶はないけどな。それに関西生まれじゃないし。でもあの年にはオウム真理教の事件もあって、大変だったとよく両親に聞かされた」

「私は滋賀の生まれだけど、震災の次の年生まれたから余計にわからない。やっぱり東日本大震災のほうがリアルで知ってるわ」
「うん。あれはテレビで見てたけど、津波とかほんとすごかったなぁ」洋平は腕を組む。

「で、そうではなく、この日は金色夜叉の日なの」春香は話題を戻す。
「コンジキヤシャ... ... ああ、聞いたことがあるな。えっと」洋平は首をかしげながら思い出そうとする。

「金色夜叉は、尾崎紅葉の小説のタイトルよ。登場人物の間貫一と許婚者だった鴫沢宮の物語。ところがふたりは結婚の前に破綻して宮が富豪のところに嫁ぐことになった。それに激怒した貫一が宮を蹴り飛ばしたの。特に

「可(い)いか、宮さん、一月の十七日だ。来年の今月今夜になつたならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるから」

 と貫一が言い放ったシーンが有名ね」

「まあいきなり、富豪の男の元に嫁ぐとかいわれりゃ。誰だって怒るよ。金に目がくらんで結婚相手を変えるって」洋平はこのとき、無意識に春香のほうに視線を送った。
「え、あ、私は無い無い。金より洋平よ」春香は慌てながら洋平に体を近づける。

「でもこれには裏があったようだけど、そのあと貫一は高利貸しになって、宮も決して幸福ではなかった。その後にいろいろな事情がわかって来くるような話ね」体を近づけて耳元でささやきながら続きを語る春香。
「ふん、小説だから余計に激しい内容なんだろうけど、結婚するところまで話が進んだのになんだかなぁ。あ、あれかな」洋平が指をさすとちょうど貫一お宮の像が見えてきた。
「うん、そうだけどやっぱい暗いからはっきりは見えないわね。ホテルチェックアウトしたらもう一度行こうかな。でもほら、月は見える。この月の下でふたりの有名なシーンが行われたのね」春香が指さしたほうを洋平は見つめる。

「お、月が見える。これは三日月っぽいな。はっきり見える! 今日は涙では曇ってないよ」

三日月

 ふたりはしばらく、月を眺めた。その間は手をつないでいる。物語とはいえ、同じカップルでもこのふたりのようにはなりたくないと、お互いが考えたようだ。


「そうだ。これこれ」
 洋平はポケットから何かを取り出そうとしていた。
「え、まさかここで?」春香は、何かを期待している。
同棲期間も長くなったふたり。最近洋平がひとりでモデルルームを見に行くなど様子がおかしい。そろそろ結婚を意識しているようなそぶりがあったからだ。
 だがすぐにそれは違うことに気づく。洋平が取り出したのはコンビニのおむすび2個。
「お、おむすび?」春香は目を丸くした。

「今日はおむすびの日って知ってた?」
「え? 知らない」春香は首を横に振る。洋平は胸を張って語りだす。「これはさっきの阪神淡路大震災にちなんだ話なんだぜ。そのときに多くいた被災者に対してボランティアの人が、おむすびを用意した。それでみんなが助かったというエピソードにちなんで、この日になったんだって」
「へえ、善意で助かるとかっていいわね」

「17日に熱海に行くと聞いたから、どこかでおむすび食べようと思ってさっきコンビニで」
「あ、ビール飲み足りないって、ひとりで出かけたとき」
「そう、ビールも飲みたかったけど、本当はこっちだったんだ。せっかく頑張って早起きした朝活だから。その褒美として今食べよう」

 こうして洋平は鮭おむすび。春香は梅干しのおむすびを手に取り、そのまま口に含んだ。食感としては冷たいおにぎりであったが、どことなく心が温まる。
 すぐ近くには薄暗い貫一お宮の像があったが、こんなふたりにならないよう、心の中で誓いながら... ...。

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 チェックアウト後、はっきりとその姿が見える貫一お宮の像の前にいるふたり。洋平はスマホでこの像を撮影した。

「でも早朝のウォーキング良かったなあ。途中でおにぎりまで食べて」「うん、眠かったけど。やっぱり来てよかった。月もきれいだったし」
「早起きは三文の徳。確かにそんな気がする。よしこれから朝活を頑張ろう。戻ってからも家の近所も散歩しような」
「賛成! いつでもいいわ」ふたりは笑顔で像を見た。

「さて、そろそろ帰ろうか」洋平は時計を眺める。
「残念。今日はこの後、尾崎紅葉祭・紅葉筆塚祭が行われるらしいけど」

「じゃあ、ひとりで残れば。俺は昼からの勤務。メダカたちが待っている。遅刻したら親方に怒られるからな」
「ごめん! わかった。ねえ、置いていかないで」

 こうしてふたりは、自宅のある静岡の菊川。奇しくも2005年のこの日から複数の町が合併して市になった地域に戻るために、熱海駅を目指すのだった。



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シリーズ 日々掌編短編小説 362

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