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最終的にブリになる 第1056話・12.20

「ほろ苦い思い出は、人生の教訓になる」目の前にブリの造りを眺めながら海野勝男は静かにつぶやく。
「どうしたの急に、そんなことより早く食べたほうが」目の前では妻の沙羅がいて先にブリの造りに箸を持っていく。
「ああ、まあいいや食べよう」勝男もようやく箸を動かした。

 見た目からして霜降りのように白っぽく、かつ脂が浮きあがっているかのような光沢のあるブリの切り身の上にわざわざ原形の状態からすりおろした緑のワサビを乗せる。
 そのままワサビが落ちないように。箸は醤油の入った小さなプールにブリの身をつけた。そのまま箸を上昇させたかと思うと、口の中へ。気が付けばブリの切り身がきれいに収まっていく。さらに口の中ではブリの脂身がとろけるようにうまみ成分が広がった。のど越しまで味わえるブリの余韻、一瞬の至福のひと時だ。

 旬の魚を肴に飲むのはこの夫婦の楽しみのひとつ。大の魚好きな勝男が例によって会社帰りにスーパーに立ち寄ってブリの造りを買ってきたのだ。
「ブリの日らしいからな」帰ってきてそうそう、勝男は開口一番にそういった。

「やっぱり、寒ブリはいいなあ」勝男は口に含んだぶりが完全に喉に入る前に酒を口の中に運ぶ。
「それにしてもだ」また勝男が複雑な表情になった。いつもなら上機嫌に酒を飲みながらうまそうに魚を食べる勝男にしては珍しいのだ。当然、沙羅は気になって仕方がない。

「どうしたの?今日は難しい顔ばかりして、会社で何かあった?」心配そうな沙羅、だが勝男は首を横に振り、「いや、会社は問題ない。だがちょっとふと人生の事を振り返りたくなってな。今日ブリを買ったから余計にそんな気持ちが浮かんだんだ」そういうと勝男は、ふた切れ目に箸を動かした。

「ブリを買って、人生の事、あ、なるほど出世魚ね!」勝男の考えていることがすぐに分かった沙羅、さすがは夫婦というところである。勝男も理解してくれたことで憂いそうな表情。ふた切れ目のブリの切り身をうまそうに口を動かしながらまた酒を口の中に放り込んだ。

「そう、ブリほど成長具合で魚の名前が変わるのも珍しいな。地域によっても違う。だが、どんな地域でも最終的な呼び名はブリだ!」
 勝男は語気を強めた。沙羅は仕事の心配事のようではないので安心した。勝男は魚について熱く蘊蓄(うんちく)を、語るのはいつものことだ。

「確かに出世魚って、ほかの魚にもあるけどブリは地域によっても違うらしいからね」
「そう!これを見ろ」勝男は得意げな表情で一枚の大きな紙を広げた。
「え?」突然のことで沙羅は思わず目を見開いたが、よく見るとブリの呼び方を地域ごとに表にしているものである。

「魚の大きさが20センチだと、アオコ、ワカシ、ワカナゴ、ツバス、ツバイソ、コソクラと、地域によって呼び方がこんなに違うんだ」
 沙羅は箸をおいて表をじっくりと見る。「本当ね、40センチだと、イナダ、ハマチ、フクラギ、ヤズだっ。それが60センチにまで大きくなると、ワラサ、メジロ、ガンド、マルゴなのかぁ」
 沙羅も魚が好きである程度魚の知識はある。だが成長するまでのブリの地域ごとの呼び方の詳細を知ったのは初めてだ。さすがは夫だと感心する。

「地域によっていろんな呼び方があるのに、80センチを超えると全国どこでもブリになる。これ凄くないか?」熱く語る勝男、更は少し冷静になって、お酒に口をつけた。
「本当ね、これ、いつ調べたの?」「ああ、ぶりを買ってからの帰りの電車の中だ。前から気になったから思わず調べた」
「で、それを紙に書いたの?」「うん、その方がわかりやすいだろう」と、ドヤ顔をする勝男。ここでようやく言いたいことをすべて語り終えてほっとしたのか、ようやく酒を口に含んだ。

「まあ、あなたらしいわね。でもそれと人生訓とはどういう関係が?」「え?う、う、ごほっ!」しゃべり終えて酒を口に含んだ勝男、思わずむせてしまう。

「いや、あ、別に深い意味はない。出世魚って大きくなって名前が変わる。人の人生っぽいかなって思っただけだ」
 変な言い訳をする勝男。沙羅は意味深な笑みを浮かべて、「なるほどね。まあ私は深く考えずに、おいしいものを食べるのにするわ」
 そういって沙羅が箸を伸ばす。気が付けば残り一切れ。

「あ、あ!」勝男は「それは俺が」と、言おうとしたがやめた。沙羅は最後の一切れをおいしそうに食べる。沙羅がおいしそうに食べているのを見ながら、「今日も楽しく幸せに過ごせた」と、勝男は内心喜びながら酒を口に含んだ。


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シリーズ 日々掌編短編小説 1056/1000

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