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山の日の温泉旅館

「ニコールそろそろ起きたかな。連休中は休みなしって行ってたな」
 西岡信二は、取材で那須高原の山の中にいた。これは信二が企画して出版社に提案したもの。那須高原の山の中にある、温泉地二ヶ所の体験取材であった。

 この日、朝一番の新幹線で東京から那須塩原駅に降り立ち、そこからレンタカーを使って移動。午前中のうちに最初の取材先である、北温泉の日帰り入浴を済ませる。「しかし、北温泉は良かった。露天もいいけど、あそこはやっぱり内湯だな。あの温泉成分のせいで、色が変わっている壁の雰囲気が好きなんだ。さらに天狗がインパクトあった。あいつらに睨まれているみたいだったからな。映画『テルマエロマエ』の舞台らしいが、まあそれは個人的にはね」

 泉質が単純温泉の湯で午前中からリラックスムード全開。一件目の取材を終えると、車で行けるギリギリのところにある峠の茶屋にむかった。ここで車を止め、目の前の食堂で昼食。そしてここからいよいよ徒歩での登山が始まった。「目指すは三斗小屋温泉。北温泉も駐車場から少し歩いた先にあるから十分秘湯だけど、こっちは本格的に登山しないといけないからな。普段山登りしない者にとってはつらいわ。どうにかたどり着けるかな」

 そう独り言をつぶやきながら山を登る。登山道はしっかりしているので、余計な登山の装備が無くても上がれそうだ。リュックを担ぎ、真新しい黒い運動靴。ゆっくりと足を地面から外して上に向けた。振り上げた足は数十センチ先に着地させる。あとはそれの繰り返しだ。いつもなら何の抵抗もなく行える「歩く」という動作。最初はともかく、徐々に疲れてくる。いくら整備されているとはいえ、アスファルト舗装されていない山道。少し油断するとさまざまな大きさの石が転がっているから、足がそれに接触し、落としどころを見誤ってしまう。そうなれば身体全体のバランスが崩れる。それの繰り返しだから、いつも以上に慎重になり、余計な気を使った。

「しかし、暑い。立秋を過ぎたからもう秋で、これは残暑のはず。でもとてもそんな状況じゃないよ。汗出るけど水を飲もう」そう言って信二は水を飲む。幸い水は多い目に持ってきているからまだ余裕がある。頻繁に水さえ飲んでいれば、熱中症は予防できるだろう。しかしそれ以前に登山やハイキングの経験がほとんどない信二は、勾配のある自然の道を歩くこと自体が大きな負担なのだ。 

「しかしアイツ、こんなのが趣味か。何でトレッキングが好きなんだろう」信二は、好意を寄せているフィリピン人女性ニコール・サントスの趣味が、トレッキングと聞いた。だから仕事でもあるけど、少しでも登山に慣れておこうと思い込み、この企画を持ち込んだ。しかしそれが失敗ではないかと後悔の気持ちが膨らんでくる。
 本来なら那須高原の自然をゆったり眺めながらの楽しい登山道。しかし信二はそんな余裕がない。避難小屋と呼ばれる小さな建物を横で見ながら進むと、少し息が切れてきた。思わず犬のように口で息を吐く。そして足の裏も少し痛くなってきている。とはいえこの日は、山の上の温泉旅館を予約している。夕方4時までに旅館に着く必要があった。あくまで取材だから少し早目、出来れば3時過ぎには旅館につきたい。

 無間谷と呼ばれるところの橋を渡ると信二は時計を見た。ちょうど午後2時を過ぎたところ。予定では3時にはつきそうだ。しかし歩く速度が確実に遅くなっている。信二は気ばかり焦って体が動かないことに内心苛立った。ところが信二は急にめまいをした。「あ、目がくらむ。マズイちょっと近くで休憩だ」信二は少しよろけながら、腰かける所を探す。少し視力も低下していて目の前の風景がやたらと暗い。しかし座れるところをどうにか見つけたので、そこに腰かけると、体育授業のときのような三角座りをした。そして三角の先端近くに腕を置き、そこに顔をうずめた。

「大丈夫ですか」数分後にどこかで聞いた女性の声がする。「あ、いえ、ちょっと。休憩しているだけです。だいぶ落ち着きました。お気遣いなく」「そうですか。無理なさらぬように。もうすぐ先に延命水という水場があります。そこで湧水を飲まれたら元気回復すると思いますよ」「ありがとうございます」
 信二が親切に教えてくれる声の方に顔を向ける。すると一瞬驚きのあまり顔が引きつった。「あれ、ニコール?なんでここに」

 しかし相手の女性は、それを聞くと一瞬驚きの表情を浮かべ、「ち・違います」と、手を左右に向けながら慌てて否定。そのまま何かに怯えるように後ずさりする。
「あ、す・すみません」とっさに謝って頭を下げる信二。しかしその女性はすでに同行者の男性と、ともに山道を先に進んでいった。
「やっちゃった。ああ、もう運動不足がたたったなあ。バテただけでなく、親切な人に変な勘違いするようなこと言っちゃうし。取材が終わったら反省しよう」

 それでもこの休憩が良かったのか、水を飲むと少し体力が戻ってきた気がした。それから確かに少し歩くと「延命水」と書かれたところがあり、岩から水が湧き出ている。「味を見よう」と信二がこの湧水を口に含む。この水は冷たかったが同時に甘みがある。「おいしい。名前の通り生き返った気分だ」

 延命水からゆっくり歩いて40分ほどで、無事に三斗小屋温泉に到着した。時計を見ると3時過ぎ。予定通りだったので信二は安堵の表情を浮かべた。1泊するので、チェックインの手続きをしたあと部屋を案内される。10分ほどひと休みしてから温泉に向かった。源泉かけ流しという温泉は、露天風呂と内風呂がある。

「加水はしているが沢の天然水をつかっているか。まさしく野湯だな」
 信二は露天風呂に入る。幸い誰もいないので貸切状態。中性低張性高温泉という単純温泉が泉質という。だが入るとそんな泉質の違いは感じられない。それ以上にここまで登る際に酷使した足を中心とした身体全体が、一気に癒えるような気がしてならない。そして目の前は那須の大自然が一望できる。登山中に決して見るゆとりのなかった開放的な大自然を、ようやくゆったり眺められるのだ。

「山の日に山の中の温泉は最高だ。それに人工的な灯りがひとつもないのか。これは食事のあと夜も湯に入らないといけないな。今日は雨も降りそうもないし、満天の星空が期待できる」
 信二はゆったりと結局30分近く露天風呂に入ると、服を着て部屋に戻る。その途中で信二に声を掛ける者がいる。「あのう」振り向くと、さっきバテて休憩したときに声をかけてくれた女性ではないか!
「あ、あのときはすみません。疲れていて意識があいまいだったので、とんだ人違いを!」信二は慌てて大声で謝る。しかし女性は今度は驚かずに、笑顔の表情。「いえ、無事に旅館までに来られたんですね。ところであのとき『ニコール』って言っておられました?」
「あ、はい。知っている女性に似ていたもので... ...」

「実は私の妹に、ニコールというものがいるんです。あなたは御存じなのですか?」「え、ええ。あの、僕が知っているのは、ビアパブの店長さん」「あ、ひょっとして信二さん?」突然女性の声が明るくなり、信二の名前を上げたので今度は信二が驚きの表情をで目を白黒させる。「あ、え、あそうですが」
「あ、やっぱり。私はニコールの姉のマリエルです。妹がいつもお世話になっていると聞いています。まさかこんなところで!」

  信二は驚いた、まさかニコールの姉と同じ温泉旅館で宿泊するのだから。「い、いえこちらこそ。その妹さんには僕の方こそ大変お世話になっています」「やっぱりそうだったわ」マリエルは後ろの男性に声を掛ける。「あ。紹介します。こちら私の夫です」と、マリエルの斜め後ろで控えていた口ひげを蓄えた男性。さっきもマリエルと一緒に山を登っていた同じ人。
「どうも小田切です」「あ、西岡です。今晩同じ旅館でご一緒させていただき光栄です」そういうと、信二は小田切と握手をした。
「なんかすごい偶然だわ。あのう、食事の後ゆっくりお話しさせていただいても良いですか」「あ、ええ一応取材でここに来ましたが、食事が終わったら時間が取れます。何なら外に出てもいいですね。今日は天気がいいから星空もうつくしいですよ」
 そういうとマリエルは嬉しそうに「よろしくお願いします」と頭を下げた。その横にいる小田切もにこやかな表情。信二も笑顔で挨拶を返す。

「いやあ、あれがニコールのお姉さん夫妻。これはあの人たちと仲良くならないといけないな」自室に戻った信二は、取材とは別のプレッシャーを感じ始めるのだった。


追記:単独作品ですが、こちらの話と微妙につながっています。

今日は山の日だからGoogleも!

山の日

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こちらは39日目です。

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シリーズ 日々掌編短編小説 206

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