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子育て回想記~私たち大人が子どものためにできること~

今から10年前、
東日本大震災が起きた。

内陸に住む私たちのところでも
様々な被害が出た。

むしろ、
私たちの町は、
4月の余震で
大きな被害が出た。

我が家の辺りは
それ程ではなかったが、
少し離れた
主人の実家周辺の被害が
大きかった。

実家はかろうじて
住み続けられそうだったが、
家の中はめちゃくちゃで、
翌日から片付けに追われた。

春から、息子は、
幼稚園に入園の予定だったが、
おそらく入園式は
延期になるだろうと
思っていた。

ところが、
予定通り行われると知り、
こんな大変な状況の中でも
息子たちを受け入れる
準備をしてくれたことに
心から感謝した。

一方で、
この地震により、
多くの人が悲しみに暮れる中
自分たちだけが幸せでいることを
後ろめたく、申し訳なく
思う気持ちもあった。

息子の入園。
震災。
様々な感情が溢れた春だった。

その年の桜は、
あまりにも美し過ぎて、
涙がこぼれた。


無事に入園式を終えた
息子だったが、
1学期の間は、
体調も優れず、
登園を渋り続けた。

1学期ももうすぐ終わり
という頃になって
ようやく明るい兆しが
見え始めた。

そんな中
町でこんな噂が広がった。

この町に、
かなりの放射能が
降り注いだらしい。

噂は本当だった。

あの日の風向き、
そして地形。
色々な条件が重なって、
私たちの町にだけ
かなりの放射能が
降り注いだのだと言う。

現に、周辺の町より高い濃度の
放射能が検出されていた。

町の中でも、とりわけ
私たちの住む地域の濃度が高く、
幼稚園、小学校なども
この地域にあった。

夏休みの終わりに
幼稚園で
緊急の講演会が開催された。

講師の話に耳を疑った。

マスクをしていても
危険な状態。

……

その日まで
私たちは、普通に生活していた。

1学期、息子は、
幼稚園の園庭で
裸になって遊んだ。

息子が体調を崩した時
私は、せっせっと
庭のハーブを摘み
ハーブティーを飲ませていた。

どれもこれも
もう、全て過ぎてしまったこと。


思えば、震災直後、
たくさんの情報に混じって
かなりのデマ情報が流れた。
私たちは
全て鵜呑みにしないように
とお互い注意し合っていた。

その中に、

今すぐ遠くへ避難してください。

というものもあった。


講演会後、
地域に住む何組かの親子が
安全な町へ引っ越して行った。

皆、子どもの命を守る為だった。


娘の死が甦った。

まさか息子の命まで…。

私は、不安と恐怖で
いっぱいになった。

私たちもしばらく町を出よう

夫と引っ越しについて
真剣に考えた。

愛犬のことも考えると
どこでもいいという訳には
いかなかった。

住宅ローンとアパート代…
何度も電卓をはじいた。

両方の支払いや
新しい環境への不安を抱えながら
息子を育てていく自信が
どうしても持てなかった。

結局、私たちは
引っ越しを決意出来なかった。

引っ越していく人たちを
見送るたびに
それを出来なかった
自分に絶望した。



町の人たちの
放射能に対する考え方は様々で、
かなりの温度差があった。

家族間でさえ意見が分かれ
それに悩む人も大勢いた。

誰にでも悩みを相談出来る訳では
なかった。

幸いにも、
私と主人、主人の父母は、
同じ考えだった。
それは、
私にとって救いだった。

引っ越しは断念したものの、
ここで生きることを決めた以上
出来ることは全てする。
私たちは、そう心に決めた。

庭の小さな畑は花壇に変えた。
主人は、高圧洗浄機で
外壁や庭のコンクリートを
除染した。
私は、室内の水拭きを
徹底した。
放射能を除去する食べ物も
片っ端から調べた。
週末には、遠出して、
出来るだけ、
放射線濃度の低い場所で
過ごすようにした。

2学期からは
息子に事情を説明し、
マスクをさせた。

8月の暑い中、
ほとんどの子が
マスクを嫌がる中
息子だけは黙って
マスクをつけていった。
きっと、
私のただならぬ思いが
小さな息子に
そこまでさせてしまったのだと思う。

2学期からは、
園生活もガラリと変わった。
戸外での活動、時間が制限され
手洗いも徹底された。

運動会も、室内開催となった。

放射能の危険性と
子どもに必要な体験との間で
幼稚園の先生たちも
随分頭を悩ませていた。

おそらく
先生一人一人の考えも
様々だったと思う。

そんな折り
秋の遠足の案内が届いた。


えっ… 
遠足に行くんだ…。


ショックだった。

行かせたくない…。

でも…
息子にとって初めての遠足。

行かせるべきか…
いや…


悩みに悩み、
私は、結局、
欠席させることにした。

遠足の前後も
遠足の話題になるだろうと思い
当日だけでなく、遠足の前後も含め
3日間欠席させた。


幼稚園の遠足の日。

私は、80キロ離れた町に、
息子と2人だけで遠足に出掛けた。
そこは、水辺のある自然豊かな森。
もちろん、放射能の被害が
ほとんどない場所だ。

皆と同じように、
リュックサックに、
水筒、お弁当、敷物、おやつを詰めて…。

息子はそれはそれで
「楽しい!」
と喜んでくれた。

「それなら明日も来よう」

私は、翌日も同じ場所へ
息子を連れて行った。
そうでもしないと、
私が辛かったからだ。

そうして、
息子にとって
初めての遠足は、
クラスの友達とではなく
私との思い出に終わった。

息子は
皆と一緒に行きたかったとか
そういうことを
一切口にしなかった。
そのことが
余計に辛かった。

この遠足の件で
私は、一部の先生から
冷ややかな視線を向けられた。

この時、私の心の中は、
悲しみ、不安、怒り、切なさ
様々な感情でいっぱいだった。

心を閉ざすことも
争うことも
もちろん出来たけれど、
それをして
一体何になるのだろう
とも思った。

先生も
そして私も
子どものことを考えて
悩みに悩んで出した答えなのだ。
ただ、
それが違っていただけのこと。

私は、何度も自分にそう言い聞かせ
静かに耐えた。



間もなく、
今度は、
りんご狩り遠足の案内が届いた。

…‥…


今度は
遠くへりんご狩りに連れて行けば
良いというのか…。

息子の思い出を
幼稚園の楽しい思い出を
私が次々に奪っていくようで
辛かった。

悩みに、悩み
私は、息子に尋ねた。

「お母さんと2人で、
 前みたいに
 遠くにりんご狩りに行くのと、
 みかん組さんと一緒にいくのと
 どっちがいい?」

息子は少し考えてから
こう言った。

「お母さんは
 どっちが嬉しい?」

胸が張り裂けそうになった。

「〇〇が好きにしていいんだよ。
 その方がお母さんも嬉しいから」

そう答えると、
息子は嬉しそうに答えた。

「じゃあ、
 今度はみかん組さんと行きたい!」

「いいよ」
私は、笑顔で答えた。

これでいいんだ。
そう、これでいいんだ。

私は、息子を
笑顔で送り出すことにした。


数日後、
息子は喜んでりんご狩り遠足に
出掛けて行った。
そして、
大きなりんごを
おみやげに持ち帰り、
嬉しそうに見せてくれた。


ここに住み続けると決めたこと。
初めての遠足を欠席させたこと。
りんご狩り遠足に参加させたこと。
何かを決断する度に悩み、
決断した後も
これで本当に良かったかと
ずっと悩み続けた。


その年の終わりに、
担任の先生に、
連絡ノートを通して、
1年間のお礼と
これまで言えなかった
放射能問題での悩み、
葛藤について
全て打ち明けた。
遠足を休んだ理由も
この時はじめて明かした。

その後
先生からこんなメッセージが
返ってきた。

 遠足は、そんな思いもあったのですね。
 あの頃は一番
 放射能問題で揺れていた時期だったし、
 お母さんが悩んだ気持ちはよく分かります。
 でも、悩んだお母さんが出した結果が
 一番だったと思います。
 〇〇君のために一生懸命考えた
 そのことが〇〇君のために
 一番良かったことだと思います

涙が止まらなかった。

自分の中の罪悪感が
少しずつ溶けていくようだった。

先生のメッセージは
こう締めくくられていた。

これからも色々と悩むことが
多くなると思いますが、
皆で、一緒に考えていきましょう。
私も応援していきたいと思います。
一年間ありがとうございました。

私たちの町で
放射能問題が発覚してから2年程は、
農業をはじめ
子どもたちの暮らしも、
様々な制限を受けた。

約2年かけて、
田畑、公園、幼稚園、小学校で
除染が行われ、
一部を除いて
これまで通り過ごすことが
出来るようになった。
尿検査も実施され
息子の体に異常がないことも
確認出来た。



幼稚園最後の運動会は、
除染を終え、
放射能の数値が下がった
園庭で行われた。

息子の成長
そして放射能問題…
様々な思いがこみ上げ、
胸がいっぱいになった。

これが、私たちが
息子のためにしてあげられた
精一杯のことなんだ。

これで良かった、
これで良かったんだ…。

この頃、ようやく、
ここで暮らしていくことに
折り合いをつけられるように
なっていた。



10年経った今でも
あの時の選択が
正しかったのか
間違っていたのか
それは分からない。

けれど…

たくさん悩んで
あたふたして
ぐらぐら揺れて
それでも
息子の為に
必死に頑張っていた
あの頃の自分を

今は心から愛しく思う。


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