見出し画像

愛するということ、愛されるということ、許すということ、受け入れるということ…

私の父は
亭主関白で
女と子どもは黙ってろ
というタイプの人だった。

自分の思い通りに
ならないことがあると
よく周囲に当たり散らした。

幼い頃から
しょっちゅう
とばっちりを受けていたが
幸いにも
暴力だけは振るわれなかった。

大人になって、
阿川佐和子さんの
お父さんの存在を知った時
父のような人だなと
思った。

我が家はいつも
父中心で回っていた。
私はそんな父のことが
とても恐かった。

それでも
子どもを養う
と言う意味では
父はその役割を
ちゃんと果たしていたし、
子どもに興味がないか
と言ったら、
そうでもなかった。

子育ての在り方としては
決して良いとは
言えなかったが
父の期待通りのことをすると
過剰に褒めてもくれた。

一緒に暮らしていた
父方の祖母は、
世間体を気にする人だった。
祖母にとっては
事実より、例え嘘でも
周りに良くみられることが、
何より大事だった。
だから、
来客への挨拶、態度などには
人一倍厳しかった。

私の祖母に対する
複雑な思いについては
ここでは
これ以上は触れない。

母は、私を褒めなかった。
全くと言っていいほど。

それでも、
父が恐かったこともあり
私は母にべったりだった。
何かにつけて、
お母さん、お母さんと、
母を頼ったので
家族にも
「なおみは本当にお母さん子だ」
と言われていた。

ただ、私には
母に愛されているという 
実感があまりなかった。
  
父や祖母の愛も
真の愛情とは
言い難いものだったが
母の愛情は、
子どもの私には
本当に分かりにくいものだった。

それでも、
私が幼い頃の
数少ない写真の中には、
母が私を抱き、
優しく微笑んでいる写真が
いくつかあった。

それを眺める度に
確かに
私は愛されていたと
思うことが出来た。

微笑んだり
抱きしめたり
手をつないだり…

物心ついてからの
母とのスキンシップの記憶がない。

忘れてしまっただけ
なのだろうか…。

よくやったね
えらいね
すごいね
かわいいね
頑張ったね
大好きだよ
愛してるよ…
そんな風に言われたこともない。

それも、
忘れてしまっただけ
なのだろうか。

母に
「お母さん」
と纏わりついた時に
「ベタベタしないで」
と嫌がられたことが
強烈な記憶として
残ってしまっただけ
なのだろうか。

記憶を塗り替えてしまったのか
自分でも良く分からない。

母は、私のことを
好きではないのでは…
と言う思いが
私の中にずっとあった。

私は、
7歳の頃に家出をした。

警察に保護され
夜遅く家に帰された。

母は、すっかり
憔悴しきっていて
何も言わずに
ずっと
泣き崩れていた。

でも、
私は、なぜ母が泣くのか
正直分からなかった。

泣くほどに
私を愛していたと
思えなかったからだ。



私は、
5、6歳の頃から
ピアノを習っていた。
実家に、
昔、叔母が使っていた
古いオルガンがあって、
それで私が毎日
遊んでいるのを見て
こんなに好きならと
父と母がピアノ教室に
通わせることにしたようだ。

毎週、
隣町のピアノ教室まで
母は、車で送り迎えをしてくれた。

習い始めた頃は、
叔母の古いオルガンで
練習していたが、
小学1年生か2年生の頃
父と母が突然
ピアノを買ってくれた。

私は、父母が
私のために
こんなに大きな買い物を
してくれたことに
正直とても驚いた。

なぜ私のために…
不思議で仕方なかった。

家にピアノが届いてから
ますますピアノが
好きになった。

父もそして母も
ピアノには興味がなかった。
 
家でピアノを練習している時も
発表会を見に来た時でさえ、
母は私の演奏について
特に何も言わなかった。

それが寂しかった。

中学生になり、
勉強や部活で忙しくなり
練習が思うように
出来なくなってからも
ピアノ教室を辞める
という決断が
どうしても出来なかった。

理由は
よく分からない。

ピアノを辞めるということが
自分の大事なものを失うようで
怖かったのかもしれない。

人より少しだけピアノが弾けること
そのことが、唯一
自分の心の支えに
なっていたからなのかもしれない。

結局ズルズルと
高校生まで教室に通った。
最後の方は
練習しないままレッスンに
通っていた。
もう何のために通っているのか
分からなかった。
高校2年か、3年の時に
受験勉強を理由に
ようやく
ピアノに通うことを辞めた。

もしかしたら、
ピアノを習わせてくれたこと
ピアノ教室に送り迎えしてくれたこと
それが母の愛情の証
そんな風に思いかったのだろうか…。

最後の方は
ただダラダラと
続けていただけの
ピアノだったが、
ピアノは、
私の人生を
豊かにしてくれた。

小、中、高と
合唱でピアノ伴奏をした。
自分の弾くピアノと
皆の歌が1つになる…
それは
何とも言えない感動だった。

大人になってからも
幼稚園の仕事、
学校でのボランティア活動など
様々な場面で役に立ち、
たくさんの感動、喜びを
味わうことが出来た。

今現在、日常的に
ピアノを弾くかといったら
残念ながら、答えはノー。

目的がないと弾かない。

今は、もっぱら、
癒やしのピアノ曲を、
聞くことが
日課になっている。

ピアノの優しい調べは
私の心の琴線に
過剰なまでに触れ、
時には涙が止まらなくなる。

バイオリンでもなく
オーケストラでもなく
ギターでもなく  
私の心を一番穏やかに
癒してくれるのは
ピアノの曲なのだ。

そう。
小さい頃から
慣れ親しんできた音。



結婚前のある夜のこと。
母と話をしているうちに、
思わぬ方向に話が展開した。

どうして
お母さんは、私のこと
褒めてくれないの?

私のピアノを
一度でも
褒めてくれたことがあった?

ずっと、お母さんは
私のこと好きじゃないのかと
思ってた…。

黙って聞いていた母は、

そんな風に思ってたの…

と言った。
そして、
こう続けた。

父と祖母の
褒め方が嫌いだった。
自分勝手で、
嘘があって…
こんな風に褒めたら
なおみが駄目になると思った。

それで、
母は
過剰に褒めないと
決めたのだと。

それは違うんじゃないお母さん…

私は
心の中で叫んだ。

それは
私のためと言うより
父や祖母への反抗にも思えた。



母は決して泣くまいと
涙をこらえていたが、
母の目からは
涙がこぼれていた。

すぐには、
私の言葉を
受け止め切れない様子だった。

その後、
この夜のことを
再び話題にすることはなかった。


結納の後、
義母に言われた。

「なおちゃんのお母さんがね、
 なおちゃんにこんなこと言われたって
 話してくれたの。

 あんまり褒め過ぎると
 この子が駄目になると思って、
 出来るだけ褒めないように
 してきたけれど、
 なおみに悪いことしたって」

母のやり方は
あまりにも極端で不器用すぎた。

それでも、
愛する娘のために必死にやってきた。

そのことが分かっただけでも 
良かったと心から思った。

一方
母は、どうだろう。

きっと悲しかったに違いない。

最後の最後に
嫁ぐ娘に、
こんなことを言われて。


母は、集団就職先の
関東のパン屋で、
同じく出稼ぎに行っていた
父と出会った。

父と母は
同じ東北出身ということで。
意気投合し、
結婚を意識するようになった。

しかし、母は、
父との結婚を
家族に反対されたと言う。

母は、7人兄妹の末っ子。
母の父親は、幼い頃から病弱で、
母にとっての父親の記憶は
布団に寝ている姿だと言う。
中学生の頃に父が他界し
それ以来、
父親代わりだった兄は、
母の結婚に猛反対した。

農業経験の全く無い母が
大きな農家に嫁ぐことを
案じてのことだった。

最終的には
一緒に暮らし
農業とはどういうものかを
経験をした上で
もう一度考える
ということになったらしいが
嫁を手放したくなかった
父の家族が、結婚を急ぎ、
あっという間に
結婚が決まってしまったらしい。

家族に認められないままの結婚。

だから、母は、
どんなに辛くても
実家の家族には
弱音を吐けなかった。

知らない土地に嫁いできて、
知り合いが誰一人いない中
初めての農作業に悪戦苦闘し
ワンマンな父に振り回され
祖母に嫌味を言われ…
それでも
歯を食いしばって
必死に頑張ってきた。
兄と私が産まれ
もはや身動きがとれなくなった母は、
ここで生きていくしかない
と覚悟を決めたのかもしれない。

きっと
誰よりも
愛を必要としていたのは
私ではなく
母だったのかもしれない。

いつも枯渇していた母。
だから
私たちに上手に
愛を渡せなかった。


私は
そのことを受け入れ、
許すまで
ずいぶん時間が
かかってしまった。

けれど、
今はもう、
母そして、
父や祖母に対する
わだかまりはない。

祖母は2年前に他界した。
最後の10年程は
介護が必要となり、
特に晩年は痴呆が進み、
あの頃の厳しさは、
跡形も無くなり
祖母は子どもへと
帰っていった。
そのことが
皮肉にも
祖母を許すきっかけとなった。

祖母と最後の時間は
穏やかに過ごすことが出来た。

今は父と兄がぶつかっている。
反抗期のなかった兄が
大人になって
反抗期のやり直しをしているのだ。

一緒に暮らしている
母の悩みは尽きないが、
これも
子育ての代償
なのかもしれない…。

実家は、
私が小さい頃から
いつも色んな問題が山積みだった。

その度に、
何とか和解してほしい…
皆幸せに暮らしてほしい…
そう思って
私なりにやってきた。
けれど、
どんなに頑張っても
どうにもならなかった。

そう。
これは、
父、母、兄、祖父母
それぞれの問題であり、
課題であって
本人がその問題、課題と
向き合おうとしない限り
いくら周囲で
どうこうしようとしても
どうにもならないことなのだ。

そのことに、
ようやく気付いた。

誰かを変えることなんて
出来ない。

出来るのは
私が変わることだけ。

だから、今、
私は、
自分を満たすことを
大切にしている。

あとのことは
全て祈りに変えて…。

家族が幸せに暮らせるように…

母が残りの人生を
自分を大切に
生きていけるように…



ふと思った。

結婚前のあの日。
母を泣かせてしまったこと。
傷付けてしまったことを
あやまろう。

私を育ててくれてありがとう
ピアノを習わせてくれてありがとう

そのことをちゃんと伝えよう。


それが
今の私が
無理をせずに差し出せる
精一杯の優しさだから。


そして
いつかもう一度
母に、
ピアノを聞いてもらいたい


もし、
たった一言でも、
褒めてもらえたら…

いいえ、
褒めてもらえなくてもいい。

もう十分
分かっている。

母は私を愛していると。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?