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静かでありきたりな残酷さの中から希望を見つめる

明日で、21歳になる。

今日は生まれて7669日目らしい。

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ここまでよくがんばってきたなあ。

最近、格差にまつわる本を重点的に読んでいるから、自分の境遇を振り返って余計にそう思う。

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世帯年収が200万円未満と1200万円以上1500万円未満では、大学進学率に48%の開きがある(前者は28%)。

ちなみに、400万円未満では31.4%、600万円から800万円では49.4%、1000万円~1200万円未満では62.4%だという。

我が家は、200万円未満の位置にいる。

母が従事しているのは時給800円程度のパート労働。2つかけ持ちしている。これで2人の子供を育てているから偉大だと思う。

具体的な数字は聞いていないけれど、母方の親戚一同もだいたいこれより少し高いか同じくらいの水準で生活していて、たしかに、大学へ進学できたのは12名の従兄弟たちの中で僕を含め3名だけだ。親世代には一人も大学進学者はいない。

僕が小さい頃から、親族たちは貧しいながら支え合っていた。それでも、解決しないことだって多々あった。たいていは、お金があればそもそも問題にもなっていなかったり、やり直したりできたことだったように思う。

母は5人兄弟なのだけれど、4人は2人以上の子持ちでありながら、離婚を経験している。たまたま修羅場に遭遇する機会も数回あった。

必要なこと全てに十分なお金が回せない場合、人は配分をめぐってどちらも正しいことを主張しあって喧嘩をする。喧嘩の後でお互いが後悔し、衝動的に何かで発散し、そのことに余計にイライラし、また喧嘩をする。離婚前の僕の両親はそんな様子だった。

もっとも大切な人(家族や友人)たちに対する無力さと、それに伴う申し訳なさには耐え難いものがある。親に雀の涙の仕送りをする身になってから、弟に対してそれを日々感じている。

親族は、母に限らず精神科に通っている率が高い。僕も中学以降はしばしばお世話になった。最近は大学で無料のカウンセリングに通っている。

一般の人は、なぜかカウンセリングを受けることにハードルを感じているようで、そういった姿勢は理解できなくもないが、カウンセラーの元へ通うしかない人には窮屈な思いをさせている。

現代社会の利便性、快適さの多くが、アンダークラスの低賃金労働によって可能になっている。 しかし彼ら・ 彼女らは、健康状態に不安があり、特に精神的な問題を抱えやすく、将来の見通しもない。しかもソーシャル・キャピタル(親しく頼りにしている人の数など)の蓄積が乏しく、無防備な状態に置かれている。
『新・日本の階級社会』橋本健二著

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大学には、親から仕送りをもらっている子がたくさんいる。

生活費・学費はもちろん、プラスで小遣いをもらっているという人までいる。その上で少しバイトをして、飲み会や旅行やライブイベントに足を運んでいるのだ。

対して僕は、休学しライター活動で収入を得て、自分の生活費をまかない、親に仕送りをしている。

休学以前、彼らのような子たちに「今度〇〇行こうよ」と誘われることがあったけれど、正直断るのがしんどかった。

「ちょっとバイト頑張ったら行けるのに」なんて別に当たり前に言ったんだろうけど、こちらはうすく深呼吸をして「そうだね、でもごめん」と答える他ない。

まあ、ライブや飲み会に行けるのを特にうらやましいとは思わないから構わないけど。むしろ学業や趣味に集中できることがうらやましい。中学の時から、家を本で埋め尽くすのが夢だ。

本は、不登校だった中学時代の僕を救い、以後も僕の楽しみを担保し続けている。高校時代は、自らつながりに行った大人の方々に本をたくさん買っていただいた。カビやすい家にあったけれど、大切に保管していた。

それも全部大学へ行くために売ってしまった。

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お金に余裕のありそうな子はたいがい健康的で、たとえ病気になったとしてもダメージが少ない。

小さい頃からしっかりと栄養を摂っているとか、健康的な生活習慣を身につける機会にも恵まれていたとか、両親ともに健康体でその遺伝子を受け継いでいるとか、いろいろ要因があるんだろうなと思う。

僕は、生まれた時から病弱だった。幼稚園入学の時「5歳まで生き伸びたのは奇跡だ」と親族が口を揃えて言ったという。

6歳の時には、病気の発覚が遅かったために全身麻酔の手術を受けている。しばらく車イス生活をしていた。

発覚が遅れたのは、母が運転免許を持っていなかったからだ。大きい病院に行く足がなかったのである。深刻な状態になってようやく、車を持つ人に頼って病院に行けた。

弟は、車がなかったため入りたかった部活に入れなかった。送迎可能な人しかバスケも野球も許されなかったのだ。

そもそも母自身、結婚するまではかなり病弱だったらしく、そのため親族でも最も収入の低い家庭を築く結果になっている。

20代で貧困に加え心身に重い問題があれば、高卒もやむを得ないし、正社員としての入社は難しいだろう。

そこから20年ほどの人生でさらに、離婚に至るストレス、頼れる人の少なさ、収入面の不安、病弱な長男を含めた2人の子供の育児も重なれば、自殺や心中みたいな悲惨な結果になってもおかしくはなかったと思う。

いつも笑って息子二人を育ててくれた母には感謝している。

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親族の誰それが、アル中、ギャンブル依存で借金、自己破産、仕事で大怪我、入院、精神的な病気で学校に行けなくなった。

こんな話がひっきりなしに伝わってくる。犯罪者が出ないだけ誇り高い一族だと思う。

全員が貧しい故にお互いを頼りあっているから、誰かにトラブルがあるたびにみんなでお金を出し合い、車を貸し、お見舞いに行く。

互助の精神で素晴らしいと思うかもしれないけど、これは生き延びる代わりに全員が貧困状態を抜け出せないようになる仕組みでもある(もちろん、誰かが生き延びられなくなるよりマシ)。

個人的には、親族の外側にいる人に頼ればいいのにと、昔からそう思っていた。初期条件という恩恵を受けている人から助けてもらってもバチは当たらないだろう、と(今はそう考えてはいない)。

でも、彼らには「外の人には迷惑をかけたくない」という意識が根強くある。何も提供できないのに、金の無心をするなんてできない、迷惑がかかると思っている。

母に至っては、社会の中で自分に価値があるとはなかなか思えないのか、なんとか時間を捻出して資格の勉強をしても、なぜかそれをお金に変えようとしない。無料で人を助け、感謝され続けても、一向にお金をもらおうとしないのだ。

美徳としてはわからなくもない。正しいことなのかもしれない。けど、なんとも言えない哀しさを感じた。

林修先生が「年収〇〇〇万円以下は国のお荷物」という発言をしていた時に感じた胸の痛み似ている。

苦しい状態からは自力でしか抜け出せないの?
何もできない時、人を頼ることは迷惑なの?
懸命に生きても、僕らはお荷物なの?

単純に言えば、こんなことをグルグルと考えて起きているのが嫌になった。

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僕や母には、お金がない。

お金がなくて苦労していることも多いし、他の人が当然のように享受していることを諦めたことだって多々ある。

だから、腹の底から「稼ごう」と思うことも多い。

けど、母はネットを使いこなせないし、学習力もそんなに高くはない。働いた後はクタクタにはなるものの、今の職場は楽しいし、自分が抜けると迷惑がかかるとも固く信じている。

たぶんこの先もずっと給料が上がることはないとほぼ言い切れる。

一方、僕の方はライターという比較的収入が変動しやすい仕事をしていて、若さもあり、ビジネスで活躍されている方とのつながりもある。稼げる可能性は十分ある(と信じている)。

けど、心身の状態にはどうしても起伏がある。平常でもまあまあ脆いが、下り調子の時はとことん何もできなくなる。

だから、少しずつ体を鍛え、ライティング単価を上げつつ、極力生活コストを下げ、ゆとりあるレベルの活動で稼ぎ続けようとしている。無理は禁物だ。

「勝負所では無理をしてでも頑張れ」「貪欲にいろいろやれ」と言う人もいるが、その助言は相手を選んだ方が良いと思う。

もし僕が一度でも倒れたら、おしまいだ。1ヶ月も入院しないといけなくなったら家族に取り返しのつかない迷惑がかかるかもしれない(体だけは丈夫で、家族に仕送りする必要もないのであれば、路頭に迷うことは動画や記事のネタになるかもしれないが)。

そうならなくても、契約の不履行が続けば、仕事を失うことにつながる。3ヶ月に一度ぶっ倒れる人に仕事を任せようとは思わないだろう。

そんなわけで、僕はいろんな選択肢を意図的に無視して、非常にゆるく時間をとっている。近くにいる事情を知らない人から見れば、単なる怠け者にしか見えないかもしれない。

そういうふうに見られていることがひしひしと伝わるコミュニケーションをとってくる人もいる。

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これだけは伝えておきたいのだけど、僕も家族も、不幸だ惨めだと感じているわけではない。それなりに生活を楽しんでいる。

これは正直な感想だ。

実家に帰ると、弟も母も冗談を言ってよく笑っている。母は、スピリチュアル系の動画や中古の自己啓発本で元気を出している。

二人とも、自分の人間関係に満足している。少なくともそう見える。

だからこそ、自分が苦しい時、つい思ってしまう。

貧しいのと不幸なのは違う。僕が無理に稼げるようにならなくても、きっと彼らは不幸にはならないだろう。ずっとこのままでもいいんじゃないか。

「つい思ってしまう」なんて言うと悪いことみたいだが、実際合っていると考えている。

この国にいる限り、どの道なんとか生活はできるだろうし、もしそうならどん底の不幸にはならないだろうと想像できるからだ。

それでも、「つい思ってしまう」と言ったのは母の精神科の薬の量や弟の進路の話を聞いて苦労を知っているからで、この安定が全然持続的なリソースの上に成り立ってるとは思えないからだ。

いや、楽しめてるならいいのではとも考えられるけど、弱り続ければどこかで致命的に断ち行かなくなる可能性がある。事はそう簡単ではない、と思える。

僕が何をしても状況は変わらないかもしれないし、むしろ余計なお世話になることだってあるかもしれない。それでも、何もできずただ大切な人の苦痛を見つめるか助長するしかないような事態はできるだけ避けたい。

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僕の家はたしかに貧しい。

でも、もっと貧しい人はたくさんいるし、同じような収入でも病気があったり、親族関係がなかったり、暴力に悩まされていたりすればもっと厳しいだろう(貧しい人以外にだってもちろん深刻な苦しみはあるに違いない)。

本当に苦しくても、僕のように押し付けがましく「助けて」と叫んだり、状況を発信したいはできない人だってものすごくいるはず。

もちろん、世界を見渡せば、さらに深刻な事態も見つかるだろう。

残酷さは静かで、あまりにありきたりな出来事なのだ。

だから、私たち如きが神様以外に助けを求めるべきではない。

母なら必ずそう言う。

でも、僕はすでにたくさんの人に助けを求め、サポートしていただいている。「助けて!」と思いの丈を書いたnoteに入った投げ銭で飯を食べた。知り合った方に誘われ食べさせてもらう日もある。

僕のやったことは恥ずかしいことなのだろうか。

いつか自分のできることで社会に貢献していけると信じるからこそ、ここでどうしても折れたくなくて頼った。

それはずるいことだったのだろうか。無心をするくらいなら体を酷使してでもがむしゃらにがんばるべきだったのか。

モラルとして、誰かが自らの意思で助けてくれるまで、親族以外のコミュニティに自分の苦しさを伝えたり助けてと叫んだりしてはいけないのか。

こういうことを考えるから、僕のnoteは発信内容がブレてしまうのだ。

ただし、一貫して言えるのは断じて誰かが悪いと言うつもりはないということ。

もうすこしだけ生きやすくなればなと思っているだけだ。

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今日書き綴ってきたこととは反対に聞こえるかもしれないけれど、僕はほんとうに恵まれていると思っている。

だって、今日書いてきたような状況にありながら、今こうして生きているし、誰にも恨みや妬みを持っていないんだから。一つの成功と言っていいと思う。

今車椅子でなく自分の足で歩けているのも、大学に入れたのも、心が弱い割に完全には打ちひしがれなかったのも、ライターとなれたのも、完全に関わってくれた人たちのおかげだ。

親戚、学校や塾の先生、富山で出会った方々、お客さん、noteの読者のみなさん、友人たち、そして母と、いつも支えてくれる彼女。

何もなかった僕に価値を見出してくれてありがとう。

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自分の足で歩けるのも、お金の心配をさほどせず進学できるのも、精神科に行かなくて済むのも、普通に生活するだけのお金が稼げるのも、ある種の人たち(むしろ多数派?)にとっては当たり前のことだと思う。

そういう人は、これらが満たされているからといって「もう何もいりません。幸甚の至り」などとは思わないだろうし、これ以上人に頼るのは申し訳ないなどとは感じないだろう。

それは、素敵なことだと思う。

その人の周りにいた人たちが、押し付けがましくない形でたくさんのものを与えてきた証拠だ。

だから、誰かに対して当たり前にもっと感謝しなさいみたいなことは特に思わない。自由にすればいい。

けど、こういう感覚があることは理解してほしいなというエゴもある。

特に貧乏な人や現状維持を望む人に「どうしてあいつは今の状況を変えようと思わないんだろう?」「お前そんなとこで満足してていいのか?」と思わずにはいられない人には。

至極当たり前のことだけれど、与えられている状況は一人一人違う。

ある人にとってわかりやすい尺度で僕が成長・進展していくことが僕にとっての幸せとは限らない。

文句を言うつもりなら、まずは集中し、理解を示すところから始めてほしい。打ちひしがれている人をさらに軽蔑して貶めないでほしい。

…と、理想を訴えるだけで終えることはできない。


なぜなら、今の僕は次のことも理解しているから。

今日僕がしたような話を心優しい聞き手が理解した瞬間、たいていは境遇への感謝より、別のことへの申し訳なさが広がることが多いのだ。

私なんか甘やかされて生きてきて、あなたの苦労も知らないで…と。

でもそんなの謝ることじゃない。他の人の境遇なんて知らなくて当然だし、誰にだってその人なりの苦労があり、喜びがある。

人の苦悩や喜びに大きいも小さいもない。その人にとって大事なことは、大事なことだ。

僕は別に懺悔してほしいわけでも、この先を申し訳ない気持ちで生きてほしいわけでもない。

それで、最近はこういうことを口で言うのをやめることにしている。話は複雑で、断片だけを伝えると違った伝わり方をしてしまいそうだし、全て伝えようとするには長すぎるから。

代わりに、誕生日前夜にこうして書いている。文章なら全部書いて置いておけばいい。


僕は、世の中の人々が嫌悪、憎悪、嫉妬、軽蔑、罪悪感からではなく、感謝と応援、ただ誰かを喜ばせたい、自分が楽しみたいという気持ちから動く社会を望んでいる。

今だっていくらかそんな社会ではあるし、これからもっとそうなっていくと思う。たくさんの人たちが動いてきた結果だ。その流れを前に進める人の営みに、僕も加わりたい。




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