輪廻の風 2-26


ロゼは生まれて初めて劣等感に苛まれた。

大国の王族にルーツを持つロゼは、これまでの18年間の人生で、他者に対して劣等感を抱いたことなど今までただの一度もなかった。

そのため、自分でも今感じているこの感覚の正体が"劣等感"であるということに気づいていなかった。

イヴァンカと目が合った時、ロゼはまるで大空を天翔ける神聖な龍を、土の上から見上げるだけのミミズになったような気分になった。

イヴァンカは"叡智の権化"のような存在だった。

その佇まいと眼力からは、計り知れないほどの知性と品格を感じた。

まるで生きとし生ける全ての生物の深層心理、そしてこの世のありとあらゆる物事の本質と真理を見透し、解き明かしているような眼だった。

この男は、本当に神なのかもしれない。
ロゼは本能でそう感じていた。

「お前ら…ラーミア連れてさっさと逃げろ…。」ロゼは微かに声を震わせながら言った。

「は?何言ってんだよ。お前を置いて行けるわけねえだろ。俺たちも一緒に…」
エスタがここまで言いかけた時、ロゼは大声をあげた。

「いいから行け!!これは命令だっ!!」

あまりにも取り乱し、著しく平静さを欠いてあるロゼに、エスタ達は驚きを隠せなかった。

「大将首がノコノコ現れてくれて助かったぜ?ここでテメェの首をとれば…俺たちの勝ちだ!」ロゼは槍をイヴァンカに向けた。

イヴァンカは、槍を向けられているというのに腰に差している剣を抜くこともせず、身構えることもせず、ただ立ち尽くしているだけだった。

「…構えねえのか?」

「構えていないように見えるかい?」

「…剣くらい抜いたらどうだよ?」

「そうか、君には私が剣を抜いていないように見えるのか。ロゼ王子、君の底はもう見えたよ。」イヴァンカは言った。

「何言ってんだお前…誰がどう見ても抜いてねえじゃねえかよ、舐めやがって!」
ロゼは苛立ちながらそう言って、イヴァンカに攻撃を仕掛けようとした。

ロゼが半歩前に進んだ瞬間、ガキンと太刀音が聞こえた。

そして、ロゼの槍は後方へと飛ばされてしまった。

イヴァンカは定位置から動いていない。
無論、エスタ達も何もしていない。

しかし、確かにロゼは何かに自身の槍を弾き返された。そして、槍を握っていた右手は若干痺れてもいた。

何が起きたのか理解が追いつかず、とりあえずロゼは即座にバックステップをして後方へと飛ばされた槍を右手に持ち直した。

槍を手に持ち立ち止まったロゼは戦慄した。
なんと、真後ろにイヴァンカが立っていたのだ。

振り返りイヴァンカと目が合うと、とてつもない恐怖に襲われて立っていられなくなり、その場に跪いてしまった。

部屋中にイヴァンカの禍々しい邪悪な気が張り詰められ、エスタ達もアマレットも、ラーミアも立っていられなくなった。

「…こいつは…格が違いすぎる…。」
ロゼは絶望の果てに、そう呟いた。

「勇敢なるバレラルクの戦士達とそれに加担する裏切り者よ…悪いが君たちには死んでもらうよ。」イヴァンカが言った。

すると、部屋にマルジェラが入ってきた。

「お待ちください、イヴァンカ様。」

「マルジェラ、何をしにきた?」

「貴方様の剣はこの様なハエ共を斬るためにありません。そのような雑務は、私の仕事です。」マルジェラが言った。

「マルジェラじゃねえか…久しぶりだな?」
ロゼはマルジェラとの4年ぶりの再会に、懐かしさを感じていた。

すると、マルジェラはロゼの頬を蹴り飛ばした。

「痛えな…何しやがる!?主君の顔を蹴り飛ばすなんて不敬罪だぜ?」
ロゼは苦笑いをしながら冗談交じりに言った。

「いつまで主君のつもりでいる?ロゼ、俺はとっくの昔にお前らウィルアート家は見限っている。私は今、イヴァンカ様に忠誠を誓っているんだ。そしてその忠義は、この世のどの深海よりも深い。」
マルジェラはロゼを見下ろしながら冷たく言った。

エスタ達はロゼを助けようとしたが、イヴァンカの邪悪な気によって身動きがとれず、声を発することすらままならなかった。

「マルジェラ、エンディはどうした?君は彼の討伐に向かったと小耳に挟んだのだが。」
イヴァンカが尋ねた。

「御安心を、イヴァンカ様。エンディは…殺しました。」

マルジェラはこの上なく冷酷な表情で言った。

それを聞いたロゼとエスタ達は、驚嘆していた。

ラーミアは顔が青ざめ、言葉を失い放心していた。

「死体はどうしたのかな?殺したと言うのならば、生首の一つくらい持ってくるのが常識だろう?」

「奴の肉体は我が両翼から放たれた刃の雨によって、肉塊すら残らぬほど変わり果てた姿になりました。あの様な汚物、貴方様にお見せするのは少々無礼が過ぎるかと。」
マルジェラは淡々とした口調で言った。

「そうか…君がそう言うのなら、私は君を信じるよ。」
イヴァンカはマルジェラの目を凝視しながらそう言った。

ラーミア達が絶望的な表情をしている一方で、ロゼだけは至って冷静な表情をしていた。

「マルジェラ…俺はお前を信じているぜ?」
ロゼは優しく微笑みながら言った。
それは紛れもなく本心であった。

マルジェラは、そんなロゼを容赦なく斬った。

ロゼは体から血を流し、倒れそうになった。

背が床につく寸前で、ロゼは槍を大きく振るって自身の立っている床と、それに直結する壁を力一杯切りつけた。

その亀裂は広範囲に及び、ロゼ、エスタ、モエーネ、ジェシカ、ラーミア、アマレットの立っていた場所が崩壊し、外界へと落下していった。

このままこの場所に長居するのは危険すぎると判断したロゼは一か八か、仲間を連れて外へと逃亡を図ろうと画策したのだ。

しかし、地上までの距離はおよそ800メートル、かなり無謀な逃走劇だった。

ロゼ達が落下する寸前、マルジェラは涼しい顔をしながらおそるべき速度でラーミアを捕らえた。

ラーミアを除いた5人は、そのまま濃霧の立ち込める外界へとなだれ込み、落下していった。

「ロゼ王子!みんなっ!!」
ラーミアは悲痛な叫び声をあげた。

「家臣を道連れにして自滅を図るとは、愚かだな。イヴァンカ様、これで侵入者共の排除は完遂致しましたね。」

「排除?妙な事を言うね。まだロゼ達の生死は確認していないじゃないか。」
イヴァンカはどこか圧力のある言い方をした。
しかしマルジェラは、一切物怖じしていなかった。

「この高さから落下したんです。奴らはエンディ同様、原型を留めない程醜い姿になっていますよ。」

「そうか。君がそう言うのなら、私は君を信じるよ。」イヴァンカは優しく言った。
その言葉は本心なのか、内心では一体どう思っているのか、マルジェラはイヴァンカの底を推し量ることが出来なかった。

「死んでないよ!エンディも…ロゼ王子達も!絶対生きてるよ!私はそう信じてるから!」ラーミアは今にも泣きそうな表情で言った。
しかしその瞳の奥からは、真っ直ぐな力強さを感じた。

「信じる…か。果たしてこれほど無価値な言葉があるだろうか。人が何かを"信じる"と口にした事柄は、その過半数は成就することが叶わないのが現実だ。それは、信じると口にした者も、実は頭の中では叶わぬ事だと理解出来ているからだ。そういった自信の無さから目を背けるために、人は"信じる"という言葉にすがり、現実から目を背けて自分を保っているのだよ。」イヴァンカは皮肉を込めた言い方をした。

それでもラーミアは、変わらず一点の曇りもない強い目をしていた。

「さあ、おいでラーミア。君は余計なことなど考える必要はない。君は、私を不老不死にする術を習得することだけに全身全霊をかけなさい。」イヴァンカは狂気じみた目をしていた。

そして、ラーミアとマルジェラを引き連れて部屋を後にした。


一方その頃ロゼ達は、空中にいた。

「さーて…どうすっか?」
「悠長に構えてる場合か!」
落下している最中、呑気なロゼにエスタが鋭いツッコミを入れた。

モエーネとジェシカは絶叫している。

アマレットは急いで杖を取り出して「エオーリシ!」と唱えた。

すると、ロゼ達の周りは結界の様な膜に包まれた。

その膜はロゼ達を包み、空中で停滞した。

「すごい!アマレット!こんなことができるのね!?」ジェシカは感動していた。

「まあね?私、天才美少女魔法使いだもん。でもね、これの滞空時間は…10秒よ…!」
アマレットは深刻な顔で言った。

「ちょっとー!そういうことはもっと早く言ってよおー!!」モエーネが言った。

すると機転を利かせたエスタが、目の前にある神殿の壁を剣で破壊し、一同は猛スピードでそのフロアへと入っていった。

ロゼ達はまさに、九死に一生を得た。
無事下のフロアへと移動できて、心の底から安堵していた。

「若…せっかくラーミアに治癒してもらったのにまた…。」
モエーネはロゼの傷口を見ながら言った。

「いや、よく見ろ。たしかに斬られたが…傷はかなり浅いぜ?マルジェラの野郎…一体何を考えてやがるんだ?」
ロゼはマルジェラの意図が分からず、困惑していた。


一方その頃、エラルドは目を覚まして勢いよく飛び起きた。

エンディに敗れた後、ウィンザーに斬られて気絶し、目を覚ますと自身が投獄されていることに気がついた。

バベル神殿高層階に位置する"パピロスジェイル"と呼ばれるこの監獄は、檻に特殊な魔術が施されており、それを施した術者以外の者では決して解除できない仕組みになっていた。

かつてイヴァンカが投獄されていた監獄も、このパピロスジェイルだ。

「はははっ…あれは現実だったんだな…悪い夢かと思ったぜ…。」
エラルドは悲哀に満ちた表情で言った。

そして、ぼんやりとした顔で自分自身をゆっくりと見つめ直していた。

そして、今まで自分が信じていたもの全てが崩れ落ちる様な感覚に陥った。

「自分の見ている世界が全てだと思うな。」
「操られているのは俺たちの方だったりしてな?」
「お前は少し、自分を疑った方がいいぞ。」

エラルドは過去にノストラ、バスク、エンディに言われた言葉を思い出していた。

当時は聞く耳を持たなかったが、今ではその言葉の意味がよく身に染みていた。

「俺は…何も見えていなかったな。いや、何も見ようとしていなかったんだ…。」
エラルドは過去の自分の行いや言動、そして思想を激しく後悔をした。

しかし、脱出不可能の監獄に投獄されている身では何をすることもできない。

「くそぉ…ちくしょーーーっ!!」
エラルドは握りしめた両手の拳を何度も床に打ちつけながら叫び声を上げた。
そして、厚顔無恥で無力な自分を呪った。

「うるさい。」

「…え?」
聞き覚えのある声で文句を言われ、恐る恐る横を見るとラベスタがいた。

「よく寝てたね。目が覚めるなり大きい声出して、どうしたの?」ラベスタが尋ねた。

「お前は確か…ラベスタ?何でここにいるんだよ?」エラルドはキョトンとしていた。

「ウィンザーって人にやられちゃってね。目が覚めたらここにいたんだ。」

どうやら、ラベスタとエラルドは同じ房に投獄されている様だった。

2人は無言のまま、しばらくお互いの顔を見ていた。




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