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沈みゆく過去の美

マガジンご購読の皆様、こんばんは。いつもお世話になっております。夏に向かい、いっそう元気があふれる感じで、このところ、私は食欲が旺盛になっています。といっても、私はもともと2食以上食べる習慣はありません。旅行中などでたまに多めの2食とか、時に3食もとると調子が悪くなってしまいます。数学が大好きな私の場合は、食生活は整数ではなく、無理数です。だいたい2の平方根(ルート2、約1.41)か3の平方根(ルート3、約1.73)のどっちかです。少し前まで、ルート2食だったのが、食欲旺盛になってルート3食になってきています。

さて、また間があいてしまいましたが、過日の連載の続きをお送りします。



6.  沈みゆく過去の美 - 日の名残り -

カズオ・イシグロが 1989年に発表した小説 The Remains of the Day(日の名残り)では、とっくに過ぎ去った過去の記憶とのつきあい方の難しさ、勤勉で誠実な人にありがちな不器用さが、イングランドの美しい田園風景に投影させつつ描かれている。カズオ・イシグロ作品のなかで最も広い読者に読まれた作品ではないかと思われる。Amazonのカスタマーレビューを見ると、アメリカでは4000以上、イギリスでも3700以上、日本で600以上掲載されているが、数はともかく、その感想の内容の多彩さに驚かされる。作品が非常に精巧にできており、たくさんの伏線が用意されているため、どんな読者にも、それぞれの個性的な感性によって拾い上げたくなるものがあるのだろう。そのような仕掛けの精巧さも含め、美しく仕上がっている。

この作品は、イギリス貴族 Darlington卿の邸宅であるDarlington Hallの全盛期を執事として仕切った Stevens の物語である。Stevens にとって Darlington卿は、この上なく誇らしい主人であり、大いに敬愛していた。執事の仕事は生きがいであった。Darlington Hallは最高の仕事場であった。

Darlington卿は第2次世界大戦の前、ドイツに対して融和的な政策を主張し、Darlington Hallは、そのような政治方針を支持する人たちの拠点になっていた。Stevens は、自分もまた、国際政治の舞台裏を動かす一員であるという思いで、誇らしく思っていた。

しかし、その後、戦争が勃発し、その結果、Darlington卿をはじめとする親ドイツの貴族や政治家は影響力を失うに至った。終戦後はなおさらである。Darlington Hall に著名人が訪れることなど、もはやなく、見る影もなく衰退し、荒廃してしまった。国際情勢も大きく変貌し、イギリスの社会も変化してゆく。世界におけるイギリスの地位も、かつての大英帝国の時代とは違ってきている。イギリス社会の内部も変化した。貴族の方は今でもおられるが、昔のような存在感は既になくなっている。執事という職業に至っては、なおのことである。

Stevensは、自分にとっての古き良き時代、つまり、第2次世界大戦の前の国際秩序、大英帝国の存在感、貴族社会の習慣、そのなかでのDarlington 卿の素晴らしい存在感、その邸宅を取り仕切る執事としての誇りに今でもとらわれいる。気持ちの切り替えができずにいて、その頃の思い出をつぶさに回想し、思い入れたっぷりにその記憶を語っている。

Darlington卿は世を去り、Darlington Hallは、アメリカで成功している富豪のビジネスマン、Mr. Farraday に買い取られてしまった。アメリカ人だから、ということもあるだろうが、Mr. Farraday はDarlington 卿とはあらゆる意味で対照的である。そこに Stevens は大いに戸惑う。

ある日、Mr. Farraday に勧められ、Stevens は、Mr. Farraday が貸してくれた車を運転し、小旅行に出かけることになった。このドライブの旅は、全部で6日間である。

Stevens の旅の目的は、かつて Darlington Hall で働いていたMiss Kenton に会い、「戻ってきてくれないか」という話し合いをすることであった。

Miss Kenton は在職中、Stevensをとても慕っていた。Stevens と結婚したいと願っていた。だが、当時、頑固で融通のきかない仕事人間だったStevensはMiss Kenton に対し冷たく接していた。Miss Kenton は、だいぶ前に仕事を辞め、Darlington Hall を去り、別の土地で他の人と結婚することになった。

しかし、最近Miss Kenton から受け取った手紙の文面から、Stevensは、Miss Kenton はあまり幸福ではないのではないかと受け止めた。そこで、Darlington Hall で自分と一緒に働いてほしい、昔を懐かしみながら、これからのとDarlington Hallでの暮らしを共有してほしいと考えるようになったのだろうか。

6日間のドライブは、Stevens の過去のさまざまな回想と、これからのこと、つまりMiss Kenton との再会から始まるかもしれない新たな未来への期待感が重なりあう旅であった。そこにイングランドの美しいカントリーサイドの風景を投影させて描いている。

Stevens の執事としての美点であった実直さは、新しい時代においては、誰の目にも不器用さとしか映らない。取り残されていることを自覚しながらも、どうにもできずにいる。かつての主人、かつての栄光の貴族社会を懐かしむばかりで、今の時代には適応できない。そんななかで Miss Kenton との懐かしい再会は、Stevens にとって最後に残された期待であった。

良かった時代の過去の記憶をStevensと共有できる人はもう Miss Kentonくらいしかいない。Miss Kentonが自分のすぐ近くにいてくれれば、困難な未来にむかってソフトランディングできるかもしれないと思った。そうであれば、自分だけが取り残されているという状態から逃れられるのではないかと、一縷の期待を寄せたのである。ドライブを続けながら、Stevensの期待は大きくふくらんだ。

だが、残念ながら、Stevens の思い描いた通りにはならなかった。当然のこととして、Miss Kenton は、今の家族との暮らしがあり、いまさら Stevens のところへなどゆくわけにはいかない。

多くの読者は、Stevens の心の痛みに、また同じくMiss Kentonの複雑な思いにも共感するのではないか。かつて輝いていた時代には仕事一筋ゆえにMiss Kenton不器用な接し方しかできなかった Stevens。戦後の世の中の変化にもついてゆけず、仕事にも人生にも長く活路を見いだせずにいた。他人の目には単に思いこみが強すぎただけにしか見えないとしても、やっと希望を持って行動を起こすことができた。だが、それはかなわなかった。

わざわざ日数をかけて会いに来て、まさか断られるという可能性を全く考慮せずに、全人生を総括するような話までして、この結果だということのStevens の心の痛みはいかばかりか。Darlington Hallの凋落どころではない。Miss Kenton と別れて一人で帰途につく Stevensは、今度こそ、本当に自分だけが取り残されてしまったと痛感しただろう。

この物語は、読者がStevens の痛みを共有するところで終わるのではない。StevensはWeymouth の港町で美しい夕陽を眺めているときに、見知らぬ人に声をかけられ、励まされる。実は夕陽が一番いいものだ。一生をあとから振り返ると、Stevensがこれから過ごすだろう時間が一番番いいのだから、元気を出そう。そんな風に思い直し、Mr. Farraday の待つDarlington Hallでの自分の今後を考え始める。

実を言えば、6日間の旅の4日目にMiss Kenton と会い、別れた後にあたる5日目の記載がない。何があったのだろうか。こうした想像も楽しいところである。

時期としては、この作品が発表された後になるが、あまり変わらない時期、ちょうどイギリスに住んでおり、自分の車で、作中に登場する田園風景の場所を訪ねたことがあった。とても懐かしく思われたので、Stevensの旅のルートをイギリスの地図上でなぞってみたりした。

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すると気づくのであるが、Stevens が Miss Kenton に再会したCornwall の Little Compton にある Rose Garden Hotel というのが本当はどこにあるのかわからない。気になってしょうがないが、その時点で、カズオ・イシグロの術中にはまっていることになるだろう。映画では、そこのところは、Cornwallではない別の美しいロケーションになっているようだった。

この小説は英語で書かれているが、もちろん、日本語に翻訳されている。その日本語版では訳者あとがきに「国際関係に携わってきたことをモスクムの村人に自慢するスティーブンスがスエズ危機には一言も触れていない。それはなぜか...」という訳者の疑問が書いてあった。スエズ危機は1956年10月である。作中に書かれている通り、Stevens の独白は1956年の夏である。カズオ・イシグロは、大英帝国の栄光の余韻を語れるぎりぎりの時期を意図してセットしたと思われる。もちろん、 Stevens は、まだスエズ危機を知らない。モスクムの村人にスエズ危機の話をする可能性はあり得ないだろう。

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