興健, 吉祥院副住職

石岡市吉祥院の副住職。ブログhttps://ameblo.jp/kichijoin/

興健, 吉祥院副住職

石岡市吉祥院の副住職。ブログhttps://ameblo.jp/kichijoin/ 仏教は私にとって迷った時の拠りどころ、かつ生き方を示してくれるもの。 変化の激しい現代で様々な状況にアジャストする力をも与えてくれる。 有難い教えを多くの方と共有できればと思います。

最近の記事

コロナ禍ではなく…

コロナ禍はいつまで続くのでしょうか。 ウイルスに感染すれば、場合によっては重症化し 死にも至るということで 皆が自粛し 対面で会って遊んだり会議したり 長い距離を移動するということが 制限されてきました。 それにともない、ここへきて 景気がの落ち込みが問題視され さらに円安や原油高もあり 家計への影響も大きくなっています。 将来的な日本の経済を 不安視する声が高まってもいます。 早くコロナが終わってほしい、 コロナ禍が過ぎれば また旅行に行きたい

    • あらゆる存在が互いに支え合っているという感覚

      2021年も残り僅か。 そんな中、とある症状の為に病院に行ってきました。 根本的な解決には至らなかったですが、良い先生に診てもらえ、気分良く帰ってきました。多くの患者さんが入れ替わり立ち替わりで忙しい中、症状の原因の可能性をいくつかあげてくれたり、質問にも的確に答えてくれました。 人はケガをしたり、病気をすると医者のもとへと向かい、治療してもらったり、治す方法を教えてもらい、それによって安心を得ます。お医者さんは、身体の不調を抱えた人に対して、心の安寧を与える役割をもっ

      • 知識や情報が手助けに

         「如実知見」とか、「ありのままに見る」ことが仏教修行では大事だとよく言われます。  自分自身の色眼鏡、すなわち固定観念や偏見、既成概念にとらわれた見方を捨て去った上で、物事のありのままの姿を観察できることが、仏の眼で見るということでしょう。  それは、単に坐禅をしまくって深い瞑想状態に入るとか、熟練した修行者はどこでも心を落ち着けることができて、どんな状況でも深い瞑想へと入っていける、ということだけでは実現されないものだと私は思います。  仏さまの智慧を身に付けるため

        • 自信をもって仏さまにまみえる

          当山のご本尊は地蔵菩薩,お地蔵さまですが,朝のお勤めは脇に鎮座する不動明王の下でお祈りしています. 怒りの表情をした尊格ですから,目を合わせると,何やら怒られるのではないかと感じる時もあります. 逆に堂々と目を合わせて礼拝し,読経できる時もあります. その両者の違いは明確には分かりませんが,自分の行動や生き方に後ろめたさを感じているのかどうか,ということが大きく関係しているように思います. ふだんから悪口を言っていないか,人に優しくしているか,悪い行いだと思ってもそれ

        コロナ禍ではなく…

          習慣が心を調える

           毎日、本堂でのお勤めと坐禅をしていると、時にテンションがあがらず、さぼりたいという気になることがあります。  しかし、仏道ではまず生活習慣を整えることが大事であり、それによって、自分自身の心を乱れることのないものへと養っていくのですから、一度決めて自分自身に染みつかせた毎朝の習慣を崩すことはできません。  なので、よほどの体調不良や別の仕事がない限りは、毎朝欠かさずに行っています。  日によって、脳内での葛藤がありつつも、お勤めをし、静かに坐禅をしていると、自ずと心が

          習慣が心を調える

          選択肢が多すぎる

           現代社会を生きていると,昔よりも個人の自由さがある一方で,あらゆる場面で選択肢が多すぎるなと感じます.  洋服が良い例ですが,Tシャツ1つとっても,無地なもの,様々な柄物,無地であっても胸ポケット付き,オーバーサイズのもの,たくさんのバリエーションが並び,チョイスに困ります.  物が欲しいと思った時にはすぐに手に入り、何かを買おうと思った時には、多様な需要に合わせて多くの選択肢があることは良いことですが,逆にいきすぎてしまっているようにも思います.ミニマリストという言葉

          選択肢が多すぎる

          レンジ瞑想

           瞑想はどこでもできます。  一般に、集中瞑想と洞察瞑想という言葉で2つに分けられますが、どちらもいつでもどこでもできるものです。  例えば、レンジで1分待っている間、1:00、0:59、0:58とデジタル文字が変わっていく現象に対して、意識を集中させることは集中瞑想だといえます。  ふつう、坐禅などでは、呼吸瞑想といって自分自身の呼吸に意識を向けていくという形の集中瞑想を行います(いわゆる「止」)。  同じように、レンジのタイマーにじっと意識を向けていき、雑念がわい

          向こうからやってくる ー受け身的な生き方ー

           近頃は、「向こうからやってくる」という見方というか感覚を大事にしています。  自分という意識、自我があって、それによって自分が様々な決断をして、様々な行動を起こして、それの連続であるのが人生であると、これまで思ってきました。  そういった生き方に大きな問題があるというわけではないですが、しかし、受け身的に生き、自分の体は与えられたものだと見て、また、自分の仕事ややるべきことを、「向こうからやってきたもの」として捉える生き方も面白いのではないか。  自分が在家でありなが

          向こうからやってくる ー受け身的な生き方ー

          無理に気づき、ゆったりと

           少し前に、青森の個人スーパーのTwitterでの投稿がニュースに取り上げられていました。  肉がほとんど空っぽになった精肉コーナーの棚に「精肉担当の従業員がワクチン接種の副反応で出勤できなくなったので本日の売り場はこんな感じです」と紙が貼られている写真が投稿されていました。  それに対するリプライは、「正直で好感が持てる」とか、「このくらいの緩さで、許される社会であってくれ」、「こんな社会じゃなきゃ、生きづらい」といったものがありました。  近所のお客さんからの苦情は

          無理に気づき、ゆったりと

          お寺で過ごす時間

           日本におけるお坊さんといえば、住職や副住職としてお寺に住み、そこで日々のお勤めや境内の整備、法事やお葬式を勤めている、というイメージがあろうかと思います。なかには、住職でも副住職でもなく、本山のような大きなお寺の職員としてお勤めする僧侶の方もいます。  いずれにしても、当たり前ですが、僧侶はお寺が身近にあり、聖なる空間である境内、特に本尊が祀られる本堂には自由に出入りできるなど、一般の人からみえば、1つの特権をもっています。  住職という形でお寺に住んでいると、その有難

          お寺で過ごす時間

          慈悲や優しさを伴う「忍耐」

           「忍耐」というと、ただただ苦しみを我慢して耐えるというイメージがあるかもしれません。実際、「忍耐強い」や「忍耐力」という語は、そういった意味で用いられています。  また、辛くとも耐え忍ぶこと、耐え抜く力が、尊いものであり、それを有した人が称賛されるような世の中でもあります。  しかしながら、仏道でいう「忍耐」には、ただ耐え忍ぶということだけでなく、そこには慈悲や優しさが伴っているといいます。  自分にとって嫌なこと、不快なことに直面すれば、苦しみや悩みが生じ、その状況

          慈悲や優しさを伴う「忍耐」

          智慧と忍耐

           仏教の教えは実に様々です。 これある故にかれあり、これ起こる故にかれ起こる、これ無き故にかれ無く、これ滅する故にかれ滅す という「縁起」の道理をはじめ、苦・集・滅・道の四(聖)諦もお釈迦さまが説かれた教えとして有名です。  この世はなかなか思い通りにいかないものです。われわれは、自我というものがあると錯覚していて、そこから抜け出せないが故に、苦しみが生じてしまうのです(苦)。自我から抜け出せないのは、過去の行いとか煩悩が原因である(集)わけですが、行動や心を変えていく

          ふつうにお経を唱えること

           通夜や葬儀、法事では、マスクを着けてお経を唱えることが普通となっています。初めのころは苦しかったものの、最近は少し慣れてきた気がいたします。とはいえ、息継ぎの感覚が短くなったり、30分40分と唱えていると苦しくなってきます。  そんな中、朝のお勤めの時にふと、こうしてマスクせずに思い切り声を出してお経を唱えることって、有難いことなんだなぁと感じました。  毎日の本堂でのお勤めでは、自分以外だれも周りにいませんからマスクをつける必要がありません。このような社会状況以前では

          ふつうにお経を唱えること

          苦悩は幻想

           7月23日から始まった東京オリンピックは、8月8日までの17日間行われ、ほとんどの試合が無観客だったのにも関わらず、大いに盛り上がった大会となりました。一方でパラリンピックは、8月24日から13日間行われ、こちらも大変な盛り上がりになりました。  やはり、自国開催ということもあって、様々な競技がリアルタイムで観られたことは非常に良かったと思います。注目していたものだけでなく、あまり認知していなかった競技も目に入ってきて、思わぬ感動や衝撃を受ける場面が多々ありました。  

          習慣を見直す

          習慣化することは難しい誰しもが良い習慣を身に付けたいと思うものです。しかし、悪い習慣とわかっていてもなかなか止められないし、良い習慣を取り入れようと思っても実践するのが難しい。さらにいえば、自分で気づいていない良くない習慣も多くあります。 良い習慣の典型的な例としては、早寝早起きとか、早起きしてランニングやジョギングするとか、毎日読書をするなどというのがあげられるでしょう。 逆に悪いのは、ダラダラと夜更かししてしまうとか、間食してしまうとか、生活に運動を取り入れらないなど

          瞑想で心と向き合う

          急な標準の変化昨今の小学生、中学生は、休み時間に体育館で遊ぶには時間を区切られ、給食の時間では黙食することが当然となっているみたいです。何だか禅寺の修行僧のように、戒律を守り、きっちりと規律正しく生活することを強いられているようで、可哀想に思います。 自分自身の過去を振り返ってみると、授業の合間の休み時間では、校庭で自由にサッカーし、給食の時間には友達と和気あいあいに喋りながら食事していたことが思い出されます。 楽しい授業もあれば退屈な授業もあるのは当然です。その時間から

          瞑想で心と向き合う