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苦悩は幻想

 7月23日から始まった東京オリンピックは、8月8日までの17日間行われ、ほとんどの試合が無観客だったのにも関わらず、大いに盛り上がった大会となりました。一方でパラリンピックは、8月24日から13日間行われ、こちらも大変な盛り上がりになりました。

 やはり、自国開催ということもあって、様々な競技がリアルタイムで観られたことは非常に良かったと思います。注目していたものだけでなく、あまり認知していなかった競技も目に入ってきて、思わぬ感動や衝撃を受ける場面が多々ありました。

 特に日本人アスリートの活躍が目立ち、新採用競技であるスケートボードやサーフィンでもメダル獲得がありました。多くの選手の言葉には、今大会が開催されたことへの感謝の言葉がありました。オリンピックに向けて全力を注いできたアスリートたちにとっては、大会の開催の有無は大きな問題です。

 パンデミックの状況ですから、多くの議論があったわけですが、中止ではなく、大会が開催されたことはアスリートたちにとっては有難いことであり、かれらによる真剣勝負を映したシーンが、われわれにもたらした良い影響は多大なものがあったのだと思います。

 オリンピックとパラリンピックでは、私が感じた内容は少し異なります。もしかしたら同じように思っている方もいるかもしれません。オリンピックアスリートの姿は、単純に凄いなとか、気魄が凄いなとか、このスポーツに命を懸けて人生を歩んでいて、その中には大きな悩みや苦しみもあるんだろうなと想像し、プレーを観ます。そして、様々な刺激や感動をもらいます。

 一方でパラリンピックの試合を観ていると、向上心や努力次第で何でも可能にすることができるんだという思いにさせられます。そして、小さいなことで苦悩する自分に対して強烈な情けなさを感じます。

 片腕がなくともトライアスロンをする選手、足が不自由で車いすを使う選手、さらには両腕がなくとも器用に卓球で戦う選手、視覚障害のある選手はガイドさんと手を組んで戦います。そういった体であっても必死に全力で戦っている姿を見ると、感動ももちろんですが、人には限界はないし、自分が抱える苦悩というのは幻想であることが知らされます。

意志の強さ

 どちらもアスリートですから、常人離れしたパワーやダイナミックなアスリートの動きや戦いの映像もさることながら、各選手の表情や雰囲気に現れ出る意志の強さも圧倒的でした。

 NHKの番組でも特集がありましたが、運動によって体を追い込んでいくと、人の脳はそれ以上頑張ると危険だということで、様々な信号を出します。それは、動物的なより原始的な機能なのですが、人類はそれを制御する力を進化させました。進化の中で獲得した意志の力によって、さらに体を追い込むことができるというのです。

 短距離走で活躍したジャマイカのウサイン・ボルトさんは、生まれつき背骨が大きく曲がっていて、アスリートに適した骨格とはいえない中で、それを補うようにトレーニングを重ね、トップの座へと登っていきました。一般の人では諦めてしまうところを、頑張ればできると自身に言い聞かせていたそうです。

 種目によって異なりますが、世界のトップで争うアスリートたちは、一般の人と比べられないほど強固な意志をもち、自分自身を追い込むことで強靭な体を作り上げ、確かな技術を身に付け、ブレない心を磨き、あの舞台へと登っていったのだと感じます。

 サッカーでは、日本代表は惜しくもメダル獲得はなりませんでした。3位決定戦のメキシコ戦の後、久保建英選手は号泣し、インタビューの内容からは、かれの並々ならぬ意志の強さ、責任感の強さが感じられました。20歳であれほどの精神力をもっているというのは、天性のものなのか育った環境によるものなのかわかりませんが、あのような意識で物事に取り組むことで、より多くの学びや経験が得られるのだろうと思います。

命を懸ける

 久保選手の涙や言葉からは、命を懸けてサッカーに取り組んでいるんだなとも感じます。

 柔道の阿部一二三選手は、国内での激闘の末に代表権を獲得し、本大会でも見事金メダルを獲得しました。表情を見るだけで気魄が伝わり、柔道に命を懸けて生きているんだろうなと感じます。

 7人制ラグビーは1試合が7分ハーフで行われるため、あっという間に決着がついてしまい、大会自体も2,3日で終わってしまいました。15人制と比べると何だかあっけないなと思ったのですが、試合後の選手は嬉しそうな顔で抱き合ったり、悔しそうな顔をしたりしていて、プレー時間は短くとも、そこへの準備段階では相当に身を削った努力をしてきたのだろうなと感じました。

 アスリートたちが、それぞれのスポーツに一心に命を懸けて取り組んでいるのならば、私のような僧侶が命を懸けるのは仏道ということになります。

 仏道と一口に言っても簡単に説明することはできませんが、まずは戒律のもとで良い習慣を保つことに命を懸けなければなりません。そして、精進し続けるとともに、瞑想等によって心を落ち着けられる力、正しい智慧を身に付けていく。シンプルに言えばこういうことでしょう。

 たいていのお坊さんは、朝に本堂で読経や祈り、坐禅を組むお勤めを行いますが、それを毎日欠かさず継続するためには、規則正しい生活が大事です。日によって寝る時間が違ったり、飲み会などで夜が遅くなってしまってはリズムが崩れてしまいます。自分の習慣に固執しすぎるのも執着といえますが、まず先に自らの生活習慣を規則正しく送っていく強い意志をもたなければ、心は落ち着いてこないし、智慧を身に付かないでしょう。

悩み苦しみは幻想

 オリンピックアスリートには、ファンやスポンサーがついているなどの大きなプレッシャーがあるものと思います。身体的、精神的に自身を追い込むような日々のトレーニング、また、より知能を使うスポーツでは脳をもフルに活動させなければなりません。

 その大変さは計り知れませんが、パラアスリートにとっては日常の通常の生活にも苦労が伴うと想像されます。五体満足である自分に重ね合わせて、例えば片腕のない選手の日々の暮らしを想像してみるだけでも、大変さが感じられます。

 足が不自由な選手は、常に車いす移動でしょうから、どこへ行こうにも一苦労ですし、視覚障害の方はもっと大変だと思われます。

 自分は恵まれているんだろうなと感じますが、自分がふだん抱える苦悩は、身体に障害を持った人のそれに比べたらとても小さなものであるということが強く感じられます。パラリンピックを観ていると、自分はなんて小さな悩みで不平不満を言っているんだと戒めの心が生じてきます。

 人は物事を比べて見てしまいます。やはり、日常生活を送るにあたってハンディキャップをもっている人が頑張っている姿は、自分自身の行動や心のあり方に対して、大きな影響を与えてくれます

 他方で、そういった苦労や大変さは、健常者である自分の基準で判断しているにすぎないともいえます。かれらにとっては、それが基準であり、そこに不満を感じていただけでは何も進まないわけですから、その基準の中で自分ができることを伸ばしていこうとする向上心や強い意志によって、健常者にはない能力を身に付けるようになるのだと思います。

 人は、物事を自然と様々に比較してしまいます。隣の人が良いものを持っていれば欲しいと感じ、さらに良いものを隣の人が持っていれば、それを欲します。欲は際限がないわけですが、まず物事を比較して相対的に見る習慣がわれわれには身に付いています。

 悩み苦しみは、見たり聞いたりして得られた自分の感覚から生じるものですから、基準や標準が変われば、悩み苦しみも変わっていくものです。なので、感じている悩み苦しみは絶対的なものではなく、幻想だといえます。 

 健常者が抱える苦悩は、障害を持った方からみれば有難みとして受け取られるかもしれません。

 こんなことを感じられたパラリンピックでしたが、多様性を尊重する社会が求められる中、この大会が開催されたことも意義は大きいものがあると思います。

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