見出し画像

コロナ禍ではなく…

コロナ禍はいつまで続くのでしょうか。


ウイルスに感染すれば、場合によっては重症化し

死にも至るということで

皆が自粛し

対面で会って遊んだり会議したり

長い距離を移動するということが

制限されてきました。

それにともない、ここへきて

景気がの落ち込みが問題視され

さらに円安や原油高もあり

家計への影響も大きくなっています。

将来的な日本の経済を

不安視する声が高まってもいます。

早くコロナが終わってほしい、

コロナ禍が過ぎれば

また旅行に行きたいというような声も

聞かれますが

かつての日々はいつ戻ってくるのでしょう。

戻ってくるのかもわからないような

非常に複雑な問題です。

これについては

一人で考えてみても答えは

出ませんので

ここでは

コロナ禍の「禍」という語について

考えたいと思います。

「禍い(わざわい)」は

・障害・疾病・天変地異などを被ること。

・悪いこと。

・不幸なできごと。

といった意味の言葉です。

「禍」の成り立ちとしては

「示」と、むごい死を意味する「咼」という語が

合わさったものです。

「禍いも三年」とか

「禍いを転じて福となす」

ということわざもありますが

こう見てみると

「禍い」は人間が感じる

良い悪い、快・不快の感情による

価値観によって作られた概念

であることがわかります。

われわれの悪い行いが原因で

神様や仏様からの天罰が食らったんだ的な

捉え方ならまだしもですが、

病気になりたくない

これまでの経済活動が乱れてしまう

などといった自我の感情が

この語に込められているように思います。

コロナ禍という言葉には

このような背景があると思うのですが、

われわれ僧侶はこの言葉をどのように

扱えばよいのか。

やはり僧侶としては

人間としての価値基準で捉えることはせず

また、何かに責任を押し付けたり

1つのことを絶対視するような捉え方は

避けるべきだと思います。

個人的には

安易に「コロナ禍」という語を

使うのではなく

「コロナ問題」とか

「コロナ状況」というような

より客観性をもった言い方をするとか

そういった意味を含んだ表現に

した方が良いのではと思っています。

確かに、仏教や僧侶は

人々の苦しみを和らげたり

幸福に導く使命があるものです。

ですから

病気を防ぐ方法があれば

それを実践し

経済が回復することで

幸福になる人がいるなら

そのために尽力することは必要なことだと思います。

しかしながら

コロナウイルスによる感染症が

絶対的な悪であり

憎きウイルスを駆逐してやるという

考え方で居続けることは不適切だと考えます。

そもそも人間のDNAには

ウイルスの遺伝子が組み込まれおり

それのおかげでこの地球を生き延びてきた

という歴史もあるほど

人類はwithウイルスな存在です。

ウイルスの発生源として

中国を批判し、それをさらに批判するという

論争もありましたが

こういう時こそ

仏教のような東洋的な精神で

問題に向かっていきたいものです。

何かこれは悪いものだと

1つに決めてしまうのではなく

起きた現象、問題を

フラットな目線で客観的にみて

あらゆる物事はどっかしらで

繋がっているという縁起的な

ものの捉え方が大事だと感じます。

サポートいただけると記事更新の励みになります。自身の経験などもふまえて仏教をご紹介できればと思っています。