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瞑想で心と向き合う

急な標準の変化

昨今の小学生、中学生は、休み時間に体育館で遊ぶには時間を区切られ、給食の時間では黙食することが当然となっているみたいです。何だか禅寺の修行僧のように、戒律を守り、きっちりと規律正しく生活することを強いられているようで、可哀想に思います。

自分自身の過去を振り返ってみると、授業の合間の休み時間では、校庭で自由にサッカーし、給食の時間には友達と和気あいあいに喋りながら食事していたことが思い出されます。

楽しい授業もあれば退屈な授業もあるのは当然です。その時間から解放され、ただただ楽しい時間であるはずの休み時間に制限がかけられるというのは、精神的に大きな影響をもたらしそうです。

確かに、休み時間には時間の決まりがあったり、学校の外には出てはいけないなどの制限はありますが、一旦習慣化された制限の中で思い切り楽しむのが子供というものです。

子供であっても、ある程度の制限や規制をすることは必要なことです。ただ、この度のコロナ禍にあって、その習慣化された制限や規制に急激な変化が与えられ、困惑する子供たちも多いかと思います。

ワクチン接種が進んでいるという朗報もあれば、変異株によって感染が再拡大し、さらにワクチンの効き目も低下するという報告もあり、今後も不自由な生活を強いられていくのかもしれません。

大人でも自粛疲れという言葉が現れてきて久しいですが、様々にストレスフルになっている中で、有り余ったエネルギーを発散する場を持てない子供にとっては苦しい日々が続くことになるのかもしれません。

標準が変わった時、いかに対応するか

とはいえ、パンデミックのような未曾有の事態はこれからも起こり得ます。また新しいウイルスが登場するかもしれませんし、大きな自然災害、例えば富士山の噴火とか大地震とかが急に来るかもしれません。そんな時に、どう対応するか。

仏道的には、どんな状況が訪れても、心が大きく揺さぶられないような心のあり方を磨いていくことが勧められます。どんな時でも、心が安らかでいられるように訓練することが仏教修行の基本といえます。

人間には、欲望とか、意欲とも表現される根源的なエネルギーが具わっています。その力があるからこそ様々な困難にも耐えられるし、新しいことにもチャレンジしていけます。

ただ、これが強すぎたり、これをうまくコントロールすることができないと、苦しみや悩みになったりしてしまいます。

仏教には、「渇愛(タンハー)」という言葉があります。

 1.欲愛・・・欲望に向っていく、快楽を求める心。あれが欲しいとか、ああ成りたいとか、あれが食べたいといった欲。

 2.有愛・・・生存することを欲する心。不老不死でいたいとか、このまま健康でい続けたいという欲。

 3.無有愛・・・生存を否定する心。虚無的、破壊的な感情になって、極端な話、死んでしまいたいと思う欲求。

という3つの渇愛(根源的な欲求)をわれわれはもっていると仏教は説きます。これらの渇愛は煩悩を引き起こし、それが大きくなってくるとわれわれを苦しめるのです。

と、仏教修行的には渇愛のような欲求を滅していくことが説かれるわけですが、欲求は悪い面ばかりではなく、社会の中で生きていくためには、あれを手に入れるためにとか、おいしいものを食べるためにといった欲望、意欲をもつことは重要ですし、そもそもそのような根源的な本能的な欲求がなければ、生物として生存していく力がないということになってしまいます。

生存すること、次世代にDNAを継承していくことが生命にとって最も大事なことで、人間にもその潜在的な力が具わっているはずです。あれが食べたいという欲求はエネルギー補給に繋がりますし、異性への欲は種の存続の為です。ずっと生きていたいとか、不老不死でいたいという欲求が芽生えてくるのも当然だといえそうです。

感情をコントロールする

生まれながらにして動物には本能的な欲求があり、それはわれわれ人にも漏れなく備わっています。人は、悲しんだり、喜んだりという感情も有しています。仏典には、渇愛を滅するということが説かれた箇所や、愛することから離れよ、と書かれた箇所がありますが、その文章を鵜呑みにして良いとは私は考えていません。上で述べたように、実際生きている中で、怒りや悲しみの感情や何への欲求は、生命を維持する機能として非常に大事なものであります。重要なことは、そのような心の動きを適切に感じ取り、自分自身が今どういう状態なのかを正確に理解し、コントロールすることだといえます。

例えば、タイの僧院で出家し、30年以上も修行を続けている方であっても、瞬間的な怒りの感情や、何だかやる気が出ず体が重たいと感じる日があったりするそうです。あるいは、あれが欲しいと思う瞬間もあるそうです。しかし、その次の反応にはワンクッションあって、その感情を客観的に見ることができる能力が具わっているといいます。客観視することで、その突発的な感情に流されないのです。これは長年の修行の成果でしょう。

長年の修行によって心を制御できるようになっているとはいえ、瞬間的な感情の揺れというのは、何十年もの修行を経ても無くなるものではないということが、このことからいえます。大事なのは、それをいかにコントロールするかということです。

近年は、マインドフルネス瞑想というものが広く知れ渡るようになりました。坐禅もそれにともなって広まっているように思います。瞑想といえば色々な形があって、歩行瞑想やボディスキャンといったものがありますが、私自身はやはり、自分自身の呼吸に意識をもっていくという形が最も大事だと感じています。

呼吸は、自律神経によってはたらくものであると同時に、自らの意識でもコントロールすることができ、自分自身の今の心の状態と、自我意識を媒介するものともいえます。瞑想で呼吸に意識をもっていくことで、自然と心に注意が向き、心が落ち着いてくるとともに、自らの心の状態を観察できるようになります。特に感情がよく見えてきて、自分自身の考え方に関しても、これが正しいのか良くないことなのかが吟味できるようになります。

瞑想を習慣化する

何も座って瞑想することだけが瞑想ではありません。禅宗では坐禅を基本としますが、密教では阿字観とか月輪観などの瞑想があり、念仏も瞑想の一種といえます。また、普段の生活の中でふとした時に心を落ち着けて、呼吸に注意を向ける時間をもてれば、それもれっきとした瞑想だといえます。

大事なのは、瞑想を習慣化することです。毎日決まった時間に環境を整えて瞑想することはとても良いことです。それが定着してくると、自分がどんな状況にいても自分の心に注意を向けられるようになります。例えば、歩いている時、車で移動している時、仕事をしている時、いつでもです。私は朝の勤行の時に、40~60分の瞑想を毎日するようにし、時間に余裕があったり、空いた時間にも行っています。

そのおかげか、普段の生活の中では、いつも通りではないこと、予想通りではないこと、自分の期待に反する出来事に会うのは当然ですが、そういった何らかの心の動揺が起こる状況で、それに気づいて今どうするべきかを考えられる頻度が高まっているように思います。もちろん、まだまだ修行足らずの身ですから、感情がうまくコントロールできていないと感じる時もあります。

初心は、いきなり自分の心を観察することは容易ではないので、まず呼吸に注意をもっていくこと癖にして、それと連動して心に注意が向くようにトレーニングすると良いと思います。

このトレーニングが深まってくれば、何かに悩んだり、迷ったり、モヤモヤした状態に溺れず、そこから脱して安らかで軽やかな人生を送っていけるものと思います。

そこに仏教的な考え方、例えば「縁起」の教えなどを学んでみると、より良いのかなと思います。





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