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#8『ホールデンとスミス』

青春の象徴。
ほとんど物狂いのように夢中になった人や物。

例えば、「ライ麦畑でつかまえて」や「長距離走者の孤独」を若き日に読んだとして、今読み返すことができるだろうか。

それどころか手に取ろうという考えにすら至らないのだから、時の流れは残酷だ。
そんな些細な行動や心情の変化に、大人になったことを知らされる。
今までもそうだし、これからもずっとそうやって脅される。
それを悲しいことだと思うか?

数年前に、ある人がアベラワーというウィスキーを飲みながら僕に言った。
「大人になったら今よりも金が手に入るし、子供では経験できないような遊びも増えるから、実は子供より楽しいんだよ。」
学生時代の僕は確かにそうかもしれないと思った。
例えばビールを美味しいと思えるようになった瞬間や、初めて夜更けに友達と繁華街に行った瞬間に、今まで経験したことがない新しい遊びを知った感覚になってワクワクした。
そういう新しい経験の連続がこの先ずっと続くとしたら、大人の方が楽しいかもしれないと思ったのだ。
しかし大人になった今、その人にもう一度会って反論したい。
そんなわけがない。
僕は数年越しで騙された気持ちになった。

大人の方が楽しいんじゃない、大人もそれなりに楽しいだけだ。
子供の方が楽しいに決まってる。

ひとつ弁解するなら、僕は決して年齢を基準に「子供/大人」の区別をしている訳では無い。
つまりは、次のシド・ヴィシャスの言葉の通りだ。

「大人達には知性なんてものはまるで無い。子供であることをやめるってことは、物事に興味を失うということなんだ。年齢なんて関係ないんだ。たとえ99歳でも子供でいることは出来る。」

僕はこういう考え方が好きだった。
24歳で死んだ彼が残した言葉だからこそ、錆びることはないし、いつまでも美しいままだ。

子供は論理的ではないから素晴らしい。
同様に下手な一般論にとらわれていないから美しい。
年齢は関係なく、物狂いでいられなくなったらもう僕らは子供じゃないということだ。
そういう意味では、中高校生くらいで変に社会性を身につけて、子供じゃなくなる連中がいたりもする。

要は他人にお構いなく、自分の好きなことを貫き通す聞き分けの悪さこそが青春の象徴だ。

聞き分けが良くなればなるほど、物事に対する欲は薄れてしまう。
全てがどうでも良くなる。
面倒なことに巻き込まれるくらいなら、こだわりなど持たない方がましだと思うようになる。
海でも川でも山でも洋食でも中華でも何でもいいから、とりあえず最終的に面倒臭くならないやつでお願いします、というスタンスが便利だからだ。

そういう聞き分けの有無を考えた時にはいつも、高校時代を思い出してしまう。

僕は自分の通う高校が好きになれなかった。
自分で言うのもなんだけど、それほど頭の悪い学校ではなかったので、トラブルとか人を傷つけるような出来事はほとんどなかった(と思う)。
とても素敵なことだ。
むしろ、一丸となって行事を盛り上げようとする熱量が強く、クラスの中心人物から控えめな人までみんなが協力して、楽しい行事にしようと心がける優しい学校だった。
故に、協調性のない人間にはかなり風当たりが強かった気がする。
邪魔も何もしないので、僕は自分の好きなことをするから、みんなはみんなで楽しんでね、というスタンスが通用しなかった。
全員で成し遂げることが目的になりすぎて、人によっては好きじゃないことや得意じゃないことを強要されている感覚だったと思う。
僕は不思議でたまらなかった。
どうして、誰かが仲間外れにならないように気遣う優しさはあるのに、やりたくない人には無理やり強要するのだろうか。

例えば、ある人がみんなで野球をやろうと言い始めたとする。
すると運動が得意じゃない人がこう言う。
「僕は得意じゃないからやめとくよ。僕のことは気にしないでみんなで楽しんで。」
すると主催者はそれを許さない。
「うるさい!みんなでやるんだからお前も参加しろ、もし逃げ出したら許さないからな。」

僕には日々こういう雰囲気が教室に漂ってるように感じられてとても不愉快だった。
あくまで例え話だけど、そういう目に見えない暴力を感じていたから、僕はあまり好きになれなかった、自分の通う学校が。

でも今は自分自身が馬鹿だったと思う。
何故ならそんな御託を並べて、その場が不穏な雰囲気になるほうが面倒だからだ。
上手く事が運ぶなら、やりたくないことも我慢してやるべきなのだ。
それが出来ない奴なんてクズだと思う。
ディズニーで被り物をかぶれない男や、タピオカの行列に並べない男に需要なんてあるわけがない。
それにいちいち食ってかかって、いったい誰が幸せになれるのだろうか。

誇張しすぎたが、概ねこんなふうに聞き分けが良くなってくる、年齢を重ねると。
他人に迷惑をかけてまで、自分の好きなことやポリシーを通すなんて馬鹿らしくなる、大人になると。
つまり、海でも川でも山でも洋食でも中華でも何でもいいんだ、とりあえず最終的に面倒臭くならないやつなら何でも。

誰だって、こういう聞き分けの良さを大人な考えだと思うだろう?
本当はやりたくないけど、言われた通りにやった方が賢い大人な選択だと思うだろう?
そういう選択をする度に、ああ自分はまたひとつ大人になったな、人として成熟したな、他人の我儘を受け入れ、いったん自分の感情は置いといて、その場を上手くやり過ごす最善の方法を選べるようになったな、周りに比べて自分は大人だな、なんて思ってしまうだろう?
そこまで聞き分けが良くならないにしても、少なからずこういう考えを持つようになったと自分でも認めるだろう?

僕はそういう一般論にとらわれるようになって以来、何かを情熱的に好きになったり夢中になったりすることが無くなった。
全てがそれなりにどうでも良くなってしまった。
シド・ヴィシャスの「大人になるとは物事への関心を失うことだ」という言葉の意味を今になって実感している。
もう手遅れなんだ。


本当はこの文章だって、書きながら途中でどうでも良くなっていて、今は早く終わらせることしか頭にない。
だって僕は全てがそれなりにどうだっていい大人だからだ。
出来るだけ、脈絡ある綺麗な文章で終わらせたいとは思っていたけど、それを考えるだけの関心がいったい大人な僕のどこにあるだろうか。

結局この先の人生で二度と「ライ麦畑でつかまえて」や「長距離走者の孤独」を読むことはないだろう。
きっとホールデンやスミスに共感出来ないと思うからだ。
どうしてこんなに文句ばっかり言って、聞き分けが悪いんだろうと思ってしまいそうだ、それならまだましか。
自分にもこんな卑屈な考えで他人のことをあーだこーだ批判してた時期があったな、なんて感傷的になった日には、世界一無様な自惚れ野郎だと、自分で自分のことを軽蔑してしまうだろう。

ああ、ふがいない。
ホールデンとスミスが睨んでる、蔑むような目で見てる。

それすらも、もうどうでもいいけど。

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