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短編小説『しもがもさんの足つけ神事』改

あの子が「しもがもさんの足つけ神事に行ってきた」と言っていた。毎年行っているらしい。僕が直接聞いた話ではない。あの子が友達に話をしているのを聞いていたんだ。溌溂とした元気印のあの子の声はよく通るから、盗み聞きしようとしなくても聞こえてくる。いや、そりゃ確かにいつもあの子の声を探してはいたんだけど。

僕は「しもがもさんの足つけ神事」のことを知らなかったから、すぐにでもスマホで検索したかったけど、うちの中学校は校内でスマホを使うことを禁止している。って言っても、そんなルールを守ってるやつのほうが少ないんだけど、クラスの中にはいつの間にか決められた役割というか、キャラ設定みたいなものがあって、僕は「ルールを破らないまじめキャラ」だから使えなかった。クラス長を押し付けられてもいるが、実質、クラスを仕切っているのは僕なんかじゃなく、運動神経もよくて英語も話せる田代くんだ。

田代くんのグループは、あの子のグループと仲がよくて、いつも男女で仲良く話しをしている。しもがもさんの足つけ神事の話も田代くんたちと一緒にしていたけど、他の子はあんまりそういうのに興味がなかったみたいで話はすぐにスイーツかなんかの話題に変わっていった。

それが中学一年の夏の話。
「しもがもさんの足つけ神事」は下鴨神社の御手洗祭のことだった。神社にある御手洗池っていう池に足をつけて無病息災を祈願するお祭りだ。池に足をつけるから足つけ神事とも呼ばれている。京都は、こういう行事一つ一つを大切にしている人がとても多い。僕の家は父も母も京都の人ではなく、父は滋賀出身で母は大阪出身だ。京都の大学を出た父が卒業後も京都に住み続け、やがて母と出会い結婚し、結婚後も京都にずっと住んでいる。昔ながらの京都の人とは感覚が違うんだそうだ。僕にはよくわからないけど、あの子が毎年行っているという、しもがもさんの足つけ神事のことを知らなかったのは、おおいに不利であることは理解できた。

よし、来年はしもがもさんの足つけ神事へ行こう。僕が足をつけていたら、偶然そこに居合わせたあの子が声を掛けてくれる。

足つけ神事は土用の丑の日の前後、数日間続くうえに、朝から晩までやってるから、行ったところで、あの子に会える可能性は限りなくゼロに近い。それでも僕は、あの子に声を掛けられた時のことを想像せずにはいられないんだ。
「あ、涌井くん!来てたんやー。会うのははじめてやなー。いつも来てたん?」「あー、うん、まぁ。」

たぶんその程度の受け答えしかできはしない。でも、学校ではその程度さえ一緒に話すことはできない。わざわざ、暑いさなかに神社にまで行かなくても、同じクラスなんだから、普通に話しかければいいんだけど、僕にはそれがどうしてもできなかった。

挨拶はする。ていうか、あの子はいつも、分け隔てなく誰に対しても、「おはよ!」と挨拶をする。その元気な声は、いつもクラスを明るくする。でもホントは別にクラスを明るくしなくてもいいから僕を明るくしてほしい。僕のためだけに笑ってほしい。学校ではそれが叶わないけど、しもがもさんの足つけ神事へ行けば、来年行けば、それが叶うかもしれない。そんなことを思いながら、僕はいつも登校している。あの子に「おはよ!」と挨拶してもらうために登校している。

だけど気をつけないといけない。
あの子が誰かとの話に夢中になっていると、その話を中断してまでは僕に挨拶してくれない。
運悪く田代グループとの会話が盛り上がってたりすると、僕が教室に入ってきたくらいでは見向きもしてくれないんだ。所詮その程度なんだってあきらめますか?いいや、僕はそれでも、あの子の「おはよ!」が聞きたかった。だから僕は、毎朝、そのチャンスを逃がさないため、始業の1時間前には教室に到着して、あの子が来るのを待っていた。「禁止されているスマホを使わないキャラ」に設定されているくらいだから、早くに学校に来ていることはむしろキャラ通りだ。

実はあの子も来るのは早い。だいたい45分前に来ることが、7月までの3ヶ月あまりで判明していた。僕が1時間前に来ることにした最初の日、あの子は教室に僕がいることにびっくりして、「おはよ!早いな?」と笑いかけてくれた。その日、その瞬間、僕とあの子はクラスで二人きりになった。死んでもいいと思った。

僕に気付くまで、あの子はいつものあの子とは違い、憂いのある顔をしていた。溌溂とした元気印のあの子にも、そりゃあ悩んでることがあったり、腹の立つことがあったりするのが当たり前だ。あの子の無防備な顔が見られたことに興奮していた。もっと親しくなれば、あの子のあの無防備を当たり前のように見られるのだろうか。そうやって欲しがった頃には僕に気付いて、いつものあの子になってしまった。

もう死んでもいいけど、死んだらもうあの子に会えないし、生きようと思った。でも、あの子と二人きりになれたのは、その日が最初で最後だった。僕のあとにあの子が来るまでの間に、あの子の友達が入ってくるからだ。その子はいつもその時間に来るんだけど、あの日はたまたま遅れたのだそうだ。あれ?「あの」とか「その」とかばっかりで何がなんだか、よくわからないな。まぁ、こういうのって、よくわからないものじゃないですか?

その日から僕は毎朝、教室の扉が開くたびにそっちを向いた。あの子の友達が入ってきても、田代くんが入ってきても、他の誰かが入ってきても、とにかく、あの子がまだ入ってこない状況下において扉が開いた場合には、いつも、あの子かもしれないと思い、そっちを向いた。かといって、あの子だった時だけ露骨にテンションが上がってしまうことは避けたかったから、極力誰が入ってこようとも、同じ態度をとることにしたんだけれど、元気よく挨拶してくれるのはあの子だけだったから、不自然にならない程度には、他の子たちが入ってきた時よりも、「あなたが教室に入ってきたことの喜び」を表現してみた。不自然にならない程度ではあったけれど、本当は「他とは違う僕」のこと、あの子にだけは気付いてほしいと思っていた。

「おはよ!」

あれから2年。
去年はコロナで足つけ神事が中止になった。あの子、毎年行くって言ってたのになー、ってぼーっとしながら考えていた。

2年はあの子と違うクラスになってしまったけど、朝は同じ時間に登校して、あの子が学校に来るタイミングを見計らって廊下を歩くことにした。

「おはよ!」

あの子の声を朝聞くためだけに早起きした。マスクをしていても、あの子の声はよく通る。前にテレビで誰かが「女は自分のことを好いている男のことはだいたいわかる」と言っていたけど、あの子も僕の気持ちをわかっているのだろうか。わかっていてほしいし、わかっていないでもいてほしい。わかっていてこれまでと何も変わっていないのなら悲しいし、わかっていないからこれまでと何も変わっていないのなら、ええ加減、気付いてくれよと思う。別のクラスの男が毎朝必ず同じタイミングで廊下を通り過ぎることを、少しくらい、変だと思っていてほしいけど、本当に変な男だと思われているかもしれない。マスクはちゃんとしているから、本当に危ないやつだとは思われていないと信じたい。

3年になり、今年もまた、あの子とは違うクラスになった。廊下での挨拶は変わらず続けている。マスクをしていないあの子の記憶がぼやけている。こんなことなら1年の時にもっとあの子の顔を見ておくのだった。記憶に刻みつけておけばよかった。まさか2年後に鼻より下の記憶が曖昧になるとは思わないじゃないか。あの子の鼻や唇が露わになっているところを、僕はスカートの中を想像するかのようにして思い浮かべていた。

2年前よりも去年よりも、あの子の「おはよ!」を聞くためだけに学校に来ていた。みんなマスクはしているけれど、去年と比べると、さほどコロナを気にしていないように思えた。去年あれだけ言われたソーシャルディスタンスを気にするやつも少なくなった。教室は窓は開いているけれど、密集と密接はもはや誰も避けていなかった。それでも僕は怖かったから、なるべく級友たちとも近づかないようにしていた。自然、向こうも僕に近づかなくなった。それで僕はいいと思っている。マスクを着けてソーシャルディスタンスを保ち、三密を避ける。すべて満たしたうえでの学校生活であり、人間生活であるべきなのだ。一番風通しのいい窓際の席で、僕は1時間目から6時間目まで、授業を聞いているようで、朝の「おはよ!」を思い出しているだけだった。

本当は、「しもがもさんの足つけ神事」にて、「偶然」、あの子に会うことで運命めいたものを感じたいと思っていたんだけれど、そんな夢みたいなお花畑みたいな理想よりも、何より実益が欲しかったから、あの子とばったり出くわすまで、何回でも何回でも通い続けてやろうと思っていた。

「しもがもさんの足つけ神事」には初めてきた。下鴨神社に来たのもはじめてだ。炎天を遮る鬱蒼とした森を抜けると、色だけは爽やかな青空に門の朱塗りが映える。舞殿を回り込むと池の入り口。おじいちゃんおばあちゃんが多いけど、若い人たちもちらほら。しかし一人で来ているのは僕くらいのものだ。入口で300円支払い、靴入れ用のビニール袋をもらい、裸足になり、供える用のロウソクをもらうと、御手洗池へと向かう。生命力満ちる木々の緑に囲まれた太鼓橋をくぐると膝下くらいの深さの池。足をつけると想像以上に冷たい。あの子はいつも、どんな格好をしてこの池に入っているんだろう。わかっていたら僕だって半ズボンにサンダルで来たんだけれど。足をつけるっていっても神社の神事なんだから、それなりに畏まった格好で行かないといけないって思うのが普通なんじゃないのかな。

とにかく僕には何でもいい。畏まった服装で来てはいるものの、おかげでダラダラ汗は流れているものの、僕は別にここの神様に何も求めてはいない。偶然を装ってあの子に会いたい。ただそれだけ。ワクチンを接種済みだからなのか知らないが、マスクをしていないおじいちゃんおばあちゃんも多い。屋外だからか知らないが、マスクをしていないカップルも多い。そういえば、あまり男同士女同士っていう組み合わせは見ない。

あの子が来るかもしれないからっていう、ただそれだけの理由で僕は、いま御手洗池に足をつけている。そろそろと足を進めて、池の端のろうそく立てに、ろうそくをお供えして無病息災を祈願するって言っても、別に僕は無病息災なんて要らなくて、どちらかというと紆余曲折経て、あらゆる困難を乗り越えて、ただの同級生だった目立たない男の子が、私にとってかけがえのない存在になりました。っていう、その時のあの子の神妙な面持ちのち満面に笑みってやつを期待しているわけであり。

ジリジリと照りつける太陽光に対抗する日除けの帽子すら被っていない僕は、いくら足元が冷たいとはいえ、直射日光に耐えきれず、池の向こうに設られたテントのなかの木のベンチに腰かけた。

「涌井くん?」
驚いて振り返れば、2mほど先にら同じクラスの山極みどりさんがいた。マスクで半分顔は見えないが、出席番号が前後ろだからわかった。ちゃんと水に濡れないように膝丈のハーフパンツを履いていた。
「お母さんと一緒に来てるんやけど、今日はなんか知ってる子によ〜会うわ〜」
気にしたことなかったけど、こうして見るとけっこうかわいいな、と思った。
「他にも誰か来てたん?」
「そやねん」と山極みどりさんが答えたところで、よく通る「あー!つめたーい!」という声が聞こえてきて心臓が止まるかと思った。あの子がいた。山極みどりさんのかわいさなんぞは何もなかったことになった。声のほうを振り向くと、大きめのTシャツに短パンのあの子が、マスクをアゴにずらして、鼻も唇も剥き出しにして笑っていた。僕はブラジャーからこぼれたお乳を見ているような気分になり、普段の僕ならコロナ禍への意識の低さに危険を感じるにもかかわらず、どちらかといえば、幸運を感じてしまっていたのだが、セミヌードのあの子の笑顔の行方には田代くんがいた。二人は手を繋いでいた。田代くんにいたっては、アゴにもマスクをかけていなかった。

膝下がじんじんしている。
2年と少しの間、人知れず育ててきた思いの花は驚くべきスピードで萎んでいった。ジェラシーの炎は、本来ならさらに燃えさかるはずの、繋がれた手と手によって、さらには装着しないマスクによって、実にあっさりと鎮火してしまった。同じ日同じ時に足つけ神事に来た偶然は何の価値もなくなった。二人に見つからないように僕はその場を離れた。もうお母さんのところへ行ってしまった山極みどりさんの、さっき何もなかったことにしたかわいさを、何かがあったことにしたくなった。もはや、そっちの偶然が喜ばしかった「しもがもさんの足つけ神事」であった。

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↓一個前に書いたやつを大幅に変えましてん。

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