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言葉と写真と探求の根と【13歳からのアート思考】

小学生のころ、ピアノのレッスンが苦手だった。先生のところ行く前に「今日休みたいな…」って思うくらい。

習い始めたきっかけは、習っていた姉が練習したあと、ぼくが鍵盤を弾いて遊んでいたことだった。

窓辺に置いてあった、ヤマハのグランドピアノ。白い板を押すと音が出る、黒い箱。小学1年生の僕には仕組みがわからなかったから、その箱には魔法がかかっているようにみえた。

金色で控えめな文字と赤いフワフワしたシート、日常では見かけない光沢は、日々をおくる家のなかでひときわ異彩を放っていて、そこだけポッカリと別世界みたいだった。

毎週土曜日の午後、レッスンから帰ってくると姉は復習がてらピアノを弾く。窓から木漏れ日をうけながら、気にするそぶりもなく魔法の箱で、音楽を紡ぎだす姉の後ろ姿。幼心にうっとりとした。

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だから少しだけ、ぼくもその白い板を押してみた。おそるおそる、けれど加減が分からないから力を込めて、板を押す。

音は出るだろうか? 出たとして姉のような綺麗な音になるのか? 何か大変な事態になってしまわいか? 子どもの一瞬はとても長い。

けれど次の瞬間、刹那の不安を破裂させたように、細く美しい確かな音が鳴った。

そこからは夢中だった。一心不乱に白い板を押して、箱からはカラフルな音が響き出した。板の間に生えている黒い棒からも音が出たときはびっくりしたけれど、そんなことすぐにどうでもよくなった。

その日から僕は、「鍵盤」という単語も知らないまま、何度も板を押す遊びをする。黒い箱はいつだって鮮やかで美しい音を生み出してくれた。

やがて母がこの遊びに気がつき、僕にこう持ちかけた。

「音出すのが楽しいの? ピアノ好きなんだね? じゃあ習ってみよう!」とんとん拍子で習い始めたピアノ。けれど、いまいちがんばれなくて、なんだかんだでやめてしまった。今はとなっては弾ける曲もない。

あの頃の僕には「白い板を押すと音が出る」ってことが楽しかったわけで、正直、曲を弾くってのはあんまりピンときてなかった。し、最後までこなかった。

サッカーもそう。「ボールを蹴ると跳んでいく」のが楽しかった。サッカーの場合は、幼稚園から高校生まで、10年以上続けて、もう少し楽しみも見つかったけど、その分嫌いなことも見つかった。

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社会は歪だ。何かを楽しむとき、子どものうちからそうさせられて、大人になればなるほど「教科書通りに」「プロの言う通りに」「上司の言う通りに」という考えに囚われていく。

何かを好きと語るには、世の中の手順に従わなければならない。そしてそれは、上手いを目指さなければならない。気持ちはたいして関係なく、競争が社会の全てなのだ。高校を卒業したばかりで大学生活も始まっていないのに、悟りと諦めを知った。

けれど大学生が終わるころ、僕はまた同じ轍を踏むことになる。言葉と写真だ。決してうまいとはいえず、自身の世界観すら危ういこの二つに、それでも僕はどうしようもなく魅せられていった。

じりじりと近づいてくる不安から逃げるように、それぞれに邁進した。上を目指せば、上手くなれば、失望することもない。けれど忙しさで得られたものは安心ではなく、さらなる不安だった。

人の気持ちを感じる力が薄れて、文章が平坦に見えるようになってしまった。カメラは他人の視点を気にして、シャッターを切るのをためらうようになってしまった。

不安が怯えにかわっていったころ、「13歳からのアート思考」に出会った。雨の降る御茶ノ水駅、JRの御茶ノ水橋出口すぐの三省堂書店。夏の終わりを体現したかのようなぬるい日だったことを覚えている。

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「自分だけのものの見方」で「自分なりの答え」を見つけるのが、この本で説明されているアート思考だ。アートを植物に例え、製作された作品を「表現の花」、活動の根源となる「興味のタネ」、そして作品が生み出されるまでの興味に基づいた探求の過程を「探求の根」とし、各章で歴史と共に深まっていったアートの歴史を解説していく。けれど必ずしも本の内容が正解というわけではなく、自分なりの楽しみ方が見つかればその側面から楽しめばいい。

ものの見方も、答えも、きっと楽しみ方も、自分だけの感じ方でいい、そもそも最初から制限なんてないのだ。この本はどす黒くこびりついた僕の怯えを、やわらかく前向きな楽しみにしてくれた。

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自分なりの楽しみ方。

写真の場合は、「目の前の光景が映し出せる」「こんなこともできるんだ」という部分。背景をぼかしたり、レタッチで色をつくってみたり、夜の暗さを映し出してみたり。カメラという機器自体がおもしろいから、シャッターを下ろすことが楽しい。もし誰かが価値を感じてくれるなら、これ以上にないほど嬉しいと思う。

でも言葉の楽しみはもっと別の場所にある。「言葉が連なって文章になる」だけじゃなくて、「言葉が持つ本来の意味以上を組み合わせて奥深さを表現する」だったり「言葉にできない気持ちがあらわせる」だったりができるが楽しい。

例えば「優しい言葉」という文が優しさだけでなく、暖かさや思いやりをあらわすように。「金木犀の香り」が切ない記憶を感じさせるように。「あの夏」と書けば、読む人それぞれが思い出にある夏へ繋がっていくように。きっと言葉には言葉にできないほどの可能性が詰まっている。

だから、なんでこの仕事してるの? や、なんでこの商品作ったの?とか、自分が気になることを取材して、自分なりの言葉を駆使して、記事にして、読む人それぞれがそれぞれに、おもしろさを感じてもらえればいいなって思う。

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これが僕なりの人生の楽しみ方。僕が咲かせたい、表現の花。言葉と写真の探究の根は、ずっとずっと、遠く彼方まで続いていきそうだ。




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