お忙しいところ読んでいただきありがとうございます。新年そうそうnoteを再開してみたazyaseです。よろしくおねがいします。 今回は「褒めマネジメント」について書いてみたいと思います。 メリット・誰でもできる ・疲れない ・ネガティブな要素がない 一番のメリットは「誰でもできる」ってこと。才能とかキャラとかそういうの不要なんです。誰にでも出来る万能薬みたいなものなんですね。で、もう一つが怒るマネジメントよりも精神的に楽なんです。メンタル消耗しない。イライラしたりと
前の文章の続きというか追記というか思ったことを書いてみる。 お釈迦様の話で幸と苦という話も出てきた。で、お釈迦様は苦行されていた時代があったと。お釈迦様と自分を比べるというのも怒られることかなとは思うけど、お釈迦様も幸と苦の間をジェットコースターみたいに行ったり来たりしていたのではないだろうかと思った。 たぶんジェットコースターのように幸と苦を反復するそれ自体を求めていたのではないだろうか。この幸と苦の反復は言い換えると、目の前にあることを拒絶していくような姿勢とい
横浜市港南区の真宗大谷派横浜別院の定例法話にお参り。 http://www.yokohama-ootani.com/honganjiy/index.html この別院では9日と18日と28日に定例法話会が行われているので、スケジュールが合った時に参拝させて頂いている。数ヶ月に一度ぐらいしか行けないけれど。 昨日のお話は、2月はお釈迦様と聖徳太子のご命日ですね~から始まり、お釈迦様の人生を簡単に振り返ってみましょうというお話だった。四苦のお話や随心や随機とかそういう話
たまに思うことがある。こんなことを考えている人はあまりいないのではないだろうか。こんなことで悩んでいるのは自分だけではないだろうかと。 ひとり孤独を感じることもあれば、自分の居場所はいったいどこに行けばあるのだろうかと思うこともある。みんな居場所があって羨ましいなとか。 お前は何をしたいのだ?と問われれば、自分でもよくわからない。なにかやりたいことはあるのだけど、はっきりとは言えない。その都度その都度色々なことをやりたい。みんなやりたいことがハッキリしていて楽しそう
世の中には憧れてしまうような格好いい人が沢山いる。ミュージシャンであったり、作家であったり、哲学者であったり。もちろん身近にもそのような人はいるだろう。 そのような人の行いを見たり聞いたりしていると、自分も何かしたくなったくる。極端にいえば、今の仕事や日常生活が嫌になってくる。嫌になってくるというよりも、もともと嫌なものなので、どうしてもそこに目が行く。 自分はこんな生活をしていていいのだろうか?自分は本当にこんなことをしていていいのだろうか?こんなことやっていて意
昨日、鷲田先生の言葉を考えてみた。水をやるように自分で大切にしていくから大事なものになる。そうなのかなという気もするけれど、全てを大事にするようなことが果たしてできるのか。 こう書いていて自分でも驚くのだけど、まだ出来るか出来ないかを考えてしまっている。こういう話は出来るか出来ないかではないだろう。大事にしようとすることそれ自体が大切なことなのだろう。 とは言っても、すべてのことなんて考えられない。知らず知らずのうちに流れていってしまうことの方が多いだろう。でもやは
日々、時間に追われ、やらなければいけないことに追われ、そのように過ごしているうちに大事なものを見失っていくような感覚になるのは何故だろうか。 鷲田清一先生は著書『わかりやすいはわかりにくい?』ちくま新書の中でこう述べている。 ”人にとって大事なことほど見えにくい。最後まで見えないかもしれない。たとえば<わたし>、その存在の意味、生きることの意味、死の意味・・・・・・。しかしその答えのすぐには見えないこと、ひょっとしたら最後まで見えないかもしれないことを、ひとびとは大事
世の中をすべて理解している自覚は無いが、世の中のすべて理解出来るのではないだろうかという大きな大きな誤りを前提に生きている。 面白いと言って良いかわからないが、例えば哲学者や思想家の書くものや話すもの。彼等の言っていることは一つの色眼鏡であって、世の中をどう見るかのモノサシだ。 だけれどもそのモノサシは「完成」しているものではない。世の中のすべてのことを記述しているものでもない。彼等はそれを前提にしている。どこまで行っても、全てを記述すること、すべてを俯瞰することは
「人」は政治、経済、法律、道徳、宗教、学問、芸術etc・・・。によってその振る舞いが決まるものと思っていた。実際にそれはその通りなんだと思う。「人」はそういうものだと思う。 私はそれをそのままそのようなものだろうと考えていたし、自らオリジナルを生み出している感覚も希薄であり、様々な尊敬している人の真似をしていいればいいのだと。「人」はそういうものだからと思い何の疑いもなかった。 たしかに「人」というものはそういうものだろう、だけれど一般化された「人」を記述したものに
問うということ なにかにつけて意味を求めてしまうもの。例えばこんな仕事をしていても意味あるのかな?こんな場所にいて意味あるのかな?こんな人生で意味があるのだろうか?って思うことがある。 そうやって意味を求めてしまうのは、よく考えると他人と比べた相対的のものだ。つまりそれは経済的に成功していたり、地位や名誉があったりと他人から羨ましがられるようなものだと思う。 経済力や地位や名誉や権力は誰もが欲しいものなのかもしれない、でもそれを持っている人は一部の人たちであって、世の
方向性 この数カ月はあまり良い感じではなかったかもしれない。今思えば遠回りのような感じだったけど、その中で学んだことを書いてみたいと思う。 何をしていたかと言えば、フロイトを読んだり、上野千鶴子先生の本をカジッたりしていた。去年はデモなんかにも行ったりしたかな。彼女とは相変わらず付かず離れずで2年が経とうとしている。哲学的なことをかじりつつわかったようなわからんようなそんな気楽な日々を過ごしていたり、デモのこと考えたりしているうちに、仕事もなんだか流されるように日々がすぎ
底を抜くといふは、敵とたゝかふに、其道の利を以て、上は勝と見ゆれ共、心をたえさゞるによって、上にてはまけ、下の心はまけぬ事あり。其義においては、我俄に替りたる心になって、敵の心をたやし、底よりまくる心に敵のなる所、見る事専也。此底をぬく事、太刀にてもぬき、又身にてもぬき、心にてもぬく所有り、一道にはわきまへべからず。底よりくづれたるは、我心残すに及ばず。さなき時は、のこす心なり。残す心あれば、敵くづれがたき事也。大分小分の兵法にしても、底をぬく所、能々鍛錬あるべし。 講談社
仕事で失敗をすると、まわりにギャーギャー言われて嫌な気持ちになる。 でも、よくよく考えてみると「失敗できる」っていうのは実は嬉しいことだよ。失敗するってことは自分がプレーヤーなわけだよね。その他は観客。野球やサッカーの試合で観客席から応援も飛んでくれば、ヤジも飛んでくる。 だから失敗するって別に悪いことじゃない。 俺は観客席になんか座らないぞと自分を励まし今日も仕事に行ってくる。